【完結】アネモネ(作品230605)

菊池昭仁

アネモネ

第1話 ある計画

 このBARには無駄な音楽がなかった。

 私はそれが気に入っていた。

 バカラのグラスに注がれたロイヤルサルートが氷を流れて行くのが見える。

 咽び泣くようなコルトレーンのサックスが頭の中で鳴っていた。


 息子の裕也は昨年結婚し、家を出た。

 裕也は医大の准教授をしている。

 専門は脳外科で、フェローとして3年間、ペンシルバニアの医大で研鑽を積み、昨年、結婚するために帰国した。


 娘の愛理は法科大学院に残り、憲法学の研究を続けていた。

 私の跡を継ぐために。


 妻の千代と娘は仲が良く、


 「将来はママとこの家で彼と同居するね?」


 と、言っているようだ。

 家のことはすべて妻の千代に任せていた。


 私は今まで、家族と関わることを避けて来た。それはなるべく感情を持たない「機械」になるためにだった。

 裁判官という私の仕事は感謝と憎しみが常にワンセットになっている。

 喜びと落胆、絶望と希望の審判を下す。

 それが私の役目だった。



 遂に計画を実行に移す時がやって来た。

 今の裁判官という自分を捨てて別人として生きることを。

 憎しみに穢れた黒い法衣と今までの自分を脱ぎ捨てることを私は考えたのだ。

 私は仮面を付けた自分の人生から逃げることを決意したのだ。


 なぜそんなことを考えたのか?


 私は完全に壊れていた。

 高裁の判事という仕事は、本来であれば単純な作業だった。

 日本は罪刑法定主義であり、法令や判例に従い判決を下せばそれで良かった。

 だが、実際には社会の変化は著しくも速く、法制化が遅延し、その事件が古い法令と合致しない。

 そこで過去の判例から類推し、法令と照らし合わせて判決文を作成することになる。

 自分の判断がその当事者の人生を、そしてその周りの人間の運命をも変えてしまう。



        「死刑に処す」


 

 それは神でもない同じ人間が命じることではない。

 死を言い渡すとは「殺人」なのだ。

 罪を犯した人間に対して死を宣告し、法の名の元に死刑執行を命じることは許されるべきではない。

 これは人間の所業ではないのだ。


 私は心のない機械になろうとしたが駄目だった。

 私は心を捨て切れなかった。苦悩し、自分を責め続けて生きて来た。

 もう限界だった。

 

 判決を書くのはババ抜きのようなもので、自分の在任中にはなるべく重い判決を出したくはない。

 難しい事件に関わると転勤が待ち遠しいのも事実だ。

 私の家は代々続く法曹界の重鎮の家柄であり、裁判官の道に進んだのは自然の成り行きだった。

 それはこの家に生まれた時から既に決められた路線だったのだ。

 私は法律に興味はなかった。

 いや、寧ろ私はそれを憎んでさえいたのかもしれない。

 私は自分を捨てる覚悟を決めた。


 先祖から相続した財産もあり、体面を維持するだけの財力はある。

 私が仕事を離れ、行方知れずになったとしても、最初、家族は周囲の同情や好奇の目に晒されるかもしれないが、人の噂などそのうち消えてしまうものだ。


 私と妻の千代は親同士が決めた#許嫁__いいなずけ__#だった。

 千代の家は政治家の家系であり、彼女は三女として生まれ、千代が女子高の三年生の頃には既にそれは決められていたことだった。


 私が司法試験に合格し、千代が女子大を卒業すると同時に私たちは結婚し、夫婦になった。

 千代は美しく聡明であり、良妻賢母のお手本のような女だった。

 だがそれは、ある意味「優秀なお手伝いさん」でもあった。

 私は判事としての重圧を千代に吐露することはなかった。

 父親も先代たちも本妻の他に妾を持ち、そして私も友里恵という愛人を囲っていた。

 友里恵は銀座の高級クラブでホステスをしていたが、有楽町のビルに私が小料理屋を出してやった。




 私はその夜、BARから閉店した友里恵の店を訪れ、1,000万円の現金の塊をカウンターに静かに置いた。

 

 「何のおつもり?」

 「手切れ金だ」

 「他に女でも出来たの?」

 「まあ、そんなところだ」

 「いつものでいい?」

 「ああ」


 友里恵は暖簾を仕舞い、鍵を掛けた。

 友里恵は私の好物の角煮と〆鯖を用意し、熱燗をつけてくれた。


 友里恵は着物が似合う和風美人だった。

 料理の腕も職人並みで愛想も良く、店は旨い酒と料理、そして友里恵目当ての常連たちで繁盛していた。


 友里恵は着物の袂に気を付けながら、熱燗をブルーの江戸切子に注いだ。


 「私もいただいてもいいかしら?」


 私は徳利を手に取り、友里恵の盃に酒を注いだ。

 この大島紬は私が仕立ててやった物だった。

 盃を呷る友里恵のすらりと伸びた白い腕が儚くも美しい。

 私たちは長い静寂の中を漂っていた。

 そして、友里恵が静かに口を開いた。


 「私も一緒に連れて行って頂戴・・・」


 友里恵は私にしだれかかり、大粒の涙を流した。

 彼女は私の嘘を既に見抜いていたのだった。

 

 友里恵は本当の私を、女房の千代よりも深く理解している。

 何も言わず、友里恵はいつも私の疲弊した心に寄り添い、癒してくれた。

 私がどこかへ去って行くことを友里恵は感じていたのだ。


 友里恵はまだ若く美しい。彼女のこれからの人生を、年老いた私と道連れにすることは出来なかった。

 私はそう自分に判決を下した。


 それが私と友里恵の最後の夜になった。


第2話 居酒屋『生きるが勝ち』

 「あなた、お紅茶のお替りは?」

 「もう大丈夫だ。そろそろ運転手の西山君が迎えに来る時間だからね」


 すると千代は私に小さな紙袋を渡した。


 「これを西山さんに差し上げて下さい。秋田の名物、『燻りがっこ』です。

 先日、お茶のお仲間から頂いたの。

 西山さん、秋田のご出身でしたわよね?」


 千代はそういう細やか気遣いが出来る女だった。

 クルマの停まる音がした。


 「喜ぶと思うよ、ふる里の味だからな。

 どうやら来たようだ、それじゃ行ってくるよ」



 私がクルマに乗り込むと、千代はお手伝いの幸江と共に深々と頭を下げ、いつものように私を見送った。


 「いってらっしゃいませ。お気をつけて」

  

 クルマは滑らかに動き出した。

 最初の赤信号で停車した時、私は助手席に千代から渡された紙袋をそっと置いた。


 「部長、これは?」

 「うちの家内が君に渡してくれと預かった物だ。君の実家は秋田だったね?『燻りがっこ』だそうだ」

 「それはありがとうございます、私の大好物です。いつも気に掛けていただき、すみません。

 奥様によろしくお伝え下さい」

 「ああ」



 東京にも所々に桜が咲いていた。

 春の季節はいいものだ。まるで体が浮いてきそうな陽気だった。

 クルマは高裁へ到着し、私は黒い法衣に着替えた。


 

 今日の裁判は民事訴訟が3件。

 私は10年前に刑事から民事の責任者になった。

 民事の方が刑事よりも格上であり、辛い判決を出さなくて済む。

 金を払えの払わないのなんて、私にはどうでもいい話だった。

 各々の自分の依頼主の正当性を主張をする弁護士たちの茶番劇に、私はいつもうんざりしていた。

 依頼主の前ではいかにも誠実懸命に弁護をしているように振る舞ってはいるが、実はお互いの弁護士は裏では通じていることが多い。

 そこで頃合いを見てお互いの面子が立つように裁判を誘導する。

 そう、和解だ。

 

 裁判官にはありがたい話だ。判決文を書かなくて済むからだ。

 そうなれば恨まれることもない。



 「先生、どうです? この辺で和解といきませんか?

 ホント、ウチの原告は何も知らないアホですからねー、いい加減に終わりにしましょうよ」

 「じゃあ、ウチが6で先生の方が4ということでどう?」

 「ロクヨンかあ? まあ、しょうがないでしょうね、言ってるこっちがおかしいんだし。

 わかりました、では次回の裁判はその方向で」

 「それじゃあ、よろしく」



 儲かるのはいつもアイツら弁護士だった。

 裁判に勝っても負けてもカネにはなる。


 「そんな事実をどうして今まで黙っていたんですか!

