第4章 生活
第31話 禰々島
昼前の太陽と海風に、黒い目を細めている。傍らに置いたびくは、中の魚が跳ねるのと同時に、生き物のように震えていた。
「今日はよく、魚が釣れる」
歌うように言うと、釣り竿を引き上げる。その糸の先に、身を振って逃れようとする魚――しかし蛇のような姿をしており、蛙の手足のような位置に
釣り人は蛇のような魚を掴むと、口から針を外す。同じ魚の入ったびくに放ると、餌をつけて海へ釣り竿をしならせた。
ふと、頬に冷たい風を感じて空を見る。水平線の上空に、真っ黒い雲がのさばっていた。
一雨来るだろうが、まだ大丈夫だろう。たまには雨に濡れるのも悪くない。そう思って鼻歌をうたいながら釣り糸を垂れていたのだが、洗濯物を干していたことを思い出す。
釣り人は慌てて釣り糸を引き上げ、餌を外して籠の中に戻す。腰にびくを下げて籠と釣り竿を持ち、崖を後にした。
険しい岩を削った作りの、不格好な階段を上る。何度か折れたところで階段がひと段落し、新緑の木々が繫茂した森に入った。急勾配を、軽やかに登っていく。目指す先である島の頂上には、灰色の塔が建っている。釣り人はそこに住んでいた。
息も切らさず登りきる。塔の周りには畑があり、作物が葉を揺らしていた。釣り人は、身の丈の倍はあろうともいう木の扉を開ける。廊下や壁も、外壁と同じ石でできており、中は薄暗い。入ってすぐ左にある入り口の向こうには台所があった。荷物を棚の上に置き、勝手口から外に出る。
冷たい風になびく洗濯物は、乾ききってはいなかった。潮風に混ざって、雨の匂いが濃くなってくる。元釣り人は洗濯物を取り込んで、塔の中央を貫く
黒ずんだ扉の前で「
隣の部屋から空を見ると、雨雲が遂に太陽を覆っていた。
嫌な予感を抱えながら、一階に下りて魚をさばいていたが、空がゴロゴロと鳴り始めたのでいよいよ何かあると塔を出る。
塔から下へ下りる二本の道の内、釣りを終えて上ってきたのとは別の、浜へとおりるための道を下る。はやる息と共に森を抜けた所、岩の手前に少年が立っていた。曇天の下、振り返った青白い顔に、
「変なのが来た」
「変なのって何」
「分かんない。
真っ黒に
「新種の獣?」
「だったら話は早いよ退治しちゃえばいいんだから……そうじゃない気がする」
ぽつりと冷たい雫が落ちてきたかと思うと、次から次へと大粒の雨垂れが落ちる。
「ほら降ってきた。雷使うかもしれないから戻ってて」
「あんたの側にいりゃ当たらないだろ」
「気が散るって言ってんの」
「大丈夫大丈夫あんたなら」
と笑って肩を叩く。
「大丈夫じゃないから言ってるんじゃん」
少年は不機嫌そうに顔を歪めた。
あっという間に土砂降りになり、
「まあ、害になるかは分かんないってことでしょ。雷使ったら即死しちゃってたいへ……」
「……ち……。だ……ぃ…………ぉ……」
二人は顔を見合わせる。
浜の方から、
「……人っぽいね」
凌光がわけもなく声を潜める。
「いや、人の皮着た化物かもしんない」
「そんなの今まで来たことないだろ」
「そもそもここ意味分かんない場所なんだから、何が起きたって不思議じゃないでしょ」
「……ぃち……おれが……おれは…………わるかった………………!」
悲痛な声が灰色を裂いた。
「こわ……」
「だから戻っててって言ったんだ」
「でもちょっと面白いかも……」
「……勝手にしなよ」
階段を這い上がってくるような音が消え、かわりにむせび泣く声が上ってくる。
「なんか、可哀想だね」
「そうやって人を騙すやつなのかもしれない」
「だれか……だれかいるのか?」
そう聞こえたかと思うと、階段を駆け上がる音がする。目を丸くした二人の前に現れたのは、ボロボロになった服を纏った青年だった。顔に貼りついた髪の間から、黒い瞳がのぞいている。
「……ちを、みちを、知らないか!」
瞳を、
その鼻先に、青颯が手にした闇の刃の切っ先をかざす。
「それ以上近づかないで」
「ちょっとあんた危ないでしょ」
「黙っててよ」
青年は、少年の険しい瞳と刃を見て、肩の力を抜いたように一歩退く。
「あんた、名前は」
「……晴瀬だ」
どこかで聞いたような名前だ、と凌光は首を傾げる。
「どっから来た」
「死んだ後の、世界だ」
「何しに来たの」
「……知らねえ。俺だって、こんな所いたくねえよ。どこなんだここは」
「
青年は、両目を大きく開いた。
「死んだ後の魂が向かうって、あのネネトウか……?」
「そうそう。そうだよ」
首を傾げる青颯のかわりに、凌光が何度も首肯する。
「残念ながらそんなものは迷信だよ。あんたはどうやってここに来たの」
少年が固い声で突き込む。
青年は見開いた目を半分にまで閉じ、黒ずんだ岩を見下ろして溜息を吐いた。
「引っ張り上げられたんだ。怨霊に」
雷光を、唸り声が追いかける。青颯は闇の刃を消し、腕を下ろす。
「あんたは生きてるとき、何をやったの」
「……聞かないでくれ」
うつむいた彼の、握った拳が震えている。しかし青颯は「聞かれちゃ悪い事したんだ」と食い下がる。
その間に、凌光が割って入った。
「まあまあ。これ以上ずぶ濡れになるのも嫌だし、悪い人じゃなさそうだし、とりあえず塔に連れてってやろうよ」
「相当悪い事したみたいだけど」
「でも反省してるっぽいじゃない」
「反省してたって、悪人が何をやるかは分かんないよ」
「その通りだ……」
晴瀬は、手の平を額に打ち付ける。
「俺は、みちも……救ってやれなかった……人だって、殺した」
凌光は同情するように悲しげな顔をするが、青颯は晴瀬の感情に構わないようで「だから何なの?」と首を傾げる。
「それなのに俺は、また生き返っちまった」
「安心して。半分は死んでるから」
「俺は、死にたいんだ!」
細かな飛沫を散らして、彼が顔を上げる。
「まったく、無いものになりたいんだ」
「じゃあ死ねば?殺してあげようか」
「なんてこと言うの、あんたは!」
と凌光が大きな声を出しても、彼はひるまない。
「もうじき雷雲が来る。俺があんたに雷を落として、一瞬で殺してあげるから」
虚ろな瞳で頷く晴瀬の顔に、雷電が影を作る。空を破裂させるような雷鳴を背中に感じながら、凌光は晴瀬の肩を叩く。
「こんな血も涙もない術士の言うことなんて聞くもんじゃないよ」
「死にたいって言ってんのに無理に生きさせる方がむごいよ」
「わざわざ死にたいなんて口に出すのは、死にたくないからだよ。ほんとに死にたい奴は勝手に飛び降りるさ」
春の日差しのような声で言うと、晴瀬の背中をバアンと叩く。
「飯でも食って温まれば、生きてく気力も生まれるもんだ。こんなとこでうだうだしてないで、家においでよ」
背骨が折れるかのような衝撃は、熱となって晴瀬の全身を駆けていた。
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