第30話 月の女と海の男*四

「殺してない、わたしは、殺してない」

 首を絞めたその時の、彼の表情が頭をよぎる。

「晴瀬起きて」

 見下ろす彼は答えない。

「わたしが殺した?」

 しかし自分も死んでいる。

 死の世界に死は存在しない。

 だからわたしは彼を殺していない。

 みちはゆっくり、乾涸びた大地に倒れ込む。


 視界は霞んだ青空で、いっぱいになる。震える両手で、頬に触れる。肉を指先でいじる。体温の存在も分からない。温かくも、冷たくもない。

 わたしは死んでいる。

 しかし腹に子供がいる。

 蛇の子供を、へこんだ腹の中に、たんまり溜め込んでいる。

 それを晴瀬にはまだ言っていない。

 どうする、晴瀬が目を覚ましたその瞬間に、生まれなどしたら。

「嫌だ」

 どんな冷たい顔をされるだろう。どんな言葉を吐かれるのだろう。

「いやだ」

 それなら目を覚まさなければいいし、死んだままでいいし、わたしは彼から離れればいいだけだし。


 みちはむくりと立ち上がり、荒野を一人で歩き始めた。

 いやだ、いやだ、と念仏のように唱える。

 こんなことになると言われていたのに、なんで、竜宮を出たりしたんだろう。だってあそこは嘘ばっかりだ。嘘に巻き込まれて自分も嘘になっちゃうよ。生きながら死んでるみたいになっちゃうよ。

 みちは立ち止る。

 生きながら死んでる。

 今のわたし、これは何?

 回れ右をする。晴瀬がまだ横たわっている。

 駆け戻り、膝を突く。頬を叩く。返事はない。その胸に耳を当てる。鼓動はない。自分の胸に手を当てる。鼓動はない。

 死の世界に死は存在しない。

 だからわたしは彼を殺してはいない。

 それじゃあ晴瀬がぐったりと横たわっているのはどうして?

「晴瀬」

 彼がぱちり、と目を開けた。

「晴瀬!」

 抱きつこうとするが、やめた。


 背中にじっとり貼りつく、月神の気配。 


 顔を引きらせた彼女に、晴瀬は首を傾げる。

「どうした」

「なんでもないよ」

「ひどい、顔色だぞ」

「だって、もう、月神から、逃げられない」

「何、言ってるんだ」

「わたし、死んでるのに……」

 サアア……、と腰から下が冷たくなっていく。石のように硬直して立てなくなる。

「みち!しっかりしろ!」

 彼女の身体を支えるが、娘は目を合わせない。


「あなただってさっき死んでた。わたしが、め殺した、のに、生き返っちゃって……」

 ぎちぎち、身体が氷になっていく。

「ごめんね、駄目だった。月神に、結局、やられた」

「でもこうして、元に戻るんだ。しっかりしろ!」

 晴瀬は縋るような思いで、彼女の手を握った。

「ここはもう、死の世界だ。俺を殺したって殺せない。俺たちが辿り着くべきは、ここだったんだろ。今度こそ二人でいられる」

「運命はね、そんなに甘くない」

 そうであっても、絶対に、息の根を止める日が来る。自分を手渡してしまった今、みちはそれを確信していた。

「お前に何度殺されたって構わない。昔とは違う未来をつくってやる。今度こそ、お前を幸せにしてやる!」

 黒い瞳が、涙に光る。

「わたしのお腹にはたくさん蛇の子供がいるの。竜宮のあるじの子供がいるの。ね、おぞましくおもうでしょう」

 腰から上も、冷たくなり始める。

「そんなの、どうだっていいよ。お前が蛇の子供産んだって、どうだって!」

「ことばでは何とでも言えるわ」

 歪んだ笑顔を最後に、彼女は石のようにかたくなる。白い皮膚の下から黒い染みが浮き上がり、やがて全身を染め彼女は真っ黒になった。

「おい……!」

 実体があったはずの彼女はボロボロと崩れ、指の間をすり抜ける。ひび割れた大地の隙間から、地の底へと流れ落ちていった。


「うそだろ……」

 晴瀬は彼女を追い地面を掘ろうとする。しかしその表面すら、めくることができなかった。術を使っても、闇の方が砕けてしまう。

「なんでだよ」

「ざまァみろ!」

 空から哄笑こうしょうが降る。

 春軌の声だった。

「君が行くのは地底じゃない。地上だ!」

「いつまで、俺を追うんだ」

 晴瀬は悲痛を叩きつける。

「この憎しみが消えるまでさ」

 空の一点が歪み、真っ黒な穴が空く。穴に向かって風が抜けていったかと思うと、穴は景色の全てを吸い込もうとうなる。晴瀬は身を低くして耐えようとするが、嫌な浮遊感が内臓を襲う。

 身体からだが宙を舞い、彼は穴の中へと吸い込まれていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る