 それでは負けるに決まっていますよ!」


 法曹界も医学会と似ているところがある。

 それは彼らは限られたエリート集団であり、ピラミッド型の揺るぎないヒエラルキーが存在するということだ。

 特に民事に於いての地方の弁護士会は酷い。

 わずか数名の弁護士が利権を分け合うシステムになっており、勉強会や弁護士会の会合と称して酒を飲み歩いて親睦を深めている。

 つまりズブズブの関係なのだ。

 出身大学の先輩後輩、イソ弁だった頃の上司には逆らえるはずもない。

 そこに正義はなく、あるのは忖度と馴れ合いの裁判だった。


     他人の不幸は蜜の味


 裁判所には一種独特の雰囲気が漂っている。

 それは人間の醜い欲が染みついているからだと私は思う。

 あらゆる犯罪と金銭がらみの争い。

 まるで病院の霊安室のようにさえ感じることがある。

 そもそもこんなところにまともな人間など来るはずがない。

 殆どの人間には一生無縁な場所だ。




 仕事を終えた私は銀座の片隅にある小さな居酒屋、『生きるが勝ち』に腰を据えることにした。

 そこは自分のお清めのような場所だった。

 主人は72歳、もう長い付き合いになるが、元刑務所の刑務官をしていたらしい。

 どうして看守を辞めたのか、それは憶測に難くない。

 おそらく私と同様、あまりにも暗い闇を見過ぎたことに嫌気がさした筈だ。

 店主は穏やかな男だった。


 「今日はいい鯖が入りましたがいかがです? そのお酒に合うと思いますが」

 「ではそれをもらうとしよう。あと酒をもう1本」

 「はい、かしこまりました」


 店主は私の素性を知らない。

 私は殆どひとりか、友里恵としかここへは来なかった。

 そして自分のことは何も話さなかったからだ。


 フランスの死刑執行を生業としていたサド侯爵は、代々その仕事を継承する貴族として生まれたことをどのように思っていたのだろうか?

 少なくとも楽しんでいたとは私には思えない。

 確かに時の権力者と治安維持のためには人に死を与える公務員は必要だ。

 だが誰も志願してそれをやる者はいない。

 もしいるとすればそれは悪魔か精神異常者だ。

 日本にも昔、「首切り役人」という役人がいたという。

 そして私もその首切り役人にそれを命じる嫌な官吏ということになる。


 鯖の刺身が供された。


 「艶々としていていい鯖だね?」

 「はい、鯖は足が早いのでいつもは〆て出しますが、今日は上がったばかりの物が手に入ったので刺身にしました」

 「この仕事は大変だよね?」

 「仕事で大変じゃないものってあるんでしょうかねえ?

 まあ、私のやっていることは仕事とは言えませんがね? 好きでやっていることですから。

 趣味です、ただの趣味。仕事ではありません」

 「趣味かあ、趣味が仕事だなんて、いいもんだね?」


 私たちは顔を見合わせて笑った。

 それはまるで戦友のように。 


 「大将もどう? 一杯」


 私は店主に酒を勧めた。


 「ありがとうございます、では頂戴します」


 私は自分が居酒屋のオヤジになった姿を想像して笑った。


 『生きるが勝ち』、いい店名だと思った。


第3話 悪夢

 すべての準備は整った。

 私は有給休暇を申請し、北陸新幹線に乗って富山を目指した。

 もちろん妻の千代や子供たちにも行先は伝えてはいない。


 「以前勤務していた仙台高裁の連中と勉強会に出掛けて来る」

 「お帰りはいつですの?」

 「三日後の水曜日になる」

 「お気を付けて」


 3日分の着替えを千代に用意させ、スーツのまま出張に出掛けるように私は家を出た。

 まさかこれから主人の私が蒸発するなど夢にも思うまい。

 玄関で靴を履いた時、千代が言った。


 「仙台はまだ寒いのではありませんか? 今、コートを持って参ります」


 千代は2階の私のクローゼットから薄手のスプリング・コートを持って来てくれた。


 「ありがとう」


 私は少し心が痛んだ。


 「今回の出張、寂しく感じるのはどうしてなんでしょう?」

 「出張なんてめずらしいことではないではないか? それとも私に死神でも付いているのか?」

 「とんでもない! ただあなたが遠く感じたものですから・・・」

 「馬鹿なことを」


 私は横顔で笑って見せた。

 普段から感情を露わにしない私だが、妻の千代には感じるところがあったようだった。


 「では、くれぐれもお気をつけて」

 「留守を頼む」

 「かしこまりました」





 自分の忌まわしい過去を断ち切るには太平洋の雄大さは邪魔だった。

 私はあの暗く荒れ狂う冬の日本海と、厳然とした立山連峰のある富山を終の地として選んだ。



 北陸新幹線で糸魚川を超えると眼前に日本海が広がった。

 季節は梅雨の前。やがて富山の名物、チューリップ畑が所々に虹のように咲いている。

 まるで小さなオランダのように。


 長野に着く前に弁当をつまみに缶ビールを飲んでしまっていたので、私はKIOSKで買ったウイスキーの小瓶とチョコを取り出した。

 私の心は羽根が生えたように軽ろやかだった。

 こんなときめきを感じたのは高校での初恋の時以来だった。

 後藤由美子。読書好きだった彼女は今、どうしているだろう?

 私は彼女に何一つ勝てる物が無かった。


 彼女の両親はニューヨークで医者をしていたが、彼女の母親に日本の医科大から准教授のポストの誘いがあり、彼女も母親と共に日本に帰国することになったのだった。


 彼女はいつもサリンジャーとかを英語の原書で読んでいた。

 後藤はクラスの人気者で成績も良く、誰にも親しまれ、そしてとてもやさしかった。

 私たちは放課後、毎日のように学校の図書館で一緒に勉強をした。

 それは勉強という名の単なるデートだった。

 私たちはその時、よく将来の話をした。


 「相沢君は東大法学部志望だよね? お父さんと同じように将来は裁判官になるの?」


 私はその時、何故か嘘を吐いた。


 「俺は絵本作家になりたいんだ」

 

 そんな私を彼女は嬉しそうに笑った。


 「似合わないわよ、相沢君が絵本作家だなんて。

 だって、絵がヘタ過ぎるもの。あはははは」

 「絵は誰かに描いてもらえばいいだろう?」

 「そうか? その手があったか? 裁判官は嫌なの?」

 「俺は人を裁けるほど立派な人間じゃないよ」

 「似合っていると思うけどなー、相沢君の裁判官姿。

 黒い法衣なんか着ちゃってさ、「判決を言い渡す。主文、被告を死刑に処す」とか言って。うふふっつ」


 そう言って彼女は笑ったが、私は笑うことが出来なかった。


 そして私たちはお互いの手にすら触れることもなく、いつの間にか別れてしまった。

 それがどんな理由で別れたのかは、今では思い出せなくなってしまっていた。

 記憶にあるのは少し顎を上げて軽やかに微笑む彼女の姿だけだった。

 同級生たちの噂では、後藤はロンドンでERの医者となっていると聞いたが、私は彼女の予言通り、死刑を言い渡す裁判官となってしまっていた。




 グレーの日本海を右手に観ながら、新幹線はいつの間にか富山駅のホームへと滑り込んでいた。



 私はタクシーに乗り、中新湊へと向かった。

 中新湊は新湊漁港の漁師町で、飲み屋街としても栄えていた。

 ここに紛れてしまえば、そう簡単に見つけられることもあるまい。

 私は見知らぬ漁師町を宛てもなく、見知らぬ観光客のようにぶらついた。


 鮮魚店も多く、魚の木箱が店先に積まれ、生臭い魚臭を放っていた。


 『すし舟』と言う鮨屋を見つけ、カウンターでいくつか鮨をつまみ、地酒を飲んだ。


 「お客さん、富山へは観光で来たんが?」

 「いいえ、ここに引っ越して来るつもりなんです。この町が気に入ったので」

 「どこから来たが?」


 富山弁で訊かれた。

 私は無難に「仙台」とだけ答えた。

 仙台高裁で勤務した経験があり、万が一、仙台の話題になっても怪しまれることがないと思ったからだ。

 気軽に素性を明かさない。これも職業病と言えるのかもしれない。


 「そうね? 仙台から?

