静寂の教室と狂乱の店内

 今朝はいつも通りの時間に家を出たはずなのに、街はまるで明け方のようだった。薄暗い街灯の光が、アスファルトを濡らす霧にぼんやりと反射している。人通りはまばらで、聞こえるのは自分の足音と、遠くから聞こえるサイレンの音だけ。

 ヒロは、不安な気持ちを抱えながら、人気のない道を歩いた。いつもなら、この時間帯は多くの生徒や通勤中の社会人で賑わっている通勤通学路も、今日は異様な静けさに包まれている。

「こんな朝、初めてだ……」

 ヒロは、思わず呟いた。見慣れたはずの風景が、どこか不気味で、まるで違う世界に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。

「ユキはなにしているかな……」

 ヒロは、家に残してきた妹のことを思った。あんなに怯えていたユキを一人にしてきたことに、罪悪感が胸を締め付ける。

「でも、大丈夫だ。すぐに明るくなるさ」

 ヒロは、自分に言い聞かせるように呟いた。しかし、その言葉に、彼自身も自信が持てなかった。一体、この世界はどうなってしまうのだろうか。

 不安を抱えながらも、ヒロは学校へ向かって歩き続けた。


 10分ほど歩き、最寄りの駅へとたどり着いた。いつもなら、この時間帯は通勤・通学の人々でごった返しているはずのプラットホームは、まるで終電前のように閑散としていた。不気味な静寂が、ヒロの不安をさらに掻き立てる。

 電光掲示板には、「異常気象によるダイヤ乱れのため、全線遅延」の文字が赤く点滅していた。ヒロはため息をつき、ベンチに腰を下ろした。

「こんな時でも、電車は動くんだな」

 しばらくすると、遅れてきた電車がホームに滑り込んできた。ドアが開くと、遅延の影響か予想外に多くの人々が降りてきた。その光景に、ヒロは少しだけ安堵感を覚えた。

「みんな、学校とか会社に行くのかな……」

 ヒロは、そう呟きながら電車に乗り込んだ。車内では、ほとんどの乗客がスマートフォンを手に取り、ニュースサイトやSNSをチェックしている。ヒロも自身のスマホを取り出し、画面をスクロールし始めた。

「遅刻確定だな……」

 時刻はすでに始業時間を過ぎていた。ヒロは、連絡ツールを開くと、妹のユキから何十件ものメッセージが届いていることに気づいた。

「あ、やべ」

 ヒロは慌てて返信を打った。「今、電車に乗ってる。もうすぐ学校に着くよ」

 数秒も経たないうちに、ユキから返信が届いた。

「心配してるんだよっ!  無事でよかった……」

 短いメッセージだったが、ユキの安堵と心配がひしひしと伝わってきた。ヒロは、申し訳なさと心配で胸が締め付けられる思いだった。


 電車は、目的の駅に到着した。大きな駅ということもあり、ホームにはそれなりの人影があった。少しだけ日常が戻ってきたような気がして、ヒロはホッとした。

「よし、学校に行こう」

 ヒロは、決意を新たにし、改札を抜け、学校へと向かった。校門には、数人の先生が立っており、生徒たちに声をかけていた。

「おはよう、ヒロくん。今日は遅刻扱いにしないからゆっくり教室に行ってね」

 担任のホシノ先生が、ヒロに気づき、声をかけてきた。

「おはようございます」

 ヒロは、先生に軽く会釈し、言われた通りのんびり校舎へと向かった。教室に入ると、すでに始業時間を過ぎているにもかかわらず、半分ほどの席しか埋まっていなかった。

「こんな状況なのに、半分も来てるのか……」

 ヒロは、驚いたような、呆れたような複雑な気持ちで、自分の席に座った。

 薄暗い蛍光灯の下、生徒たちはまばらに座り、誰もが不安そうな表情を浮かべている。ヒロは教室を見渡すと、一番後ろの席でスマホとにらみ合いっこしているタクミの姿を見つけた。いつも通り眼鏡が似合う、聡明そうな男だ。安堵の息を吐きながら、ヒロはタクミの隣へと歩み寄った。

