変わりゆく日常

 潮風学園 11時頃


「皆さん、落ち着いて下校してください!」

 生徒たちが校門から去っていくのを確認し、シホは深く息を吐いた。生徒会長としての責務を果たした安堵感と、この先の不安が入り混じった複雑な感情が胸を締め付ける。

「さてと、こちらの準備も進めなきゃね」

 体育館の方を向き、シホはそう呟いた。

 この学園……潮風学園の体育館倉庫は普通のそれよりもはるかに大きい。

 そもそも体育館自体の大きさが、生徒数と不釣り合いなほど大きく、普段の集会などでも余裕があるくらいだ。

 その体育館倉庫は、中でもいくつかのエリアに分けられていて、普段生徒が立ち入りできるエリアには普通の体育道具やマットレスが並んでいる。

 シホはその空間を通り抜け、職員室で借りた鍵を使って立ち入り禁止のエリアに入る。

 中を空けると、ほんのりと冷気が漂ってくる。どうやら冷房が付いているようだ。電気をつけ、中を確認する。

「うん、ちゃんとあるわね」

 シホの眼前には、何百枚もの新品のマットレスと、ブランケット、そして医薬品や携帯トイレなどの災害時に活用されそうな備蓄品が並んでいた。

「さて、じゃあ準備をしなきゃね」

 シホは、自分の身体ほどもあるマットレスを一枚持ち、倉庫の出口へと向かった。

「ふぅ……」

 シホは、マットレスを運び終え、額に浮かんだ汗を拭った。

「とりあえず、今日やれるとこまでは進めたいわね……」

 シホは、マットレスを体育館の床に敷き、その上にブランケットを敷く。

 その作業をしばらく繰り返していると、体育館の入り口から声がした。

「シホ、大丈夫?」

「生徒会長! 水臭いです。私にも手伝わせてくれればいいのに!」

 担任のホシノ先生と生徒会副会長のアヤノが声をかけてきた。ホシノ先生は、まだ20代後半の若い女性教師で、生徒たちからの人気も高い。アヤノの方は、ポニーテールと真っ直ぐ切りそろえた上品な紫色の髪が特徴的な女の子だ。やたらと勝気で、シホにつっかるところがたびたび目撃されている。

「ホシノ先生、アヤノさん……ありがとうございます。でも、これは私が勝手にやっていることですから」

「でも、本当に私たちにも手伝わせてね」

 ホシノ先生は、真剣な眼差しでシホを見る。

「はい、ありがとうございます」

 シホは、素直に感謝の言葉を口にした。

「じゃあ、早速始めましょう」

 ホシノ先生の指示に従い、シホとアヤノはマットレスの上にブランケットを敷く作業を始めた。

「それにしても、すごい量ですね。これ全部新品ですか?」アヤノが感心したように言う。

「ええ、一応予備ということになっているけど」

「にしてもすごい量ですね、表にある数の何倍もありますよ」

 シホは半ばあきれたように呟く。途方もない作業量に若干の嫌気がさしているようだ。

「そうね、でもやるしかないわ」

 ホシノ先生が励ますように言葉をかける。


 体育館の床に、一枚また一枚とマットレスが敷かれていく。シホは、額に浮かんだ汗をタオルで拭いながら、ホシノ先生とアヤノに視線を向けた。

「今日はここまでにしましょう。二人とも、本当にありがとうございました。おかげでだいぶ片付いたわ」

「いいのよ、シホちゃん。大変な時こそ、みんなで協力しなきゃね」

 ホシノ先生は、いつもの優しい笑顔で答えた。その言葉に、シホは感謝の気持ちでいっぱいになった。

「それに、生徒会長がこんなに頑張ってるんだから、副会長の私も手伝わないわけにはいかないでしょう」

 アヤノは、少し意地悪そうに笑った。いつもはライバル視している二人だが、この異常事態を前に、自然と協力体制ができていた。しかし、アヤノの視線は、山積みになった備蓄品へと移り、その表情は真剣なものへと変わった。