 ここは住みやすいところだがやちゃ。なんでもうまいし、人もいいがよ」


 富山の鮨は京都、金沢の影響からなのか? あるいは富山が元祖なのか? 鮨はかなり上品な小ぶりの握りだった。おちょぼ口の女性でも一口で食べられるような大きさだった。



 

 私は軽く腹を満たすと、夜の街を探検することにした。

 5月とはいえ、まだ夜風は肌寒かった。

 コートを持たせてくれた千代に私は感謝した。

 昭和の看板がダラダラと続いていた。

 私は焼鳥屋の香ばしい香りに誘われて、その店の暖簾を潜った。


 「いらっしゃい」

 「!」


 その店の年老いた主人を見た時、私は心臓が止まりそうになった。


 その男は10年前、私が懲役刑にしたヤクザの若頭、沢村銀次だったからだ。


第4話 再会

 「どうぞ」


 そのぶっきらぼうな濁声には確かに聞き覚えがあった。

 間違いない、銀次の声だ。

 

 銀次は私をチラリと一瞥したが、私に気付いた様子はなかった。

 私は少し安心した。

 10年も前の裁判官の顔など覚えてはいまい。たとえ仮に銀次が私の顔を覚えていたとしても、ここは富山の小さな漁師町、私がここを訪れることは考えられない筈だ。

 他人の空似としか思われないだろう。

 客は私の他に赤銅色に日焼けした、漁師らしい50代位の男がひとり、カウンター奥の席で飲んでいた。

 私は真ん中の席に腰を据えた。

 


 

 あの日、検察からの求刑は懲役7年だった。そして弁護人からの主張は執行猶予を求めるものだった。



        傷害致死



 警察の調書はこうだった。

 クラブで銀次が情婦と酒を飲んでいると、そこに泥酔した客が銀次に絡んで来たのだった。

 初め、銀次はその男を相手にはしなかった。その客に付いていたホステスもその客を諫め、


 「お客さん、さあ、お席に戻りましょうよ、お酒は楽しく飲まないとね?」


 そこへ素早くボーイや支配人たちがその客を銀次のテーブルから引き離そうとした。

 もしここで銀次を怒らせれば大変な事態になると思ったからだ。

 銀次の組はこのクラブの「ケツ持ち」だった。


 「俺に触るんじゃねえ! 何で美紀がここにいるんだ? こっちへ来い! 俺のテーブルに来るんだ!」


 強引に女の手を引っぱった男の手を、銀次が捻り上げた。


 「やめろ」

 「なんだテメエ! 痛てえじゃねえか! 離しやがれ!」


 男は急に銀次に殴り掛かり、銀次はそれを咄嗟に躱すと反射的にその男の顔面に正確に拳を入れた。

 銀次は元ミドル級のボクサーだったのだ。

 男は打ちどころが悪く、病院でそのまま息を引き取ってしまった。

 周りにいた者たちは正当防衛を主張したが、銀次は暴力団の若頭、分が悪かったのだ。

 私は懲役3年の実刑判決を彼に言い渡したのだった。

  



 すぐに店を出ることも出来たが、私は何故か銀次が今、どんな暮らしをしているのか興味が湧いた。

 そして私は銀次というこの男が個人的に嫌いではなかった。

 それは銀次が裁判で、弁明らしいことを何ひとつ言わなかったからだ。




 店はカウンターが7席ほどの古い小さな店だったが掃除はキチンと行き届いていた。


 「何にします?」

 「生ビールを」

 「すいません、ウチは瓶しかな置いていないんです」

 「ではそれを下さい」

 

 ビールと富山の名物、黒造りと昆布巻きの蒲鉾がお通しとして出された。

 私は黒造りを口にし、グラスに注いだビールを半分ほど飲んだ。


 特にメニューらしい物はなく、壁に貼られた短冊のお品書きが10枚ほどと、黒板に「本日のおすすめ」が書かれてあった。


 

 「鳥皮とネギ間を2本づつ下さい」

 「タレでいいですか?」

 「タレでお願いします」


 銀次はショーケースの中からそれらを取り出すと、焼台の上にそれらを乗せた。


 「オヤジ、サヨリをくれ。あともう1本」

 「あいよ」


 焼台の焼鳥に注意を払いながら、銀次はサヨリを捌いて刺身にした。

 ねぎ間のネギに焼き目がついて来た頃、銀次はタレの入った甕にネギ間を軽く潜らせ、それを再び焼台の上に乗せた。

 2度焼きをするようだった。


 タレが焼けた炭の上に落ち、醤油の香ばしい香りがした。

 鳥皮もカリカリに焼けて来たようだ。

 するとそれを先ほどのネギ間と一緒にタレを纏わせると、それを私の前の皿に並べて置いた。


 「鳥皮とネギ間です」


 それは絶妙な焼き加減と旨いタレだった。

 鳥皮は脂が多く、焦げ易くて火も上がる。

 三流の店ではカリカリには焼かず、ぐにゃぐにゃとグミのような食感のまま出したりすることも多い。

 特に銀次のタレは今まで私が食べたどの焼鳥のタレよりも美味かった。


 「ここの焼鳥、美味しいですね?」


 銀次は私と話すきっかけを待っていたかのようにこう言った。


 「お久しぶりです、相沢裁判長。

 10年前にあなたに恩赦を掛けてもらった沢村銀次です」


 銀次はすでに私だと気付いていたのだ。

 私は遂に観念した。


 「私はすぐにわかりましたが言い出せませんでした。私は今でも後悔しています、沢村さんに執行猶予を付けてあげられなかったことを。

 本当にすみませんでした」


 私はカウンターに頭をつけるようにして心から詫びた。


 「頭を上げて下さい、相沢裁判長」

 「本当に申し訳なかったです」

 「俺はあなたを恨んでなんかいませんよ。寧ろ俺はあなたに今でも感謝しています。

 あなたが裁判長で本当に良かった。相沢さんは検察の求刑の約半分に減刑してくれたじゃありませんか?

 ありがとうございました。あなたは私の恩人です。

 今日は俺に奢らせて下さい。たくさん飲んで食べて行って下さい。

 ささ、どうぞグラスを空けて下さい」


 銀次は瓶に残ったビールを私のグラスに注ぐと、冷蔵庫からよく冷えた新しいビールを持って来て栓を開けた。

 

 「さあどんどん飲んで下さいね」

 「ありがとうございます。あれからご苦労されたんでしょうね?

 いつからここで?」

 「出所してすぐ組を抜けてここに戻って来ました。ここは昔、俺が住んでいた街なんですよ。

 何にもねえところですけど、静かないい町です。

 焼鳥屋は見よう見真似で始めました」

 「そうでしたか? 実は私、裁判官を辞めてここへやって来たんです。

 裁判官だけではなく、過去の自分も一緒に捨てて来ました。

 家族も何もかもです」

 「それはどういうことですか?」

 「私は人を裁けるほどの人間ではないということです」

 「イヤな仕事ですよね? 裁判官って」

 「ここでしばらく暮らすつもりです。

 家族にも、職場にも何も言わずに出て来てしまいました。

 私はこれからの人生を、別人としてこの街で生きることに決めたんです」



 先ほどの客は帰り、その日、私と銀次は夜が白々となるまで飲み明かした。

 私たちはお互いにどうでもいいことをたくさん話し、大きな声で笑った。

 こんなに旨い楽しい酒を飲んだことは今まで無かった。

 私は自分をすべてから解放し、別人になっていた。



 「相沢さん、浜に朝の散歩に出掛けませんか? 酔い覚ましも兼ねて?」

 「いいですねー。

 行きましょう、海へ! あーっははははは!」




 私たちは砂浜に大の字になって仰向けに寝ころんだ。

 私はなぜか涙が溢れ、嗚咽した。


 「相沢さん、しばらく俺の店の2階で暮らすといいよ。

 どうせ空いてるからさあ。

 そしてゆっくり考えなよ、これからの人生をね?

