第29話 月の女と海の男*三
「晴瀬!」
手探りで彼の身体を探すが、指先に触れるのはぬかるんだ大地。
「怖い!晴瀬!起きて!」
暗闇を借りて、夢の光景が反芻される。
「見たくない!」
目を瞑れど開けど、一面の黒。雨音の隙間から、子供の泣き声が聞こえてくるようだった。
「助けて!」
「だから、離れろって言ってあげたのに」
空から、聞き覚えのある声が降ってくる。
「あなた……」
「
「晴瀬を、どこに、やったの!」
「どこにもやっちゃいないよ。ただ、あんたが探せないようにしてあるだけさ」
「どうして!」
「晴瀬が起きちゃうだろう。僕は今、わざわざ雨まで降らせて、夢の中で晴瀬を溺死させようとしているところなんだ。邪魔されたら困るからさ」
「そんなの、やめてよ!やだ。雨、やめて!」
「やめないよ。さっきも言ったけど、離れた方が身のためだって忠告してあったじゃないか」
「やだ!やめて!」
何度も暗闇に声を放つが、もう返事は返ってこなかった。
「そんな……」
「また夢を見たのね」
背中に貼りつく気配。声はケネカのものだった。必死に振り払おうとするが、彼女はヒヒヒと嘲笑うばかりだった。
「あんたが今見たのは、私の前の月の女さ。傑作だと思わないかい」
「う、る、さ、い!」
口の中に蘇ろうとする、男の肉を吐き出すように、叫んだ。
「どっか、行って!」
「嫌だよう、怨霊同士気が合うもんで、この雨は大層心地がいいもの」
「あなたに恨まれる、筋合いは、ない!」
「そりゃそうさ。私が恨んでるのはあんたじゃなくて、太陽の神だからね。それを倒すまで、こうしてぶらつくのを止められないし、あんたをからかうのもやめられない」
みちは、泣くしかなかった。耳を塞ぐのは無駄だと分かっていた。だからせめて、それよりも大きな声でかき消してやりたかった。
「そんなに泣いちゃ、つかれるよ……もうつかれているか」
面白くもないのに、ケネカは一人で愉快そうに笑う。
「あんた、念願かなって海の男と一緒になれたじゃないか。なのに、なんだか虚しい感じがしてるんじゃないかい」
「虚しく、なんか、ない」
「いいや、心のどっかではあの竜宮を思い出してるだろう。あそこは美しかったねえ。まやかしだとはいえ、季節もあるし、穏やかな所だったし」
「思い出してなんか、いない!」
「直に、思い出し始めるさ。竜宮の
「嘘だと、まやかしだと言ったのは、あなたじゃない」
「だけど離れろなんて言ってないよ。ましてや、消せだなんて」
「でも、だって、嘘が、怖かった!」
「それならあんたはよっぽど正直だってんだね。黙ってないで、ちゃんと、腹の中に子供がいますって言わなきゃねエ。蛇の子供がいますってさ」
「いな……」い、と言いかけて口をつぐむ。念と言葉で、腹の子供が
「ヒヒヒ。引っかからなかったかあ。そんなに化物の母ちゃんになりたいんかねえ。あんたがさっき、夢に見た月の女を思い出すよ」
「あの人が産んだのは、人間、だった!」
「いいや人間じゃあないよ。立派な化物さあ……あんたも知ってる奴だよ」
「しらない。もう、どこかへ行って」
強い息と共に言葉を吐くと、ケネカは笑いながら去っていった。
みちは一人、雨の中で立ち尽くす。身体が冷えているのに、腹だけは妙に熱い。何かが
雨の
銀色の空に滲んだ黄金が、雨雲を溶かしていく。真っ赤になった空から、光の円が昇ったとき、雨雲は完全に消えていた。何もなかったかのように、乾いた風が吹き渡る。ぬかるんだ大地も、ひび割れた肌を取り戻していた。身体を見ても雨の降った痕跡などなく、髪の毛は乾いた風になびいている。
「……みち」
振り返ると、彼が疲れた顔で身を起こしていた。
