8 黒き鳥、英雄を助ける
レナードがリリアンの『魅了』魔法をかけられた。
室内には静寂が満ちる。
ルシルはココの目を使いながら、その様子を見守っていた。
「これであなたは私のものよ」
リリアンが勝ち誇った声で告げる。
直後、車いすの男が動き出した。
脚が悪いというのは、嘘だったようだ。彼はしっかりとした足取りで、リリアンの下へと向かう。忠実なる下僕のように膝をついて、頭を垂れた。
「ああ、リリアン様……。今日も麗しい……」
リリアンは彼を一瞥すると、その頭を犬のように撫でる。粗雑な手付きだが、それでも嬉しそうに男は恍惚と顔を歪めた。
「さあ、あなたもこちらに来なさい」
リリアンが手を伸ばすと、レナードがゆっくりと顔を上げる。
ココの視界からはレナードがどんな表情を浮かべているのか、ルシルは見ることができない。
レナードが立ち上がり、リリアンへと足を踏み出した。
ルシルはその様子を見守りながら、不安に駆られていた。
(リオ……? まさか本当に、『魅了』されてないわよね……?)
『魅了』は想い人が存在する場合にしか効かない。その想いの対象を自分へと錯覚させるものだからだ。
レナードが『魅了』にかかって、リリアンに愛を注ぐところなんて見たくない。でも、同時に、レナードが『魅了』にかからなければ……彼は誰のことも愛していないということが証明される。
どちらのパターンでも、ルシルは胸のざわめきを感じていた。先ほど彼への想いを再確認した身としては、つらい状況だった。
実際は数秒だが、ルシルにとっては永遠のような時が過ぎ――。
「メリス・ティア」
冷静な声が呪文を唱える。
光のロープがリリアンの手を縛り上げた。
リリアンが目を見開く。
ルシルはホッとしてから、胸が切なく絞めつけられる痛みに耐えていた。
レナードは『魅了』にかからなかった。彼の心には今、誰への想いも存在しないのだ。
「なっ……まさか……あなた……!? 魅了にかかってない……!?」
「リリアン・ドイル。闇魔法使用の現行犯で、逮捕する」
リリアンは顔をしかめ、捕縛から逃れようと腕を動かす。
「エルゴ・ティーゾ! エルゴ・ティーゾ! エルゴ・ティーゾ!!」
しかし、魔法は発動しない。この光のロープは、対象者の魔法を封印する効果があるのだ。
無駄だと悟ったのか、彼女は肩を下ろす。
「ふ……ふふ……さすがだわ。英雄と呼ばれるだけのことはあるわね。レナード」
レナードも、遠隔で見守っていたルシルも息を呑んだ。
レナードの変装はまだ解けていない。いつから彼女はレナードの正体に気付いていたのか?
リリアンはこの状況下に置いても、高飛車な態度を継続させながら、顎をそらした。
「そんな変装魔法で私を騙せると思ったの?」
途端、レナードはわずかに残っていた『リオの仮面』を脱ぎ捨て、いつもの不愛想な英雄様の顔へと戻った。
「メリス・ティア」
声からも温度が失われ、冷ややかなものになっている。レナードが呪文を詠唱すると、変装が解けて、いつもの彼の姿に戻った。
「いつから俺だと気付いていた」
「すぐにわかったわ。あなたのこと……一度だって忘れたことはなかった。あなただって私の気持ちは知っているはずよ。5年生の春……あの時……」
リリアンが体の角度を変えて、レナードの正面に立つようにする。
一瞬だけ――彼女の高慢な態度は崩れ、悲しそうに眉を下げる。その瞳に宿った感情は、切ない色を宿していた。
一方、レナードは冷酷な態度を崩さない。リリアンの言葉に、記憶を引っ張り出そうとする様子すら見せない。
リリアンのことを覚えていなかったくらいなので、彼女が言っているのがいつのことなのか、わからないのかもしれない。あまりの冷酷ぶりと、先ほどまで見せていた甘い態度のギャップに、ルシルは頭がくらくらとしてきた。
「あの時、私があなたに告げた言葉は本心だったの。それに……今もね」
リリアンは足を踏み出して、レナードへと近付く。手を拘束されているので、倒れこむようにして、レナードの胸へともたれかかろうとした。
しかし、レナードは不快そうに眉をひそめ、その肩を押しやる。
「触るな」
明確な拒絶だ。
リリアンは俯いて、肩を震わせる。
「ふふ……はは……! あなたがどうして『魅了』魔法にかからなかったか……わかったわ! あなたには想い人がいないのね。さっきの女……アンジェリカって言ったかしら? 初めからあなたたちは、私を疑っていたんでしょう。それで、調査のためにここに来たってわけね。あなたはあの女を愛する演技をしていただけ。偽りの愛は、奪えない……」
わかっていたことだが、改めて言葉にされると、ルシルの胸は苦しくなる。
学生時代――レナードと親友同士だった、あの頃にはもう戻れない。ルシルがザカイアの配下になった時から、レナードには嫌われてしまったのだ。
そして、自分が死んでから、もう8年の歳月が経っている。
レナードの中で、ルシルとの記憶はかすんでいることだろう。むしろ、当時は仲が良かったことを後悔しているかもしれない。「忘れたい」と思っていても不思議ではない。
(ああ……だから、リリアンのことも、よく覚えていないのかも……)
ルシルがそう考えて、重い気分になっていた――その時。
「レナード……。心が奪えないのなら、器だけでももらってあげるわ」
「フリス・タリオ」
聞き覚えのない呪文が響いて、ルシルはハッとした。
今の魔法――唱えたのは、リリアンじゃない。
――誰が!?