 あんたは今まで頑張り過ぎたんだよ」


 まだ明けきれぬ夜明け前の空に、明けの明星が美しく輝いていた。


 打ち寄せる波の音、そしてその波が砂に沁み込んでいく音が聞こえた。

 

 私は銀次の申し出に甘えることにした。


第5話 行方不明

 その頃、相沢家では大変な騒ぎになっていた。

 娘の愛理は狼狽える千代を必死に慰めていた。

 相沢の弟、儀一も屋敷に駆け付けていた。

 そこへ息子の裕也もやって来た。


 「ごめん、オペを抜けられなくて。僕じゃないと出来ないオペだったもので。

 それでその後の親父の消息は?」

 「何もわからないんだ。裕也は兄貴の行きそうな所に心当たりはないのか?」

 「殆ど親父とは話をしないので」

 「そうか?」


 叔父の儀一は財務省のエリート官僚で、次期事務次官と目されていた。



 「携帯電話も解約して、裁判所には有給休暇の届けを出していたなんて・・・。

 仙台の同僚判事の方に問い合わせても「相沢は来ていませんが、どうかされましたか?」なんて言われて。

 あの人は一体何処へ消えてしまったのかしら・・・。うっ、ううう・・・」

 「ママしっかりして、どこかお父さんが行きそうなところはないの?」

 「あの人は仕事柄、あまり職場の人以外とはお付き合いのない人だったから・・・」

 「兄貴も兄貴だよ、一体どうしたっていうんだ? 退官まであと9年だというのに。

 何を考えているんだ、まったく!」

 「とりあえず、警察に・・・」

 「まだダメだよ姉さん。これは俺たちだけの問題じゃないんだ。慎重に対処すべき、相沢家一族の問題でもあるんだから」

 「儀一叔父さんの言う通りだよ母さん。兎に角、親父の行きそうなところを当たってみよう。

 警察に捜索願を出すのはそれからだ。

 警察には紘一叔父さんもいるし、いつでも動いてくれるはずだから」

 「裕也の言う通りだ。あの有楽町のコレはどうなんだ?」

 

 儀一は小指を立ててみせた。


 「これから行ってみるよ」

 「すまんがそうしてくれるか? 俺はこれから民自党の幹事長に呼ばれているからもう行かねばならん。

 今は俺も瀬戸際なんだ、どんな些細なことでも命取りになるからな。

 次官になれるかどうかは、俺と米田の一騎打ちなんだ。

 こんなことで躓いてはおれんからな」

 「叔父さんも大変だね? ごめんね、親父のために」

 「頼んだぞ裕也。何かあったらすぐに連絡してくれ」

 「わかった。愛理、母さんを頼む」

 「お兄ちゃんも気を付けてね」

 「ああ、必ず親父を見つけ出して連れ戻すよ」

 「ママ、お父さんに何か変わったことは無かったの?」

 「いつもと同じ、何も変わったことはなかったわ。

 ただ・・・」

 「ただ?」

 「あの人、最近笑うようになった気がする・・・」

 「あのお父さんが?」

 「そうなの、なんだかとてもホッとしたような顔だったわ・・・」

 「なんらかの精神障害かもしれないな?」

 「いずれにしても色んなケースは想定しなければならん。

 生きていた場合は精神的に鬱になったということにしよう。そしてもしもの場合は・・・」

 「やめて! 叔父さん、なんてことを言うの!」

 「愛理、そして姉さんも相沢家の一員だということを忘れては困る。

 我が相沢家は明治維新の影の功労者だ。今の日本を創ったと言っても過言ではない。

 こんなことで代々続く長州の名家の名に傷を付けるわけにはいかんのだ!

 姉さん、人はいつかは死ぬんです。あなたも私も、そして兄貴も。

 そんなセンチメンタルになっている場合ではない。相沢家の人間として、もっと自覚を持っていただきたい。

 まずは極秘裏に兄貴を探しましょう。話はそれからです」





 裕也が友里恵の店に到着すると、丁度、友里恵が店に暖簾を出しているところだった。



 「友里恵さんですね? 相沢の倅です」


 友里恵は俺がここへ来ることを既に想定していたかのように、静かに微笑みながら言った。


 「あなたが裕也さん? お父様がよくあなたの事を自慢をされていましたよ。

 目元がお父さんにそっくりね? 立ち話もなんですから中へどうぞ」


 俺は思った。「この女なら親父が惚れるのも無理はない」と。

 俺も今、看護師の奈々と不倫関係にあった。

 血は争えぬものだと思った。



 「おビールでいいかしら?」

 「お願いします」


 友里恵はビールサーバーのレバーを引いた。

 ビールが俺の目の前に置かれたが、それには手を付けず、俺は彼女に問い糺した。


 「父が行方不明になりました。父が今何処にいるか、ご存じありませんか?」


 友里恵は数の子とつぶ貝のお通しを出してくれた。


 「そう? 何処へ行ってしまったのかしらねえ?

 でも、休養が必要だったんじゃないかしら? あなたのお父さん」

 「あなたと一緒ではないんですか?」


 友里恵はカルティエのライターで煙草に火を点けた。


 「まさか。たとえ私がそうしたくてもお父さんはそんな人ではありませんよ。

 私はただのお妾さん、愛人なんですから」

 「では父の居場所に心当たりはありませんか?」

 「あったら教えているわよ、私はそんなに悪い女じゃないわよ。うふふふふ」


 友里恵は口に手を当てて笑った。


 「お父さんのお仕事の辛さ、考えたことある?」

 「・・・」

 「無いでしょうね? でも私にはわかるの、あの人の愛人だから。

 お父さんの苦しみや悲しみが・・・。可哀そうな純一郎さん」

 

 友里恵の頬に一筋の涙が走って落ちた。

 俺はビールを飲んだ。


 「すみません、〆鯖はありますか?」

 「少しお待ち下さいね?」


 友里恵は涙を拭ってタバコの火を消した。


 「親父とはいつからですか?」

 「もう忘れたわ。随分昔だったような気もするし、3日前だった気もする」


 俺はピルスナーに注がれたビールを一口だけ飲むと、〆鯖を食べた。

 見事な〆鯖だった。


 「どこかで修行したんですか?」

 「銀座のクラブでね? うふっ」


 友里恵はクスリと笑った。


 「僕は料理のことを言っているんです。何処で働いていたかではありません。

 何処でこの〆鯖を学んだのかと訊いているのです」

 「だから銀座よ。銀座にはそれ相応のお客様がやって来るの。

 女好きは「食」も好き。

 私はそんなオジサマたちに一流処に誘われて、そこの職人さんたちからそれを教わったの。

 美味しいでしょう? 私の〆鯖?

 お父さんも好きだったのよ」

 「ええ、とても」

 「裕也さんって、優秀な脳外科医なんですってね? 「あいつは神の手を持つ脳外科医だ、俺のようなロクデナシ裁判官ではない」ってね?」


 (親父がそんなことを?)


 意外だった。

 いつも俺たち家族との関係が希薄だった親父が。


 「ええ、お父さんはあなたたち家族を愛していたのよ。

 あなたたちはどうかしら? お父さんの苦しみをわかってあげようとした?

 ごめんなさい、愛人の私が言える立場ではないわよね? あはははは」


 俺は親父に褒められたかった。

 今までその一心で努力をして来た。父親に認めて貰うために。


 親父は家族に対していつも冷徹で、家族の前ではあまり笑わなかった。

 俺には親父に笑顔の記憶がない。


 そんな親父と小学4年生の夏休み、一度だけ釣りに出掛けたことがあった。

 だがそれは、とても退屈なものだった。

 小川で父と川釣りをしていた。

 小さなオレンジ色の玉浮が流されてはまた戻すという作業の繰り返し。

 魚は一向に釣れる気配はなかった。


 

 「お父さん、もう帰ろうよー」

 「裕也、見てご覧。人生とはこの浮のようなものだ。

 時の川をこうして下って行くものだよ。浮いたり沈んだりしながら。

 いいか? その流れに決して逆らってはいけない。この川の流れのように、時は容赦がないからな」


 親父はあの時、俺に何を言いたかったのだろう?