「大丈夫?」
駆け寄って、彼の向いに膝を突く。彼は、奈落を見つめるような瞳で頷いた。
「大丈夫じゃ、ないでしょう」
「……いや、大丈夫だ」
と笑うが、瞳の色までは
「大丈夫じゃない……あの、怨霊に、苦しめられたんでしょ」
彼は驚いて顔を上げた。
「わたし、聞いた。雨で、あなたを、溺れさせる夢を見せたって」
彼はもう誤魔化せなくなった。「そうだ」と重苦しい声で頷く。
「あなたにそんなに、ひどいことするのが、わたしは嫌だ」
彼の疲れた顔が、あんなに綺麗に光る瞳が、うつむいているのが辛い。
「仕方ないんだ」
彼は思いがけずも強い声で言った。
「俺が……殺したから」
晴瀬まで、嘘を言うようになったのか。
「あなたは、本当に、人を殺したの?」
すぐには答えず、拳を額にあてる。
「本当だ。人を殺すことが、絶対に嫌だった。だから、殺したんだ」
彼も、矛盾と分かっていて口にしたのだろう。その背後に膨れあがった物語の渦に触れてしまえば、何かが崩れる。その予兆を、はっきりと、耳にしていた。
しかしそれは幻聴だと、みちはなおも聞く。
「殺したくないなら、殺さなくよかったじゃない。だから、殺してなんかないのよ」
「そうじゃねえんだ」
彼が額に当てた拳は、震えていた。目を固く閉じている。引き絞るように言葉を吐く。苦しそうな彼を、みちは茫然として見る。
「春軌さんを……止めないと、もっと大勢の人が死ぬと、思ったんだ。俺たちは、王様に対して反乱をしようとした。術士も人間だと、主張するために。その頭が春軌さんだったんだ。俺たちは王様に会うために、城に攻め入ろうとした……でも、俺は、そんなことをしたら、ものすごい数の人が犠牲になるって気づいたんだ。だから……」
「殺したの?」
彼が震える唇を噛締めて、頷く。
大勢の幸福のために、一人を殺す。
村人の幸福のために、一人孤独に生き、果てに殺された自分。
曇った視界が晴れるようだった。彼は本当に、人を殺していたのだ。真実に頭を殴られ、身体からふらふらと力が抜ける。
「……俺だって、親に捨てられなきゃ、人なんて殺してない」
「でも、星の話教えてくれたの、父さんだって」
「俺を拾ってくれたじいちゃんのことだ。父さん、って呼んでた。父さんに、命は簡単に奪っちゃいけないって、それだけは強く言われて、育った」
「それな、のに」
声が震えていて、それ以上を言えない。
「それだから。一人だけ、の方がいいと……思っちまった」
両膝の間に首を落とし、髪の毛を握る。
「親に捨てられなきゃ、人なんて殺さなかったはずだ。俺は……」
血管の浮いた大きな手は、震えていた。
人を殺していそうな手だな、と思った。
彼の一面だけを見て、何を勘違いしてたのだろう。彼が内側に秘めた明るい太陽は、濃い闇を作り出していたのだった。
「その手で、いつか、わたしも殺すの?」
「そんなわけねえだろ!」
彼は顔を上げ、怒鳴る。
みちは身を
――ことばでは何とでも言えるわ
優しく
「お前」
両肩に膝を突き、
晴瀬は彼女を振り払おうとする。その華奢な手はびくともしない。優しく
ぐったりと力を失った晴瀬を見て、みちは我に返る。
「は……るせ……」
頬を叩く。返事はない。その胸に耳を当てる。鼓動はない。自分の胸に手を当てる。鼓動はない。
死の世界に死は存在しない。
だからわたしは彼を殺してはいない。
それじゃあ晴瀬がぐったりと横たわっているのはどうして?
「晴瀬は寝ているだけ。寝ているだけ」
言い聞かせようとする言葉は、乾いた風に遠く
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