「それにしても……なぜこの学校はこんなに設備が整っているのかしら」

 アヤノは、まるで推理小説の探偵のように、顎に手を当てて呟いた。

「そうね、確かに不思議よね」

 ホシノ先生も、アヤノの言葉に同意するように頷いた。

「地域の一大災害拠点にするって噂は聞いたことがあるけど、それにしても、ここまで充実しているとはね。こんなにたくさんの備蓄品や医療品、一体誰が用意したのかしら?」

 アヤノは、首を傾げ、あたりを見回した。

 その時、二人の背後に人影が現れた。

「何やら楽しそうな話をしているようだね」

 イノウエ教頭が、穏やかな口調で話しかけてきた。

「あ、教頭先生。お疲れ様です」

 ホシノ先生が、振り返って挨拶をした。

「教頭先生、ちょうどいいところに。なぜこの学校はこんなに設備がいいのか、教えていただけませんか?」

 シホは、教頭先生に単刀直入に尋ねた。

 イノウエ教頭は、一瞬表情を曇らせたが、すぐにいつもの冷静な顔に戻った。

「それは……君たちには関係のないことだ。今は、目の前のことに集中しなさい」

 教頭は、そう言い残すと、足早に体育館を後にした。その言葉は、まるで冷たい刃物のように、シホの心に突き刺さった。

「関係ないって……どういうことかしら?」

 アヤノは、教頭先生の態度に不信感を露わにした。

「さあ…でも、今は帰りましょう? あまり遅くなると家族が心配するわ」

 シホは、アヤノの言葉を遮り、早く帰るように促した。しかし、彼女の心には、教頭先生の言葉が引っかかっていた。この学校には、何か隠された過去があるのだろうか。そして、それは、この異常事態と関係があるのだろうか。

 シホは、その疑問を胸に秘めながら、体育館の戸締りをし、帰りの支度をした。


 *


 カフェ 「翠嵐」


 異常事態の始まった今日、リカのカフェはいつもより遅れて開店した。

「店長、おはようございます」

 アキは、少し緊張した面持ちで店内に入ってきた。カフェの内装は木の温もりを感じさせる落ち着いた雰囲気で、壁には地元アーティストの絵が飾られている。外はどんよりとした紫色の空が広がり、街の様子も普段とは少し違って見える。

