Ask yourself whether you are happy, and you cease to be so. ​─── John Stuart Mill

She

 いつまでもこの手を離せないでいる。人の温もりに安堵している。

 忘れてしまった感覚が心の内に充ちて、この時間の満足感と幸福感の裏に、寂しげな孤独の香りを感じ取る。冬の朝のように凍てつく感触が露呈して、指先がひんやりと冷たい。その気配を感じ取る度、自分はさらにきつくその手を握りしめていた。自分よりも幾許も細く白いその手は、いつも温かくて優しい。その感触に安堵し、また孤独を嗅ぐ。

 その香りが肺を刺すとき、思うのはいつもあの日のことだった。自分が約束を捨てた日。その手を振りほどいた日。恐ろしいほど月が明るかったあの日。自分は大切なものを裏切ったのだと、ぼんやりと思い出した。そして怖くなった。自分が握っているこの手も、ここで振り解いてしまえば孤独に帰る。自分にはその権利が、いつも傍に、当たり前のよう判然と、横たわっていた。ふと考えると、自分はいつも何かに縋っていた。自分の手に触れる者はあっても、その手が力強く、自分を生に留めてくれることは無かった。しかし自分はいつも誰かを生に引き止め、それでいて彼らを率先して死の淵に追いやっていた。自分の握った赤い跡が血に染まっていくのを、ただ眺めていた。そう思うと更に怖くなった。今すぐにでもこの手を離すべきだと思った。もうこれ以上、誰かの温もりを、幸福を屠ることは許されなかった。彼女に笑いかけて、そっと手を離す。不思議そうに振り返った瞳が、突き抜けるように青くて鮮やかだった。少し名残惜しい気がして、僅かに逡巡する。視界の隅で白い腕が寂しげに揺れて、その端に赤を見た。強く握った手の跡が、はっきりと残っている。それを見て、震えた。早く離れなければならないような気がして、視線を逸らした。


 走り出す世界に遅れた左手。その先に強い痛みが走った。


「どこに行くの?」


 囁きに目の前が揺れる。握られた右手。視界の隅でまだ赤が光っていた。

 握られた手首から、血の巡りと鼓動を感じる。


「貴方が傷付けた分、私は貴方を傷付けられる。

 貴方が抱きしめた分、私は貴方を抱きしめられる。

 私は弱い女じゃないですよ?」


 手が離れ、彼女はまた歩き始める。褐色の肌に、はっきりと跡が残っていた。じんじんと痺れる手先が熱くて、堪らなく愛おしい。温かさが巡る。彼女の姿が遠くへ流れる。その後ろ姿を追いかけて、もう一度手を掴もうと手を伸ばした。その先に、そっと手が差し出された。彼女は悪戯っぽく笑っている。少し躊躇ってからその手をそっと包むと、指の先々まで彼女の生命と混ざり合う。

 「今日の夕飯は何にしましょうか」と、声がする。温かい。この世界の全てが、愛おしい。彼女と並んだ世界。青い空が木立を突き抜けて、その先に見える光が眩しかった。


 その日、この世界を、君を、もっと好きになった。

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