 「親父のこと、愛していたんですね?」

 「もちろん。でもお父さんは私を本気で愛してはくれなかった。

 ただの私の片思い・・・。

 だって私はお父さんの愛人ですもの、ただの愛人・・・」

 「親父、一体どこへ行ってしまったんでしょうね?」

 「実はね? 1週間前にここへ来たの。私にお別れを言いに。

 でも、なんだかとても明るかった。幸せそうだった、あなたのお父さん」

 「父がここへ来たんですか?」

 「でも本当に行先は知らないの。信じて頂戴」

 「携帯も解約していて、裁判所にも有給休暇を出して行方不明なんです。

 父は何から逃げようとしていたんでしょうか?

 家族? 仕事? それとも自分の人生から?」

 「私かもよ、逃げたかったのは・・・」


 友里恵は寂しそうに微笑んだ。

 

 俺はこれほど美しく、悲しい女の横顔を見たことがなかった。


第6話 アネモネ

 愛理は庭の花壇に咲く、アネモネを腰を屈めて眺めていた。


 「パパはどこへ行ってしまったの?」


 アネモネに語り掛ける愛理。


 アネモネはギリシャ神話に出て来る美少年、アドニスの流した血から生まれた花だと言われている。

 故に、アドニスとも呼ばれることもある花だ。

 アネモネとはギリシャ語で「風」を意味する。

 アネモネは父が丹精込めて育てていた花だった。



 「パパは風になってしまったの?」


 愛理はアネモネの花を愛でながら、涙を零した。

 兄の裕也が医者を目指していたこともあり、愛理は相沢家を継ぐために法学者になる道を選んだ。

 本来であれば、先祖代々の裁判官になるべきではあったが、父はそれを望まなかった。


 「裁判官なんてなるもんじゃない。愛理は学者になれ」


 父はそう言った。

 仮に弁護士になって、依頼人を守れなかったら? 

 それに犯罪者と向き合う検事なんて絶対に無理だ。

 大学院に進んで、どうでもいいマッカーサー憲法に、思ってもいない論文を書いて学位を取り、後はイケメンの将来有望株を捕まえて結婚し、子供を産めばそれでいいと思っていた。

 相沢の家を守るとは、そういうことだと思っていた。

 もしかすると、父は裁判官としての仕事に嫌気がさしたのではないだろうか?

 今は民事へ移動してはいても、かつては刑事事件を担当し、死刑判決も出した父の重圧は測りしれない。

 家では仕事の話を一切しなかった父。家族の話の輪の中にも入ることはなかった。

 大事そうにアネモネを愛でる父の背中。

 愛理はそんな父親が好きだった。



 父が苦悩していた?

 人間の人生を決定づける裁判官としての職責に?

 地位も名声も、相沢の家も財産も、そして私たち家族をも捨てて突然、蒸発してしまった父。

 父に愛人がいることは兄の裕也から聞かされて知っていた。


 「親父には愛人がいるらしい」


 ショックだった。

 私にはやさしい父だったからだ。

 不潔だとも思った。

 尊敬していた父が、ただのいやらしいオヤジだったのかと思うと口惜し涙が出た。

 私は自分が父から捨てられたと思った。

 どんな顔をしてその人を抱いているのかと思うと、虫唾が走った。

 私は初めて、親の性を意識した。


 もちろん、私もバージンではない。

 男女の性愛がどのように行われ、男が何を女に求めるのかも理解している。

 だが、父親だけにはそうであって欲しくはなかった。

 父には威厳に満ちた裁判官でいて欲しかった。

 外に女を囲うような父でも、やはり大好きな父には変わりはない。

 今、こうして父がいなくなると、私は尚更そう思った。

 父の苦悩する背中を摩ってあげたい・・・。


 「お願いパパ、早く帰って来て。

 そして何事もなかったように、いつものように書斎に籠って欲しい。

 パパの存在はそこにいるだけでパパだから」


 愛理はひとり、アネモネを見詰め続けた。



第7話 妻として

 「奥様、お食事の用意が出来ました」

 「食べたくないの、代わりにお紅茶を淹れて頂戴」

 「もう2日も何も召し上がっていないじゃありませんか! お茶とクッキーだけではダメです!

 奥様が倒れてしまったら、旦那様をお迎えに行けないじゃありませんか!」

 「心配してくれて、ありがとう」

 「うどんをやわらかく煮込みましたから、少しでも召し上がって下さい」


 千代は溜息を吐き、うどんに箸をつけた。


 「久子はこの家に来て、何年になるかしら?」

 「奥様がここに嫁がれてからですから、もう30年以上になります。

 時の流れとは早いものです」

 「久子はどう思う? あの人のこと。何かいつもと変わったことは感じなかった?」

 「いつもと同じでしたけど、ただ・・・」

 「ただ何?」

 「少し、笑顔が増えたような気がいたします」

 「私もそう感じていたわ」

 「何かホッとされているようなお顔でした」


 

 あの冷徹なまでに毅然とした夫が笑っていた。

 愛理を産んでからは寝室も別々になり、夫婦のスキンシップも消えた。

 そして夫は深夜に帰宅すると、微かに残り香がするようになり、下着に女の長い毛髪が付いているのを時々見つけるようになった。

 それはおそらく、女がわざとつけた物だ。

 妻の私に対する宣戦布告だった。

 それはまるで、「あなたの愛はどの程度の物かしら?」と、挑まれている気がした。


      夫に愛人がいる。


 だが私にはそれを夫に問い詰める勇気はなかった。

 「それで?」と、言われることが怖かったのだ。

 それを実家の母に相談した時、母は言った。


 「千代、大きな責任のあるお仕事をしている殿方はね? 妻だけでは満足出来ないものよ。

 自分の抱える重圧に耐えるために浮気をする動物なの、男は。

 あなたのお父様も、お爺様たちも同じ。お妾さんなんて大勢いたわ。

 でもね、お妾さんは妻には勝てやしないの。

 どんなに寵愛されようと、妻という称号には敵わないのよ。

 妃とはそういう者よ。

 女にとって、妻とは役職なの。

 子供を産み育て、家督を支える義務がある。

 恋愛ドラマのようにはいかないわ。

 相思相愛なんて幻想、分かるわよね?」

 

 私たちの結婚は、私が高校生の時にすでに親同士によって決められていた。

 夫のことは嫌いではなかったが、私は恋愛に憧れていた。



 高校二年生の時、私は男子校の向井茂之と密かに付き合っていた。

 私は恋がしてみたかった。


 夏祭りに浴衣を着て、一緒に花火大会に出掛けた時、私が許嫁と結婚することを彼に告げた。



 「お前の家は政治家の家だからな? 昭和でもそんな話ってあるんだな?」

 「まだ会ったこともないんだよ? その人に。 信じらんない」

 「それでも俺は千代が好きだ」


 夏空の花火に私たちは照らされ、はじめてキスをした。


 私はふと、親に反抗してみたくなった。

 たとえ好きな人との結婚は無理でも、自分の純潔は好きな人に捧げたいと。



 数日後、両親の不在だった彼の家で、私たちは結ばれた。

 そして世間知らずの箱入り娘として、相沢家に嫁いでもう30年を超えようとしている。


 長男の裕也は世界的な外科医として、愛理は憲法学者になり、私の子育ては一応、成功したと言える。

 相沢家の嫁として、その名に恥じぬ生き方をして来たつもりだった。

 その今まで必死に積み上げて来た物が、音を立てて崩れようとしている。

 私は妻として、夫を支えて来ることが出来たのだろうか?

 雨上がりの庭に日が差し始め、木々の葉や芝がキラキラと輝いていた。



 (あなたはどこへ消えてしまったの?)