「あら、アキちゃん、おはよう。今日はごめんね、お店開くか迷ったのだけど」

 リカは、エプロンを身につけながら、笑顔でアキを迎えた。アキは、茶色のポニーテールがよく似合う、大人な魅力と少女の魅力を兼ね備えた女性だ。

「いえいえ全然。それにしても、遅れてすいません。電車が全然来なくて……それに、街もなんだか少し物騒でしたし……」

 アキは、不安そうに周囲を見回す。

「気にしないで。そうよね……でも、大丈夫。きっと、なんとかなるわよ」

 リカは、アキの肩を優しく叩き、励ますように言った。

「はい……!」

 アキは、リカの言葉に元気づけられ、笑顔を取り戻す。

 その時、奥の厨房から、もう一人のアルバイト、アマネが姿を現した。少し童顔でぱっつんサイドロールの髪型がよく似合う女の子だ。

「なにやってるのじゃ。お客様が来たんじゃが」

 アマネは、いつも通りの古風な口調で、二人に注意する。

「あら、タニガワさん、いらっしゃい」

 リカは、常連客のタニガワに気づき、笑顔で挨拶する。

「おはよう、リカさん。アキちゃんにアマネちゃんも」

 タニガワは、カウンター席に座りながら、三人に声をかける。

「あら、タニガワさん、こんな時に来て奥様に何も言われなかったのですか?」

 リカが尋ねる。

「いやー、妻には止められたんだがね。ここに来ないと、むしろ落ち着かなくてね」

 タニガワは、苦笑しながら答える。

「そうですか。コーヒー、いつものでよろしいですか?」

 リカは、笑顔でタニガワに尋ねる。

「ああ、頼むよ」

 タニガワは、安堵の表情で頷いた。

 リカは、コーヒーを淹れながら、アキに話しかける。

「ヒロくんたち、今おうちに二人だけだし、大丈夫かなぁ」

「そうですね……ユキちゃん、ちょっと心配ですよね」

 アキも、不安そうな表情を浮かべる。

「あら、いざとなったら、昔みたいにうちでお泊りする?アキちゃんも、一緒に来ていいのよ」

 リカは、二人を優しく誘う。

「ううう、もうそんな歳じゃないですよっ、店長!」

 アキは、顔を赤らめながら、慌てて断る。

「ふふふ、冗談よ、冗談」

 リカは、楽しそうに笑う。

「じゃから、仕事中じゃ」

 アマネが二人をたしなめる。

 カフェには、いつもと変わらない穏やかな時間が流れていた。しかし、窓の外に広がる薄暗い空は、この日常が長くは続かないことを、静かに告げていた。


 *


 ワイドショー「モーニングブラスト」のスタジオ。


 司会のハセガワは、いつものように明るい笑顔でカメラに向かって語りかける。

「いやー、しかし今朝は驚きましたよ!  皆さん、太陽が昇らなかったんですよ!」

 彼は、両手を広げて、大げさなジェスチャーをする。

「えー、今日はですね、この異常事態について、いつもの専門家の先生とコメンテーターの方々にお越しいただきました。先生方、よろしくお願いします!」

 ハセガワが、コメンテーター席に座る4人の方を向く。

「はい、まずは、社会学者の〇〇先生です。先生、今回の事態をどう見ていますか?」

 社会学者は、神妙な面持ちで答える。

「これは、未曾有の災害です。太陽が昇らないということは、私たちの生活、経済、そして社会全体に、計り知れない影響を与えるでしょう」

「なるほど……これは大変なことになりそうですね」

 ハセガワが、深刻そうな表情で頷く。

「続いて、お笑い芸人の〇〇さんです。〇〇さんは、この事態をどう思いましたか?」

 芸人は、いつものようにヘラヘラと笑いながら答える。

「いやー、寝過ごしたのかと思いましたよ。番組に間に合ってよかったです」

 彼の空気を読まない言葉に、スタジオは一瞬静まり返る。

「えっと……それは、冗談ですよね?」

 ハセガワが、困惑した様子で尋ねる。

「もちろん、冗談ですよ!  ハハハ!」

 芸人は、さらに大きな声で笑う。

「ええっと……続いて、アイドルの〇〇さんです。〇〇さんは、怖かったですか?」

 アイドルは、目を潤ませながら答える。

「はい、ちょー怖かったです。もう、どうなることかと思いました」

 彼女の中身のない言葉に、スタジオの空気はさらに重くなる。

「あー、では最後に、毒舌コメンテーターの〇〇さんです。〇〇さんは、政府の対応についてどう思いますか?」

 毒舌コメンテーターは、冷めた目で答える。

「遅すぎますね。こんな事態になってから、ようやく会見を開くなんて、国民をバカにしてるとしか思えません」

 彼の言葉に、スタジオは再びざわめき始める。

 ハセガワは、コメンテーターたちの意見を聞きながら、この異常事態で視聴率が上がることを期待して、内心ほくそ笑んでいた。


 その後、コメンテーターの発言も一巡し、中継へと移る。

「それでは、中継に繋ぎましょう。〇〇さん、現在の街の様子はいかがですか?」

 画面が切り替わり、レポーターが都心のオフィス街に立っていた。

