憂悶の朝

「ただいま」

 ヒロが玄関のドアを開けると、ユキが勢いよく飛び出してきた。その勢いのままヒロに抱きつくと、そのまま崩れ落ちるようにしゃがみこんでしまった。

「お兄ちゃん!」

 ユキは、顔を上げると、大粒の涙をこぼした。安堵と恐怖が入り混じった感情が、彼女の小さな体を震わせる。ヒロは、しゃがみこんでユキを抱きしめ、背中を優しくさすった。

「ごめん、ユキ。一人にしてしまって…」

「ううん、お兄ちゃんが無事に戻ってきてくれてよかった…」

 ユキの言葉は、掠れてほとんど聞き取れなかったが、その声には、どれほどの不安と孤独を感じていたかが込められていた。ヒロは、ユキを抱きしめる腕に力を込めた。

「もう大丈夫だよ、ユキ。俺がそばにいるから」

 ユキは、ヒロのシャツをぎゅっと握りしめ、顔を埋めた。ヒロは、ユキの温もりを感じながら、彼女を守ることを改めて誓った。

 リビングのソファにユキを座らせると、ヒロは温かいココアを淹れた。ユキは、ココアを一口飲むと、少しだけ表情が和らいだ。

「お兄ちゃん、学校はどうだった?」

「ああ、半分くらいしか来てなかった。それに今日からしばらく休校になったよ」

「そうなんだ」

 ユキは、兄と居られる時間が増えることに少し嬉しそうに呟いた。

「でも、みんな、太陽が昇らないことに不安がってるみたいだ」

 ヒロは、頷きながら、ニュースサイトを開いた。画面には、「太陽消失、原因不明」「世界各地で混乱広がる」といった見出しが並んでいる。

「そういえばユキは家で何していたんだ?」

 どうしても暗くなりがちな話題を変えようと、ヒロはユキに尋ねる。

「えっとね、ユーパイプを見ていたよ」

 ユーパイプ、それは世界一有名な動画共有サイトだ。ヒロも暇なときはよく見ていた。

「そこでね、スイウちゃんって推しのVtuberさんが配信してたから見てたんだ。おかげでちょっと寂しさがまぎれたよ」

「そうか、それは良かった」

 ヒロは、姿も知らぬVtuberに感謝しながら答える。


 しばらく雑談して、ユキが落ち着いたことを確認してから、自室に戻る。

「タクミ、何か新しい情報あった?」

 ヒロは、スマホでタクミと通話を繋ぎながら、情報を共有していた。

「いや、特に目新しい情報はないな。政府も専門家も、まだ原因を掴めていないようだ」

 タクミの声は、いつも以上に重く聞こえた。

「そうか…」

 ヒロは、ため息をついた。

 二人は、夜遅くまで情報収集を続けた。SNSでは、様々な憶測やデマが飛び交い、人々の不安を煽っていた。中には、終末論を唱えるカルト集団や、陰謀論を拡散する者もいた。

「ロクな情報がないな。俺の信頼する情報筋は事態を様子見して特にこれといった情報は流さないし」

 タクミがあきれたように呟く。

「しかし、こんな時なのにデマを流すなんて…」

 ヒロは、怒りを覚えた。しかし、同時に、人々が不安に駆られていることも理解できた。誰もが、この異常事態に答えを求めているのだ。

「まったく、情弱どもはこんな胡散臭いものにながされるから嫌になっちまうぜ」

 タクミは見下したように言葉を吐いた。

「おい、そう言い方は角が立つからやめとけって言ってるよな」

「ああ、悪い悪い」

 ヒロの忠告をタクミは流す。彼らの間では幾度と繰り返された流れだ。

「お兄ちゃん、もう寝ようよ…」

 そんなことをしていると、ドアを勝手に開けて入ってきたユキが、眠そうに目をこすりながらヒロに寄り掛かる。

「ああ、もうこんな時間か。ユキちゃんにも悪いな」

「ああ、そうだな。ユキも疲れてるだろうし、今日はお開きにするか。タクミも遅くまでありがとうな」

 ヒロは、通話を切るとユキを寝室へと連れて行った。ベッドに横たわるユキの髪を優しく撫でながら、ヒロは静かに語りかけた。

「大丈夫だよ、ユキ。俺がそばにいるから」

 ユキは、ヒロの手を握りしめ、ゆっくりと目を閉じた。ヒロは、ユキが眠りにつくまで、静かに彼女のそばに寄り添った。

 しかし、ヒロ自身は、なかなか眠りにつけなかった。窓の外は、漆黒の闇に包まれており、街灯の光も弱々しく感じられた。不安と恐怖が、ヒロの心を蝕んでいく。

「この暗闇は、いつまで続くんだろう…」

 ヒロは、天井を見つめながら、深くため息をついた。

 ユキがスースー寝息を立てて寝ているのを見ていると、いつの間にか意識が遠のき、ヒロは寝てしまった。


 朝が来た。しかし、窓の外は、相変わらず暗闇に包まれていた。ヒロは、絶望感に襲われる。この暗闇は、永遠に続くのだろうか。

「お兄ちゃん、おはよう……」

 ユキが、眠そうに目をこすった。

「おはよう、ユキ」

 ヒロは、ユキを抱きしめ、力強く言った。

「大丈夫だよ、ユキ。きっと、また太陽は昇るさ」

 ヒロは、そう信じるしかなかった。しかし、彼の心には、拭い去れない不安が広がっていた。この暗闇は、一体何を意味するのか。そして、この先、何をすればいいのか。

 不安と絶望に耽っていると、ヒロのスマートフォンが、けたたましい電子音と共に振動した。画面には、学校からの一斉メールの通知が表示されている。件名には「【重要 再通知】休校期間延長のお知らせ」の文字。ヒロは、メールの内容を確認しながら小さく呟いた。