 千代は怒りがこみ上げて来た。

 それは黙って蒸発してしまった夫に対してではなく、夫の苦悩を理解し、支えられなかった自分への#憤__いきどお__#りだった。


 千代は温くなったうどんに再び箸をつけた。


 絶対に夫を連れて帰ると誓いを込めて。


第8話 弟子入り

 銀次に弟子入りして1週間が過ぎた。


 漁師町ということもあり、朝は6時から店を開け、午後2時で一旦休憩をする。

 夜は8時から始めて零時までの営業だった。


 銀次の人柄と旨い焼鳥とアテもあり、店はいつも常連客でいっぱいだった。

 銀次も常連客も、親しみを込めて私を「純」と呼んでくれた。



 「純ちゃん、焼酎、梅割りで」

 「はい」

 「純、鱈汁を野本さんにお出ししてくれ」

 「はい、親方!」


 まだ居酒屋のオヤジには程遠いが、少しずつ笑顔になっている自分がいた。

 寝て一畳、座って半畳。

 そして胃袋は握り拳大しかない。

 寝るところがあり、食べることが出来て、仕事で人を笑顔にすることが出来る。

 店が休みの日には小説を読み、近所のラーメン屋で飯を食べ、餃子でビールを飲む生活。

 そしてすぐ近くには日本海がある。

 これ以上、他に何を望むというのだ。


 大きな屋敷も、社会的地位も名誉も私は望んではいなかった。

 人生での幸福とはカネでも権力を持つことでもない。

 ましてや他人からの賞賛でもない。

 「ありがとう」の笑顔に囲まれて生きることだ。

 


      「主文、被告人を死刑に処す」



 そんなことを言い渡すために私は生まれて来たわけではない。

 今、こうして疲れた人たちを癒せる焼鳥屋でいることが、何よりの生甲斐であり、生きている実感を味わうことが出来た。



 店を閉めて掃除や後片付けを終えると、いつも銀次と酒を飲んだ。


 「いいところだろう? ここは?」

 「いい街ですね? 食べ物は美味しいし、直ぐ近くには海がある。美しい立山連山も見える。

 そして常連さんたちの笑顔とここで暮らす人たちの人情。

 ここは楽園です」


 カウンターに肘をつき、コップ酒を飲みながら銀次は言った。


 「戻らなくてもいいのか? 家族の下へ。そして法廷にも?」

 「もういいんです。家族に私は必要とされていませんから。

 生活に困ることもないでしょう。

 それに裁判官の私の代わりはいくらでもいますから」

 「残念だなあ? 純みたいな裁判官がいねえと、俺みてえな人間は困るけどな?」

 「残念?」

 「純みたいな裁判官は貴重だってことよ。正しい判決を苦しみながら出す、そんな心ある裁判官は少ないからよ」

 「私はそこから逃げて来たんです。駄目な裁判官です。

 私に人を裁く資格はありません」

 「逃げるのは悪いことじゃねえ、生きるためにはな?」


 銀次は首を傾げてタバコに火を点け、タバコの先端が赤く灯り、銀次は煙を吐いた。


 


 朝、市場へ行き、今日の仕入れをして銀次の仕込みの手伝いをする。


 「魚の良し悪しを見分けるには色々あるが、基本は眼を見ることだ。

 人間も同じだろう? 死んだ目をして生きている奴もいるし、死にそうでもキラキラとした澄んだ瞳をしている奴もいる。 

 魚は眼をよく見て仕入れるんだ」

 「はい」



 

 店に着くと、銀次は昨日作って冷蔵庫に入れておいたモツの煮込みを鍋にあけ、火に掛けた。



 「純、今日は串打ちをしてみるかい?」

 「お願いします」

 「まずは若鳥からいくか? やってみな」

 「やってみます」


 私は初めて串打ちを任された。

 銀次のように上手くは刺せなかった。


 「こうでしょうか?」

 「あまりキツく串に刺すと火の通りにムラが出る。

 こんなカンジにしてみろ」


 銀次はお手本を見せてくれた。


 「なるほど、よくわかりました、やってみます」

 「それから同じ大きさの肉を刺しているようだが、実は焼鳥というのは最初の一口が肝心なんだ。 

 一杯目のビールが旨いのと同じようにな?

 だから先端の肉から徐々に小さくしていく。

 ケチるわけじゃねえ。その方が見た目もいいし、食べやすい。

 やってみろ」

 「ヘイ」

 「なんだ、その「ヘイ」っていうのは?」

 「なんとなく、親方と弟子みたいだと思いまして」

 「そうだな? ここは法廷じゃねえからな?「郷に入っては郷に従え」か?」

 「ヘイ、親方!」

 「純、まずはその役に成り切ることかもな? 言葉遣いは人を変えるもんだ」


 私たちは笑った。


 私は今、生まれ変わろうとしていた。


第9話 店名のない店

 銀次の店には店名も看板もなかった。

 銀次らしい店だと思った。

 

 「おい、帰りに「焼鳥屋」で一杯やらねえか?」

 「いいねえ、じゃあ中新湊の「焼鳥屋」で飲むか? 明日は休みだし」


 

 銀次の店で働くようになって、1か月が過ぎようとしていた。

 銀次は生ビールサーバーと食洗器を購入した。

 何度も調整を重ね、ようやく銀次の目指す生ビールが完成した。


 「純が来てくれたおかげで、念願だった生ビールを出すことにしたんだ。

 ウマい生ビールを出すにはな、サーバーをこまめに洗浄しなければならねえ。

 ビールは栄養が多く、雑菌が繁殖し易いからな。

 そしてグラスだ。手洗いでは中々汚れが落ちねえ。機械洗いじゃねえとグラスはきれいにならねえんだ。

 だから最初、手洗いで口紅とかを落としてから洗浄機に入れる。

 そして冷蔵ショーケースから出した時に薄っすらとグラスが曇っている。

 ずっと旨い生ビールを出したかったんだが、俺一人では無理だった。手間がかかるからだ。

 俺の焼鳥にはこの生ビールを合わせたかった。

 純、飲んでみるか?」

 「はい」

 

 銀次は慎重に、ビールサーバーで生ビールを冷やしたジョッキに注いでくれた。

 クリーミーな泡とコクのある喉越し、驚くほど旨かった。


 同じ銘柄の生ビールは東京で何度も飲んだが、銀次の注ぐ生ビールは格別だった。

 それは雲が割れて覗く、夏空のように鮮烈なビールだった。


 「どうだ? うめえだろう?」

 「今までこんな旨い生ビールは飲んだことがありません!」

 「ビールは一口目が肝心だ、後は慣れちまう。

 女みてえなもんだからな? 生ビールは。

 口に入れる物を提供するとは思い遣りが大切だ。

 どうしたらお客に喜んでもらえるか? 感動してもらえるか?

 それが今の俺の生甲斐なんだ。 

 だがもう俺も歳だ。もし、純にその気があれば、このままこの店を継いでくれ。

 この店はあんたにやるよ、裁判では世話になったからな?」


 生ビールを飲みながら、そう言って銀次は笑った。

 私はこのまま、銀次とこの店で働きたいと思った。




 覚えることはたくさんあった。

 私は大学ノートに『あすなろ帳』と名付け、そこに毎日の出来事や、わからなかったこと、失敗したことや覚えた事。よく出来たことや常連さんたちの名前や癖、会話、注文した品や金額、そして今日の仕事の自己採点を書き入れた。

 「明日はなろう」それが私の『あすなろ帳』だった。

 今日は38点とか、68点とか。

 自己採点は次第に100点に近づいていった。


 私はここで、「焼鳥屋のオヤジ」として生きて行くことを決めた。


第10話 極道の定め

 焼鳥に加え、生ビールの評判も上々となり、小さな店はいつも満席だった。



 「ついに出たか? 生ビール?」

 「焼鳥だけでもうめえのに、これじゃ飲まずにいらんねえなあ」

 「ホントだよ、安いチェーン店の居酒屋とかに行くとさ、ジョッキがタバコのヤニ臭かったりするもんな?

