9 唱えられない呪文
ルシルはポリーナの使い魔を無力化すると、
ポリーナは校舎から離れ、森の上空を飛んでいた。ルシルはすぐに呪文を詠唱する。
「タナト・フェロウ」
次の瞬間、風がうなりをあげるほどのスピードで、箒が飛翔する。あっという間にポリーナに追いついた。
「ポリーナさん! 逃げても無駄よ。大人しく投降しなさい」
ルシルが後ろから声をかけると、ポリーナはぎょっとして振り返る。
「あなた、いったいどうやって……!? それに、そのスピードは……!?」
「闇魔法に手を染めてはだめ。それはあなたの身を滅ぼすものよ」
「わかっていないのは、あなたの方よ!」
ポリーナは激情を叩きつけるように叫ぶ。
「闇魔法は、無力だった私に力を与えてくれた! ザカイア様のおかげで! 私はあの子の仇をとることができたの!」
「……あなたも、ザカイアを崇拝しているのね」
ルシルは呆れを含んだ息を吐く。更に箒のスピードを上げると、ポリーナの横についた。
「来ないで!! アスロ・ハーノ!!」
ポリーナが呪文を唱え、魔法が発動する。
突風がルシルへと襲いかかってきた。
本来であれば、ルシルにとってそよ風ほどにしか感じない魔法だ。避けることも、防御することも
「タナ……っ」
ルシルは呪文を唱えかけ、そこでハッとして、口をつぐんだ。
(だめ……! この距離では、呪文が聞かれてしまう)
魔導士には、その人ごとに固有の呪文が存在している。
ルシルの場合は『タナト・フェロウ』だった。魔法を行使する時には、火をつける魔法でも、水を作る魔法でも、一律に『タナト・フェロウ』と唱える。固有呪文は魔導士によって異なっていて、1人として同じ呪文になることはない。
つまり、固有呪文が個人の特定につながるということである。
『タナト・フェロウ』……それは、この国では有名な固有呪文だ。悪女ルシルが唱えたものとして周知されていて、現在では禁止語句に指定されている。
ルシルがこの呪文を唱えているところを誰かに聞かれた途端、ルシルの正体がバレてしまうのだ。
ルシルは歯噛みすると、別の呪文を唱え直した。
「カラ・ザティ」
これは生前のアンジェリカの固有呪文だ。しかし、呪文は体ではなく魂と結びつくもの。心が変わった場合、固有呪文が変わってしまうという前例も存在する。
ルシルがもっとも力を発揮できる呪文は、『タナト・フェロウ』なのだ。
防御壁が展開する。それはルシル本来の実力よりも、はるかに
ポリーナの突風が、ルシルの防御を貫通する――!
「きゃっ……!」
その風によって、ルシルの体は弾け飛んだ。
視界が揺れる。
咄嗟に手を伸ばして、箒の柄をつかむ。ぶら下がることで、かろうじて落下することを防いだ。
ポリーナが狂気じみた笑い声を振りまく。
「あはははは! 私の使い魔から逃げられたのは、まぐれだったのかしら? 魔法の腕は大したことがないようね!」
不安定な体勢のせいで、視界が揺れる。こちらを見下ろして、ポリーナは優越感のにじんだ笑みを浮かべた。
「私にあれだけ偉そうに説教しておいて、魔法の腕は劣っているなんて……本当に
再度、突風が吹きつける。
ルシルの体は、今度こそ箒から投げ飛ばされていた。
――落ちる。
「くっ……タナ……っ」
もうこうなってはなりふり構ってはいられない。
このまま死ぬくらいなら、この少女に正体がバレる方がまだマシである。ルシルは本来の固有呪文で、箒を呼び寄せようとした。
その瞬間、
「メリス・ティア」
冷徹な呪文の声と共に、風が巻き起こる。その風がルシルの体を包みこんだ。
(この呪文……!?)
魔導士は呪文の文言だけで、誰が唱えたものなのかを特定することができる。ルシルはハッとして、振り向いた。
「1人で被疑者と対峙するとは、無謀にもほどがあるな。新人」
「り……レナード……!」
レナードは感情を失くしたような表情で、ルシルを見つめている。
ルシルを包んでいた風が、ふわりと浮遊感をもたらして、消えていく。すると、眼前にレナードの箒がやって来た。片腕でルシルの体を抱きとめる。横向きに抱かれる体勢だ。
突然、密着した体温にルシルの頬は赤く染まった。
「え……ちょ……!?」
「振り落されたくないのなら、大人しくしていろ」
冷徹な声が耳元で響く。腰に回った手、その力が思いの
(な、何でこんなことに……!?)
ルシルは恥ずかしさのあまり、レナードの腕の中で縮こまる。もともと小柄なため、すっぽりと収まるサイズだった。
箒の2人乗りは難度が高いのだが、レナードの箒は揺れることなく安定している。あっという間に上昇して、ポリーナの箒と向かい合った。
「英雄レナード……!」
先ほどまで優位に立っていたはずのポリーナは、レナードの登場に焦りを見せる。すぐに箒を旋回させ、逃げの一手を打った。
しかし、それよりも早くレナードの呪文が響く。
「メリス・ティア」
ばちっ――雷光が弾けるような、魔法の発動音。
次の瞬間、ポリーナの両手は拘束されている。箒から弾き飛ばされ、空中で吊り下げられる体勢となった。
ポリーナはしばらくもがいていたが、それが無駄だと悟ると、観念したように体を弛緩させる。
「英雄が来るなんて、私もついてないわ……。そっちの新人さんだけなら、逃げきれたはずなのに」
恨みがましい目付きで、ルシルのことを睨んだ。そこでふと思い付いたように、
「そういえば、あなた、《
「《変貌》した使い魔だと?」
レナードは訝しそうな声を上げる。そして、ルシルに視線を落としてきた。もしルシルが後ろを振り返れば、至近距離と目を合わせることになっていただろう……! そうでなくても、突き刺さる視線の気配だけで、ルシルは落ち着かない気持ちになっていて、必死で目を逸らし続ける。
「あの闇魔法を受けた使い魔は、ベテランの騎士でも苦戦するはずだが」
ルシルは、へにゃりと笑った。なるべく頼りなく、弱々しく――無害な新人ですとアピールするように。
「ああ……ポリーナさんの魔法、失敗だったみたいよ。ほら、この子もちゃんと無事」
ルシルは騎士制服の中から、白ネズミをとり出す。ネズミの前足には依然として、呪いの痣が浮かんでいるが、それ以外に変わったところはない。弱々しい使い魔の姿だ。
ポリーナはため息を吐く。すべてを諦めたような声で告げた。
「……なんだ。そっか。つくづくついてなかったのね、私」
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