突然のことで、ルシルもレナードも反応が遅れた。
リリアンのロープが解かれる。そして、彼女は素早く身を翻し、レナードから離れた。
「なっ……!?」
「エルゴ・ディーゾ!!」
リリアンが呪文を唱える。
光線が彼女の掌から撃ち出され、一直線にレナードの下へと――!
レナードは素早く身を翻す。反応は早かった。しかし、わずかに間に合わない。リリアンが撃ち出した光線は、レナードの左脚をかすった。
レナードは眉を少しだけひそめるが、苦痛を受け流すように、仏頂面を維持している。しかし、ココの目からは彼の状態が確認できた。肌が焼けこげている。それも足をやられた。
そして、2対1の状況――。
リリアンを助けたのは、車いすの男だった。彼もまた魔導士だったのだ。
「ご無事ですか、リリアン様」
「ええ。よくやったわ」
リリアンは髪を後ろへと払うと、にんまりと笑った。そして、レナードの様子を楽しげに眺める。
レナードは即座に反撃に出ようと、呪文を唱える。
「メリス……っ」
「あはは、そうはさせないわよ!」
リリアンがそう告げると、部屋の扉が乱暴に開けられる。そして、見知らぬ男たちがなだれこんできた。彼らはリリアンを守るように立ちふさがる。
彼らの瞳もぼんやりとして、正気でないことが一目でわかる。『魅了』をかけられているのだ。
レナードは唇を噛んで、詠唱をやめた。
『魅了』にかかっているのは一般人だ。彼らに攻撃魔法をぶつけるわけにはいかない。魔法は呪文の詠唱を始めた時点で、どの魔法を使用するかを選択している。途中で別の魔法に切り替える場合、初めから詠唱し直さなくてはならない。
「メリ……」
しかし、レナードが再詠唱するよりも、リリアンの魔法が完成する方が早かった。
「エルゴ・ディーゾ!」
「フリス・タリオ!」
男の魔導士も加勢を行い、2種類の攻撃魔法が別方向からレナードに襲いかかる。レナードは詠唱を断ち切ると、横方向へと飛んだ。
やはり脚の怪我が響いているのだろう。ステップするのではなく、床へと転がる形での回避となっている。受け身のとり方も鮮やかであったが、彼が体勢を正したその瞬間――。
男たちがレナードに一斉に飛びかかった。そして、レナードの腕を左右からつかんで、羽交い絞めにする。
「あははは! 捕まえちゃったわ。とうとうレナードを! 今日からあなたは私のものよ!」
「……離せ」
「ふふ……とても、いい眺めだわ。このままあなたを観賞しながら、ワインでもいただこうかしらぁ?」
リリアンは顎の下に拳を当てて、見下すようにレナードを眺める。
次の瞬間――ルシルは遠隔から、ココに命じた。
「ココちゃん!」
「うん!」
ココの視界が急激に揺れ、床が映る。
急下降からの、はばたき、突撃――。
ココは一瞬の間に、レナードの懐へともぐりこんだ。
そして、ルシルは唱えた。
「タナト・フェロウ!」
ココの体を中心として、魔法陣が浮かび上がる。リリアンたちの目からすれば、ココを捉えられず、空中に突然、魔法陣が浮かび上がったかのように見えただろう。
「魔法陣……っ!?」
彼女がハッと息を呑むと、同時。
レナードを捕らえていた男たちが、その目に光をとり戻した。呆気にとられたように辺りを見渡している。
「あれ? ここは……」
「俺はいったい……?」
その様子にリリアンは愕然としている。
「解呪した……!? 嘘! 嘘よ! この呪いを解ける魔法なんて……! そんな魔導士……存在するはずがない!」
「メリス・ティア」
「いやあ……!」
その隙を狙って、レナードが魔法を唱える。再度、光のロープがリリアンを捕縛した。勢いよく捕らえられた衝撃で、リリアンは床へと倒れこむ。
まだ状況を呑みこめていないのか、呆然とした様子で男たちを見つめていた。
そして、彼女はゆっくりと顔を上げて、レナードを見る。ふふ、と諦めのこもった空気が、口元から零れた。
「さすがね、レナード……。8年前、あの女が作った即死魔法も、あなたの魔法が打ち破ったと聞いたわ……。これが英雄の実力なのね……」
◇
リリアンの言葉は、レナードの耳には入っていなかった。彼は必死で辺りを見渡して、探していたのだ。
視界の端が捉えた、あの影を。
(……今、見えた)
魔法陣が展開する直前。
――
その光景は彼にとって、深い意味を持つものであった。
似ているのだ。
状況が、あの時と――。
(8年前……俺がザカイアと戦った時と同じだ……)
あの時は白い鳥だった。
だが――。
2羽の鳥には、共通点がある気がしてならない。
レナードはそう考えていた。
+ + +
男性魔導士の呪文:フリス・タリオ
意味→堅忍質直
元は真面目で愛妻家のリーマンだったみたいです。
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