 あれたぶん、灰皿と一緒に洗浄機に入れてんだぜ」

 「ひでえな、その店」

 「ビールは生きてますからね?」


 銀次は焼鳥を焼きながら、うれしそうに笑っていた。


 「このビールにこの焼鳥はたまんねえなあ」

 「美味しくて死んじゃうかも、この焼鳥とビールのマリアージュ!」

 「俺、この鳥皮のカリカリが、めっちゃ好きやがちゃ」

 「アンタ、もう5杯目やがちゃ」

 「だら(バカ)、もう5杯やなくてまだ5杯っちゃ」

 「大将、私もお替り頂戴」

 

 いつも店には笑顔の花が咲いていた。

 裁判所には笑顔がない。

 あるのは憎しみと落胆、悲しみと失望、そして嘲笑だ。

 盗ったの盗られたの、騙したの騙されたの、払えだの払わないだの、殺したの殺されたの・・・。

 それを法律に基づいて私心を捨て、公平に審判を下す。

 裁判官という仕事は医者や教師と同様、手を抜こうと思えばラクな仕事だが、理想を追求しようとすれば自分の人生を捧げる覚悟がいる仕事だ。


 被告と被害者、そしてその家族のことを思い浮かべたら、簡単に判決文など書くことは出来ない。

 私の考えひとつで、その人間たちの人生を変えてしまうのだ。

 刑事の場合の冤罪もそうだ。

 そんなものは裁判官の責任ではないと主張することは容易に出来る。


 「俺は警察や検察の提出した証拠に基づき、適切に判決を下した。悪いのは検察と警察だ」


 と、言い逃れはいくらでも出来る。

 

 「自分は裁きを誤ってしまった」


 そうして自分を責めたら生きてなどいられない。



 この小さな焼鳥屋は、私にとっての楽園だった。

 焼鳥を食べて酒を飲み、会社での愚痴や不平不満、愛を語る恋人たち。

 家族の前では言えない想いなど、お客たちは各々癒されて明日へと向かうのだ。


 ここでは様々な人生が交錯している。

 そんな人たちの話し相手をしながら、焼鳥を焼き、酒を提供する。

 枯れかけていた私の心は、少しずつ人間としての良心を取り戻していった。




 閉店になり、後片付けをしていると、


 「ちょっとコンビニにタバコを買って来る」

  

 そう言って銀次が店の外へ出た直後だった、


 「よくも俺の親父を!」という叫び声と乾いた銃声がした。


 パンパン パンパン パンパン


 6発? 回転式拳銃であれば全弾を撃ち尽くしたことになる。

 私の全身から血の気が引いた。

 咄嗟に外へ出ると犯人は逃走し、銀次が血を流して仰向けに倒れていた。



 「親方! 誰に、誰にやられたんですか!

 すぐに救急車を呼びますからね? しっかりして下さい!」

 

 すぐに銀次の胸と腹の出血を抑えようとしたが、どんどん血が噴き出して来る。

 私は店からありったけのタオルを持って来て、そこを必死で押えた。


 「おそ、らく・・・、 ハア、ハア、あの、時、死ん、だヤツの、ガキだろ、う・・・。

 しょう、がねえ・・・、よ、ハアハア、これ、が、極道、のさだ、め、だ・・・からな。

 店を、たの、む・・・」

 「親方ーーーっ! 銀次さん!」

 「心配、する、な。

 おまえ、も、いつか、死ぬんだ、から・・・、お先、だよ・・・」

「銀次さーーーーっつ! 死んじゃ駄目だ!」


 すぐに人だかりとなり、辺りは騒然とした。

 次第に近づいてくる救急車とパトカーのサイレン。

 ピストルの硝煙と血の匂いが立ち込めていた。





 銀次は死んだ。


 連日のように事情聴取を受けたが、身分を明かすことはしなかった。 

 犯人はあの時死んだ息子だった。逆恨みの犯行だった。

 怨恨で人を殺す場合、相手への憎しみと、生き返るのではないかとの恐怖から、何度もメッタ刺しにしたり、込められた銃弾を撃ち尽くすことが多い。

 今回の事件もそうだった。

 警察の取り調べに対して息子は黙秘を続けているという。

 この息子は事件の真相も、銀次という男のことも何も知らない。

 ただ、父親を殺されたことへの憎しみが復讐となり、仇を討つという結果になってしまった。




 私は銀次の簡単な葬儀を済ませ、1週間店を閉め、喪に服した。

 あまりにも突然の出来事に、私はまるで悪い夢を見ているかのようだった。


 銀次の遺言もあり、私はとりあえず店を開けた。

 小さな町ということもあり、噂はすぐに広まり、客足は遠のいていったが、少しずつ、常連たちが店に戻って来てくれた。



 「純ちゃん、大将、大変だったなあ」

 「また足を運んでいただき、ありがとうございます」

 「今時いいヤクザだったよ、大将は」

 「知っていたんですか?」

 「地元では『風の銀次』って、有名な伝説の極道だった男だ」

 「風の銀次?」

 「風のように淀みのない極道だってことだよ。

 庶民の味方っていうのかなあ、古き良き時代の高倉健みたいな任侠の男だった」


 銀次は地元では愛された極道だったようだ。

 私は焼鳥を焼きながら、涙で焼鳥が滲んで見えた。


 「純ちゃん、泣いてるのか?」

 「焼台の煙が、目に沁みただけです」

 「そうか・・・、生、お替り」


 常連の藤森さんも泣いていた。


 私は銀次の店を受け継ぐことにした。


第11話 発見された父親

 「おい、純一郎が見つかったぞ!

 うちの連中が50名体制で1か月も掛かってな!」

 「紘一叔父さん、ありがとうございます!」

 「しかし、相沢家の当主にも困ったものだ。いきなり行方不明だなんて恥ずかしいことを。

 昭和のサスペンスドラマじゃあるまいし、この令和の時代に蒸発など、アイツ、気でもふれたか?」

 「ありがとう、お兄さん。あの人は生きているんですね? よかった!」

 「千代、良かっただって? 自殺でもしてくれていた方が良かったくらいだよ、まったく」

 「まあ、なんてことを。お言葉が過ぎますわよ!」


 「自殺でも」という紘一の言葉を千代は諫めた。


 「それで親父は今、何処にいるんです?」

 「富山だ」

 「富山?」


 全員に動揺が起こった。

 誰も富山には縁のない土地だったからだ。

 北陸という認識はあっても、そこが金沢とどういう位置関係にあるのかすら分からなかった。



 「無数の防犯カメラをチェックするのはもちろん、その足取りを隈なく追った。

 広域暴力団なら可能かもしれないが、民間の探偵事務所ではまず無理だろうな?

 何しろ住民票もそのまま、保険証も利用した形跡もない。

 カネは愛人名義のカードを使っていたようで、ATMからの情報もダメだった。

 そして今、純一郎は富山の漁師町、中新湊で焼鳥屋のオヤジをしているようだ。

 高裁の裁判官が焼鳥屋だぞ? そんな話、聞いたことがない。

 法務省に東大の同期が事務次官をしていたので、体調不良ということにして休職扱いで処理してくれた。

 必ず連れ戻せ。いいな?

 それからその店は元ヤクザが店主だったのだが、先日敵討ちに遭い、死んだそうだ。

 拳銃で胸と腹を撃たれて即死だったらしい。6発もだぞ。

 アイツ、どれだけ俺たち一族に泥を塗るつもりだ!

 暴力団と関わるなど、スキャンダルもいいところだ!」


 そう言うと紘一は純一郎の写っている写真をテーブルの上に放り投げた。


 そこには真剣に焼鳥を焼く純一郎の姿や、酔客と楽しそうに談笑している彼の姿が写っていた。


 「これがあの威厳に満ちた親父なのか?」


 こんなに楽しそうに大きく口を開けて笑う純一郎を、誰も見たことがなかった。


 裕也は言葉が出なかった。

 もちろん、愛理も千代も同じだった。



 「わかりました。なんとか都合をつけて来週にも僕と愛理、そして母の3人で、父を富山に迎えに行って来ます。

 ご迷惑をお掛けしました」

 「やれやれ、これでワシも次官の椅子が見えて来たというものだ。 

 紘一、ありがとう」

 「これは貸しということで。官邸の方はよろしく頼みますよ、相沢財務事務次官殿」

 「わかっているよ、警視総監殿、わーっはっはっはっあ!」



 だが、家族の想いは複雑だった。


 「どうして富山なんかに・・・」


 そうまでして私たち家族、仕事、そしてこの相沢家と離れたかったのかと思うと、やるせない気持ちになった。

 しかも一人で焼鳥屋のオヤジをやっているなんて・・・。


 


 伯父たちが帰った後、裕也と愛理、そして千代たちはホッと胸を撫で下ろした。


 「兎に角、親父が生きていてくれて良かった。

 でもどうして富山なんかに?

 母さんは親父と富山に行ったことはあるの?」

 「富山どころか、お父様と旅行になんか行ったことなんかなかったわよ。

 富山って東京から遠いの?」

 「北陸新幹線で2時間半くらいかな?

 飛行機でも行けるけど、飛行時間は1時間位だから新幹線の方がラクだろうね? 乗り換えもないし」

 「そう、じゃあ新幹線で行くのね?」

 「でも、どうしてお父さんは焼鳥屋さんなんかになったのかしら?