「はい、ハセガワさん。時刻は正午を過ぎましたが、ご覧の通り、空は薄暗く、街行く人々は皆、不安そうな表情を浮かべています」

 レポーターは、足早に通り過ぎる人々にマイクを向ける。

「すみません、インタビューよろしいでしょうか? 太陽が昇らない状況について、どう思われますか?」

「え、えっと…正直、怖いです。こんなこと、今まで経験したことがないので…」

 若い女性が、震える声で答える。

「政府は、一体何をやっているんだ!  早くなんとかしろ!」

 中年の男性が、怒りを露わにする。

「私は太陽光発電関連の会社に勤めているので、会社が心配です……」

 スーツ姿の男性が、肩を落とす。

 画面は、スーパーマーケットの映像に切り替わる。店内は、買い物客でごった返しており、レジには長蛇の列ができている。

「こちら、都内の大型スーパーマーケットです。ご覧の通り、店内は人で溢れかえっており、棚から商品が消えるスピードも速いです」

 レポーターは、山積みの商品をカートに詰め込む人々を映しながら、状況を伝える。

「水や食料品、日用品などが飛ぶように売れており、店員たちは品出しに追われています。一部の商品では、すでに品切れも出ているようです」

 画面は、さらに切り替わり、国会の様子が映し出される。議場では、与野党の議員たちが激しく議論を交わしている。

「政府は、一体何をやっているんだ!  この異常事態に対して、具体的な対策を早急に示すべきだ!」

 野党議員が、声を張り上げる。

「政府は、全力を挙げて事態の収拾に当たっております。国民の皆様には、冷静な対応をお願いしたい」

 与党議員が、反論する。

「冷静な対応だと? 国民は、不安と恐怖の中で生きているんだぞ!  政府は、もっと責任を持って行動すべきだ!」

 野党議員は、さらに声を荒げる。

 議場内は、怒号とヤジが飛び交い、混乱を極めていた。

 画面は、再びスタジオに戻る。

「ご覧いただいたように、街は混乱し、人々の不安は高まるばかりです。政府は、一刻も早く、この異常事態に対処しなければなりません」

 社会学者が、厳しい表情でコメントする。まるで他人事のように、スタジオの空気はどこか現場から隔絶されていた。


 *


 早朝 首都某所


「太陽が昇らないって、マジかよ……」

 タケシは、タクシーの運転席で、スマホのニュース速報をスクロールしながら呟いた。ニュースには、ユーザーから寄せられた全国の空の様子が映し出されており、確かにそこには太陽がなかった。

「おいおい、冗談だろ? 太陽が昇らねえって、そんなバカな……」

 タケシの心中には信じられないという気持ちと、どこかワクワクするような気持ちが入り混じっていた。

「まあ、いいか。仕事、仕事」

 タケシは、気持ちを切り替え、エンジンをかけた。異常事態であろうと、客を待たせるわけにはいかない。それがプロのタクシー運転手だ。

 しばらくすると、一人の男が手を上げてタクシーを止めた。

「内務省までお願いします」

 男は、黒いスーツに身を包み、いかにも高級官僚といった風貌だった。

「かしこまりました」

 タケシは、丁寧に応じ、男を後部座席に乗せる。

「急いでください。時間がないので」

 男は、焦った様子でタケシに指示する。

「了解です」

 タケシは、ニヤリと笑うと、ギアを入れ、アクセルを踏み込んだ。

 タクシーは、猛スピードで道路を走り出す。信号が黄色に変わっても、タケシは減速する気配を見せない。

「ちょ、ちょっと……」

 男が、不安そうに声を上げる。

「大丈夫ですよ。俺の運転、舐めんなよ」

 タケシは、自信満々に言い放つ。

 タクシーは、車線変更を繰り返し、他の車を追い越していく。ドリフトでコーナーを曲がり、信号無視ギリギリで交差点を突破する。

「ひぃっ!」

 男は、恐怖で顔を青ざめる。

「どうしたんですか? 怖がりなんですね」

 タケシは、楽しそうに笑う。

「怖がりではなく、常識的と言ってくれ!」

 男は吠える。しかしタケシは全く気にも留めなかった。

「さあ、もうすぐ着きますよ」

 タケシは、さらにアクセルを踏み込む。

 暇だといわんばかりに、タケシは口を開く。

「しかし、お客さん。こんな時間にそんな場所とは、政治家? 公務員のお偉いさん?」

「あまりお喋りは好きじゃないんだ。ほっといてくれ……」

「ちょっとくらいいじゃないですか? 政府は何か掴んでいるんですか?」

「はあ……」

 この男に何を言っても無駄だと気がついた男は、窓の外の景色を見つめながら、呟くように言った。

「し、しかし、いったいどうなっているんだ……」

 タケシは、その言葉にハッとする。男は、政府関係者であるにもかかわらず、この異常事態について何も知らないようだ。

「政府も、何もつかめてないってことか…」

 タケシは、心の中で呟き、ハンドルを握りしめた。

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