「おはよう、タクミ」

「よう、結局来たのか」

 タクミはヒロの方を向き、わずかに口角を上げた。

「ああ、学校に来れば何かが変わる気がしてな」

 ヒロは苦笑しながら、タクミの隣の空席に腰を下ろした。

「しかし、何が起きているんだろうな」

 ヒロは、窓の外の薄暗い空を見上げながら呟いた。

「俺も朝からネットにつきっきりで調べてるんだが、さっぱりわからんというのが今のところの答えだ」

 タクミは、いつも通りの冷静な口調で答えた。

「ニュースでも原因不明だって言ってたしな」

 ヒロは、ため息をついた。確かな情報はなく、ただ不安が募るばかりだった。

 そこに、生徒会長のシホが現れた。ピンク色の髪をハーフツインにした彼女は、いつもと変わらぬ凛とした表情で、黒板の前に立った。

「おはよう、シホ」

 ヒロとタクミが声をかけると、シホは小さく頷いて応えた。

「クラスのみんな! ちょっと聞いてくれる? 今日は休校になったわ、各自気を付けて帰るように」

 シホの言葉に、教室内がざわめいた。

「やったぜ!」

 誰かが叫び、一部から歓声があがった。しかし、シホは眉をひそめ、毅然とした声で続けた。

「やったじゃないわよ。こんな状況なんだから、浮かれてないで家に帰って、身の安全を確保しなさい。何かあったら、学校のホームページで情報をチェックするように」

 シホの言葉に、生徒たちは再び静まり返った。ヒロは、シホの毅然とした態度に感心しながらも、この状況が一日で終わるとは思えなかった。

「これから、どうなるんだろうな……」

 ヒロは、不安げに呟いた。


 ほどなくして、ヒロとタクミは静まり返った校舎を後にした。足早に校門を抜け、二人は今後のことを話し合いながら、駅の方に向かった。

「この様子じゃしばらく休校だろうな」

 ヒロが呟くと、タクミは頷きながら答えた。

「それどころじゃない。このままじゃ社会がマヒするぞ」

「とりあえず、食料とか買っといたほうがいいな」

 二人は駅近くのスーパーマーケットへと向かった。しかし、店の前にはすでに長蛇の列ができており、人々は我先にと食料を買い占めようとしていた。

「まるで世紀末だな……」 

 タクミは、呆れたように呟いた。

 そんな混乱の中、ヒロたちは、一際目立つ少女の姿を捉えた。黒髪をツインテールに結い、大きな黄色の瞳を輝かせた少女は、黒を基調としたゴシック調のドレスを身に纏い、まるで異世界から迷い込んだかのようだった。彼女は、ノートとペンを握りしめ、すーっと息を吸うと言葉を放つ。

「我が名は光の巫女、ルミナス・プリーステス・マイ!  この世界を闇の眷属から解放する!」

 少女は、自らを「ルミナス・プリーステス・マイ」と名乗り、この異常事態を「闇の眷属」の仕業だと主張し始めた。彼女の突飛な言動に、周囲の人々は眉をひそめ、中にはあからさまに嘲笑する者もいた。

 しかし、マイはひるむことなく、持論を展開し続ける。

「みんなもよく知る通り、この世界は今、邪悪な闇の眷属によって覆い尽くされようとしている。そう、永劫の夜が訪れる。ナグルファルの船はすでに出向したわ、ラグナロクの到来よ!  奴らはあの輝く太陽を我が物とし、世界を混沌と恐怖に陥れようとしているの。

 だが、絶望するにはまだ早い!  なぜなら、私がここにいるから!  私は、前世で世界を救った光の巫女、ルミナス・プリーステス・マイ!  そして、古代の予言書に書いてある通り、再びこの世界に舞い降りた救世主なのよ!

 しかーし!  私の神聖魔力だけでは、かの強大な闇の眷属を打ち倒すことはできない。かつての戦いで、私と共に世界を救った伝説の勇者……そう、相棒の日輪霊力が必要なの!  相棒と力を合わせれば、この暗黒の時代を終わらせ、光あふれる世界を取り戻せるはず!

 だから、私はここに宣言するわ!  伝説の英雄たちの再来を、英雄譚の始まりを! 闇に怯え、絶望している暇はない!  今こそ立ち上がり、私に力を貸して!  光の巫女の力となるのです!  さあ、共に立ち上がりましょう!  この世界を覆う闇を打ち砕き、光を取り戻すために!  私の言葉に耳を傾け、私の導きに従いなさい! そうすれば、あなたは必ず救われる!  共に、ラグナロクに勝利を! そして、真の夜明けを迎えましょう!」

 どこからどう見ても痛々しい言動の列挙だが、その熱意と純粋さに、ヒロはどこか惹かれるものを感じた。

 しかし、反感の方が大きいようでマイの言動に苛立った男性が、「何バカなこと言ってんだ、このガキが!」と彼女に詰め寄ろうとする。

 その時、ヒロはとっさに間に入り男性を制止した。

「ちょっと、落ち着いてください!」

 ヒロの声に、男性は驚きマイから離れた。

 男性に凄まれているとき、マイはあからさまに怯え、さっきの威勢はどこへやら、まるで小動物のようになっていた。しかし、すぐに気を取り直し、再び胸を張って宣言した。

「私は光の巫女、ルミナス・プリーステス・マイと申します!  さっきは、助けてくれてありがとう!  あなた、なかなか良い度胸してるわね。気に入ったわ。あなたを私の相棒にしてあげる!」