 お料理なんかしているところなんて、一度も見たことはないけど・・・」


 裕也には心当たりはあった。

 有楽町の友里恵の店で、調理を手伝っていたのかもしれないと思った。

 だがそれには触れなかった。

 愛理や母を悲しませると思ったからだ。


 裕也はオペのスケジュールを調整し、1週間後、愛理と母を伴い、父のいる富山へと向かった。


最終話 絆

 「わあ、これが日本海なの? お母さん、初めて見たわ」


 その日の日本海には泪雨が降っていた。

 新幹線の窓ガラスに雨が当たり、幾筋もの雨が斜めに流れて行く。

 日本海には白い馬が跳ねるように、大きな白波が無数に立っていた。

 お嬢様育ちの母は、すっかり旅行気分ではしゃいでいる。

 無理もない、こうして親子で遠出をすることなど、今までにはなかったことだった。


 「お兄ちゃん、富山って何が美味しいのかなあ?」


 愛理も父親に会えるうれしさと、家族での旅行気分に浮かれていた。

 でも、俺は気が重かった。

 父親がそう素直に、俺たち家族と一緒に帰るとは思えなかったからだ。

 相当の覚悟を持って家を出た父が、果たして俺たちの説得に応じるだろうか?

 俺の気持ちは今日の北陸の空のように灰色で、暗澹たる想いだった。




 定刻通りに北陸新幹線は富山駅に着いた。

 軽く下調べはして来たつもりだったが、富山駅の前は見事に整理され、都市計画の優秀さが窺えた。

 これも県民性を反映したものだろう。

 俺たちは予約しておいたホテルにチェックインを済ませ、軽く食事をして仮眠を取ることにした。

 親父の店の閉店を待って、俺たちは親父を説得に行くつもりだったからだ。




 親父の店に向かうタクシーの中で、母がポツリと言った。


 「お父様、私たちと一緒に帰って下さるかしら?」

 「大丈夫だよママ、お父さんは家族だもん」


 親父はその家族を捨てて、この北陸の地、富山まで逃れて来たのだと。



 

 午前零時が閉店だということだったので、23時頃、店の外から店内を覗いた。

 すると閉店1時間前だというのに、とても賑やかだった。

 俺たちは言葉を失った。親父はまるで別人のように楽しそうに笑っていたからだ。

 俺たちは一抹の不安を覚えた。



     「親父は俺たちと帰らないかもしれない」



 次第にお客が帰り始め、そして最後のお客も帰り、親父が店の暖簾を仕舞おうと出て来た時、俺たちは親父に声を掛けた。


      「あなた」

      「お父さん」

      「親父」


 父は驚く様子もなく、それはまるで俺たちが来ることを既に予想していたかのように笑って見せた。


 「よく来たな? 取り敢えず店で話そう」




 店の中は古いが、綺麗に整理整頓がされていた。

 カウンターには先程のお客たちの食器やコップ、グラスなどがそのままに残されていた。


 「ちょっと待っていてくれ、今、片付けるから」

 「あなた、そんなこと私がやりますから」

 「私も」


 俺たち家族は無言で食器等を片付け、洗い物をして店の後始末をした。

 カウンターをダスターで拭く母の目から涙が溢れていた。

 その涙は父を憐れむ涙ではなく、うれし涙だったはずだ。

 それは今まで、こうして家族で何かをするということがなかったからだと俺は思った。

 愛理は楽しそうだった。親父の仕事を手伝っている自分に。




 「みんなありがとう、おかげで早く終わったよ。さあ、座ってくれ。

 何か飲むか?」


 (ありがとう?)


 それは初めて親父から聞いた言葉だった。

 俺たちの心が停止した瞬間だった。


 「親父、俺たちと一緒に帰ろう、東京に」


 すると父は笑顔で言った。


 「そうだ、俺の焼鳥、食べてみないか? それと生ビールも、ウマいぞー、ビックリするくらいに、アハハハハ」


 親父が笑っている、あの親父が・・・。



 「じゃあ、折角だからいただこうかしら、あなたの焼鳥を」

 「うん、私も食べたい。お父さんの焼鳥、食べてみたい」

 「よし、それじゃあまず焼鳥だ、その後に生ビールを飲む方が旨いからな?

 ちょっと待ってろよ」


 親父はとても嬉しそうだった。

 家族に自分の料理を振舞うことに。

 父は慣れた手つきで焼鳥を焼き始めた。

 香ばしい焼鳥の焼ける匂いがして来た。

 たっぷりのタレをつけて、焼鳥が俺たちに供された。



 「さあ熱いうちに食べなさい。今、生ビールを注いでやるからな?」


 父は真剣な眼差しでジョッキに生ビールを注いだ。



 「あなた、いただきます」

 「いただきまーす! 凄くおいしそう!」


 俺たちはその旨さに驚いた。


 (これが親父の焼いた焼鳥なのか?)

 

 こんな旨い焼鳥を、俺は今まで食べたことがなかった。

 高等裁判所の判事でもある父が、にこやかに焼鳥を焼いている。

 そしてそれを楽しそうに食べている俺たち家族。

 俺は夢を見ているのかと思った。

 俺はこの時初めて、これが「家族の団欒」だと知った。



 「どうだ? ウマいだろう?

 ほら、冷たい生ビールも飲め!」

 

 愛理が言った。


 「すごく、す、ごく・・・、美味しいよ、お父さん・・・」


 そして母も何も言わず、ただ泣くばかりだった。


 「そうか、泣くほど旨いか?」


 親父も泣いていた。

 あの親父が・・・。

 そして俺も泣いた。家族全員が嬉し泣きをした。

 家族の絆が見えた瞬間だった。



 「親父、もう、もういいだろう? 俺たちと一緒に、帰ろ、う・・・」

 「すまんがそれは出来ない。俺はここで死ぬと決めたんだ。この富山で。

 俺の我儘を許してくれ。

 ここで俺が世話になった銀次さんという男と、俺は約束したんだ。店を引継いで、この焼鳥の味を守っていくことを。

 銀次さんは10年前に俺が判決を言い渡した男で、偶然ここで再会した。

 俺たちは導かれたんだよ、大きな力に。

 俺は今まで大勢の人たちを裁いて来た。人の運命を左右して来た。

 そんな権利は人間にはない。人間は神ではないのだから。

 死刑を言い渡す時、俺は手が震える。

 民事に移った今でも、それを忘れることはできない。

 俺は本当は弱い人間なんだ」

 「違うわ! お父さんは弱くなんかない! やさしいだけよ!」


 俺は愛理がこんなに自分を主張するのを初めて見た。

 そして、母が静かに言った。


 「裕也と愛理は東京へ帰りなさい。私はお父様とここに残るから。

 いいでしょ? あなた?」

 「・・・」

 「ママ、今なんて言ったの? ここに残るって、どうゆうこと!」

 「ママはね、お父様の妻だから、夫の決断に従うのは妻としての当然の義務なの。いいわよね? あなた? 私がここであなたを手伝っても」

 「大変だぞ、焼鳥屋の女将は?」

 「覚悟はしています。でもあなたの役に立ちたいの。お願いします」


 母は父に頭を下げた。


 「好きにすればいい。でもここには何もないぞ」

 「あなたがいるじゃありませんか?」





 それから3年が過ぎた。

 父と母は焼鳥屋のおしどり夫婦として、地元では評判の店になっていた。



 「女将さーん、生ビールお替り~っつ!」

 「ハーイ! ただいまー!」


 お客たちはこの夫婦が、まさか高裁の元裁判官夫妻だとは誰も知らない。



 「愛理、今年の『おわら風の盆』どうするんだ?」

 「もちろん行くに決まってるでしょ、パパとママに会いに行かなきゃ」

 「そうだな、どうしてるかな? あのふたり」

 「きっと大きなお口を開けて笑っているわよ」



 遠くから、雷鳴が聞こえた。

 夕立が近づいているのだろう。

 そしてやがて雨は上がり、庭のアネモネも輝くはずだ。


 私は読みかけの論文から目を離し、グラスにウイスキーを注いだ。


 「親父、今日は父の日だね? いつもありがとう、乾杯」

 

 俺はグラスを富山に向けて掲げた。


                  『アネモネ』完


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【完結】アネモネ(作品230605) 菊池昭仁 @landfall0810

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