Busby's chair

 傾いた月が上る廊下を、ノースは走っていた。

 もうこの宮殿に来てから一週間が経とうとしている。しかし、アンリへのアプローチは、全くをもって身を結んでいなかった。この城から追い出されるのも時間の問題だ。何とかして彼の気持ちをこちらに向けなければならなかった。


「アンリ様!」


 彼の部屋へ駆け込む。扉を開けると、彼は淡々と机に向かっていた。


「…今は仕事中だと伝えましたが」

「でもッ……」


 少女は必死になって、彼と会話を続ける糸口を見つけようとする。アンリはそんなノースの焦りを感じ取ったのか、溜息を吐くとペンを置いた。


「…貴方がここに来て、どれくらい経ちますか」

「…今日で六日です」


 何故そんなことを聞かれるのか分からず困惑した声で伝えると、彼は小さな声で何かを呟く。少女は耳を欹てたが、その言葉を理解することは出来なかった。


「……バズビーズチェアの話を覚えていますか」


 忘れていた記憶を掻き起こされ、少女は静かに頷く。


「私の国にもバズビーズチェアと呼ばれる椅子があるんです」


 耳を疑う話に少女は首を傾げた。アンリは席を立つと少女に近づき、視線を合わせる。青い瞳は真っ直ぐ、少女の瞳を覗き込んでいた。その瞳の奥に焦燥感に駆られる自分が映っている。


「貴方が今座ろうと企んでいる、女王の玉座です」


 静かな一言。困惑にあとに渦巻いたのは激しい怒りだった。これは都合の良い嘘だ。そう言って自分を脅し、帰るよう促しているのだ。


「これが最後の警告です。自国に戻って下さい。

 それが身のためです」

「嫌です! それでは私の顔が立ちませんから!!」


 ノースの喚きを聞いても、アンリは涼しい顔で机上の書類に目を通し始めている。それが見放されているようで悔しかった。


 少女は挨拶もなしに部屋を飛び出す。グレースのところへ行きたかった。彼女は信頼のできる使用人であると同時に、彼女の良き理解者だった。グレースに話を聞いてもらおう。逸る足で廊下を曲がる。その途端、誰かにぶつかった。衝撃で思わず尻餅をつく。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔をあげ睨みつけると、彼──ノエルは驚いたような顔をした。

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