 マイはヒロを指さし、高らかに宣言した。その言葉に、ヒロとタクミは思わず顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。

「ああ、よろしくな。マイ。俺はヒロ、こっちはタクミ」

 ヒロは、戸惑いながらもマイに手を差し伸べた。

「よろしく」

 タクミも、少し間を置いてから、短く返事をした。

「うんうん」と満足そうにうなずきながらヒロの手を取るマイ。

 こうして、ヒロとタクミは、思いがけない形でマイと出会い、奇妙な関係が始まるのだった。


 その後、3人はとりあえず買い物をしていこうということで意見が一致した。長蛇の列に並んだ。

 ようやく自分たちの番が回ってきて、自動ドアが開くと、そこは戦場だった。

「うそでしょ……」

 ヒロは思わず呟いた。見慣れたスーパーマーケットの光景は一変し、まるで嵐が過ぎ去った後のように荒れ果てていた。

 商品棚は、ところどころ空っぽになっており、残っているのは賞味期限が近いものや、普段なら見向きもされないようなマイナーな商品ばかり。店員たちは、必死に品出しをしようとしていたが、商品を陳列するそばから、我先にと買い物かごに詰め込まれていく。

「ちょっと、落ち着いてください!  皆さんが必要な分だけ買ってくれれば、全員に行き渡りますから!」

 拡声器を持った店長が、必死に呼びかけるが、人々の耳には届いていないようだった。

「水がない!  水はどこなの!?」

「子供たちのために、ミルクを確保しなきゃ!」

 人々は我先にとカートを押しながら、店員に詰め寄っていた。中には、商品を奪い合ったり、怒号を飛ばしたりする者もいる。

「すみません、すみません!  通してください!」

 一人の主婦が、山盛りの商品を積んだカートを押しながら、ヒロたちの前を横切った。彼女の目は血走り、まるで獲物を追う獣のようだった。

「一体、どうなってるんだ……」

 ヒロは、呆然と呟いた。タクミは、冷静に状況を分析した。

「パニックだな。みんな、この先どうなるか不安なんだ」

 マイは、この異様な光景に圧倒されていた。

「これも……もしかして、闇の眷属の仕業かしら……?」

 彼女は、ノートを取り出し、何かを書き始めた。

「マイちゃん、今はそれどころじゃないだろ」

 ヒロは、マイの肩を軽く叩いた。

「そ、そうね……」

 マイはおとなしく、ヒロたちの後ろにピッタリとついてきた。


「なんとか、カップラーメンとか残っていてよかったな」

 ヒロは、かごに入れたカップラーメンを見つめながら安堵の息をついた。

「ほとんど品薄だったけどな。激辛系はたくさん残ってたが……」

 タクミは、冷静に状況を分析した。

「まったく、地震や台風ではないのにな」

「下手すれば、それよりも巨大な災害だがな」

 現状について、ヒロとタクミが軽口を交わす。

「私も何か買いたい!」

 何か他に買うものはないかとしばらく店内を散策していると、マイは、お菓子コーナーの前で立ち止まり、物欲しそうな目で見る。しかし、彼女は財布を持ってきていなかった。

「えーっと、マイちゃん、お金は?」

 ヒロが尋ねると、マイはバツが悪そうに目を伏せた。

「……持ってない」

「今回だけだぞ……」

 ヒロは、ため息をつきながらも、自分のかごにマイの欲しがっているお菓子を入れた。しかも、食玩付きの高そうなお菓子だった。

「ふふふ、相棒なんだから私に献上するのは当然でしょ? ……ってそんな怖い顔しないでよ~」

 マイは目を><の字にしながらヒロにすり寄る。

「調子に乗るなよ」

 ヒロは、そんなマイの額を軽く小突いた。

「あいたっ」

「お前ら、もう仲良くなってるじゃん……」

 タクミは、そんな二人の様子を見て呆れたように呟いた。

 そんなこんながありつつも、三人は無事買い物を済ませることが出来た。

「相棒……いいえ、ヒロさん。お菓子ありがとうございました!」

  意外なところで礼儀正しさを発揮したマイに、ヒロは面食らった。

「お、おう……」

「では、また運命が呼ぶときに」

「お、おう?」

 マイはヒロとタクミに手を振ると、先に行ってしまった。

「じゃあ、俺達も帰るか」

「そうだな」

 薄暗い空の下、三人はそれぞれの家路についた。不穏な空気が漂う中、それでも、彼らの間には、ほんの少しだけ温かい光が灯っていた。

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