「やっぱり今日も休校か…」

 その横で、ユキが不安げな表情でこちらを見ている。ヒロは、妹の不安を少しでも和らげようと、努めて明るく振る舞った。

「ユキ、朝ごはん何がいい?」

「えっと……フレンチトーストがいいな」

 ユキは、少し元気のない声で答えた。

「わかった。じゃあ、作ってくる」

 ヒロはキッチンへ向かい、手際よくフレンチトーストを作り始めた。卵を溶き、牛乳と砂糖を混ぜ、パンを浸す。フライパンでバターを熱し、パンを両面こんがりと焼き上げる。甘い香りが部屋中に広がり、ユキの表情も少しだけ明るくなった。

「いただきます!」

 ヒロがテーブルにフレンチトーストをのせると、ユキは待ちきれない様子で手を合わせた。一口食べると、サクッとした食感と共に優しい甘さが口いっぱいに広がる。

「うん! 美味しい!」

 ユキは満足そうに笑った。ヒロも微笑みながら、「良かった」と返す。二人は朝食を楽しみながら、ささやかな時間を過ごした。


 朝食を終えた後、ヒロはユキに提案した。

「ユキ、一緒に買い物に行かないか?」

「え……でも……」

 ユキは、少し戸惑った様子を見せた。

 ユキはめったに外に出ない。それゆえに髪も伸びっぱなしで、肌も色白だった。

 ヒロとしても、ユキを外に連れ出すのは不安だったが、昨日は一部商品がおひとり様一限になっていたりしたし、なによりこの状況がいつまで続くかわからない中、出来るだけ買える量は増やしたかった。

「大丈夫だよ。僕がそばにいるから」

 ヒロは、ユキの手を握りしめ、優しく微笑んだ。その温かさに、ユキは少しだけ勇気をもらった。

「うん、行く」

 ユキは、小さく頷いた。ヒロは、ユキの手を引いて、家を出た。

 近所のスーパーマーケットへ向かう道すがら、ヒロはユキに話しかけた。

「ユキ、何か欲しいものある?」

「えっと……卵があれば嬉しいな。またフレンチトースト食べたい」

 ユキは、少し恥ずかしそうに答えた。卵は、ユキの大好物だ。

「わかった。探してみるよ」

 ヒロは、ユキの頭を優しく撫でた。

 スーパーマーケットに着くと、昨日の混乱は嘘のように、店内は比較的落ち着いていた。それでも、一部の商品棚は空っぽになっており、異常事態の影響は確実に広がっていた。特に、水や缶詰、乾電池などのコーナーは、ほとんどの商品がなくなっていた。

「やっぱり、卵も売り切れみたい……」

 ユキは、空になった卵の棚を見て、肩を落とした。

「大丈夫だよ、ユキ。きっと、どこかにあるよ。諦めないで探そう」

 ヒロは、ユキを励ましながら、店内を歩き回った。しかし、卵はどこにも見当たらない。

「お兄ちゃん、あれ……」

 ユキが、人混みの中で、ある人物の姿を見つけて立ち止まった。それは、ユキが小学校時代に酷いいじめを受けていた男子生徒、カイトだった。彼は、仲間たちと連れ立って、カートいっぱいに商品を詰め込んでいた。その中には、大量の卵のパックもあった。

 ユキの顔色がみるみるうちに悪くなり、呼吸が荒くなってきた。過去のトラウマが蘇り、彼女の心を恐怖が支配していく。

「ユキ!  どうしたんだ!」

 ヒロは、ユキの異変に気づき、慌てて彼女を抱き寄せた。ユキは、ヒロの腕の中で、過呼吸を起こしているようだった。

「う、う、ううん。な、なんでもない。人、人にびっくりしちゃっただけ……す、すぐ落ち着くと思うからちょっと待って」

 ユキは、震える声で答えた。ヒロは、ユキの背中を優しくさすりながら、彼女の呼吸が落ち着くのを待った。

 しばらくすると、ユキの呼吸は少しずつ落ち着きを取り戻した。

「ごめんね、お兄ちゃん。心配かけて……」

 ユキは、涙を浮かべながら、ヒロに謝った。

「大丈夫だよ。無理しないでね」

 ヒロは、ユキを抱きしめながら、優しく言った。

 二人は、冷凍食品コーナーへと移動し、必要な食材を選んでいった。ヒロは、ユキが欲しがっていたお菓子をいくつかカゴに入れ、会計を済ませた。

 帰り道、ユキはヒロの手を握りしめ、しっかりと前を向いていた。

「お兄ちゃん、ありがとう」

 ユキは、ヒロに感謝の気持ちを伝えた。ヒロは、ユキの笑顔を見て、心から安堵した。

「これからも、ずっと一緒にいようね」

 ヒロは、ユキの頭を優しく撫でながら、そう誓った。

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