八 忍びの女

 皐月(五月)十五日。

 その夜。

 妖刀は再び護符で封印され、唐十郎の打刀と脇差しと共に床の間にあった。

 褥に入った唐十郎は、徳三郎の語った公儀(幕府)の改革案を思った。


「今、帰ったぜ」

 隣の長屋から藤兵衛の声がした。お綾が機嫌よく何か言い、この夜更けに魚を焼く匂いが漂った。夕方から大工の寄り合いで酒と肴が出たはずだ。小腹が空いたのだろうと唐十郎が思っていると、香の匂いが漂い、唐十郎はいつのまにか眠りについた。


 物音で目覚めた。

 天井から誰か見ている。長屋は平屋だ。屋根裏は人が入れるほど広くない。 唐十郎はとっさに床の間の刀に手を伸ばそうとしたが、身体は眠ったまま動かない。

 天井板が外れ、黒装束の者が音もなく畳に舞い降り、唐十郎の傍に片膝ついて頭巾を取った。現われた顔は藤兵衛の女房お綾に似ていた。唐十郎は思わず、お綾さんと言ったが声が出なかった。


 有明行灯の明かりの中で、お綾に似た女は唐十郎の耳に口を寄せた。

「あの刀、無事に一つ、事を成し終えました。これからも、あなた様の定めを全うなさいませ。この事、藤兵衛は何も知りませぬ。知るのはお綾のみです。昼のお綾は町人なれば、私に何か連絡があれば、連絡は、藤兵衛に知られぬよう、お綾になさりませ」

 そこまで話し、お綾に似た女は畳から舞い上がり、天井裏に消えた。


 唐十郎はやっとの思いで身を起こし、家の外へ出た。藤兵衛の長屋は明かりが灯って魚の焼ける匂いが漂い、酒と肴の用意ができた、とお綾の明るい声がした。


 お綾に似た忍びの女が語った私の定めとは、いったい何だ。政や商人の不正を正す事か。

 これまで公儀(幕府)は、改革と銘打って百姓町人を働かせ、一時の豊かさを与えたが、改革の利益は公儀と各藩、そして商人の懐に入り、庶民は相変わらずその日暮らしだ。

 幕藩体制の上に立つ者は、食べ物から着る物、住居に至るまで、全て百姓町人が手掛けた物を所有する。銭も年貢米を商人を通じて換金したものだ。

 また被支配の憂き目が庶民に下される・・・。

 そう思うと唐十郎はやりきれなくなった。


 仮に公儀に代る体制ができたら、どうなるのか・・・。しかし、庶民の暮らしが豊かになり、明るく暮らせる日々が続けば、それだけで良いのか・・・。

 いつの世も天変地異は有り得る。豊作が永遠には続かぬように、いつか思わぬ事が起こるのが世の定めだ。その時、どのように対処するかが政の価値を決める・・・。

 月を見ながらそんな事を思う唐十郎は、己の周囲に渦巻く不穏な陰を感じた。それは世の中に蔓延する不穏な空気を、いち早く唐十郎自身が察知しているように思えた。

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