第28話 月の女と海の男*二
足音を耳にし、目を開けた。光の中に人が立っている。
「具合はどうだ」
薄闇の中で見とめても、分かった。晴瀬に似た顔の男だ。
また、海の男を殺す夢を見ている。
「今日も滋養のあるものを持って来た」
のびて響く声は、洞窟にいるためだった。彼は腰を下ろすと、荷物を開いて準備をする。
「もう産み月も近いだろうから、村に来ないか」
うみづき?
恐る恐る、腹を見た。悲鳴を上げる。見事に、膨らんでいた。
「俺は子供を取り上げることはできん。村人に話は通してあるから、来い」
『わ、わ、わたしが、子どもを産んだり、し、し、したら、だめだから』
うまく、言葉を発することができなかった。
「子供を産んではいけない女が、この世にあるわけがない」
強い言葉に、彼を見る。
「お前の宿した命だ。産み、大切に育てろ。望まない子供で辛いかもしれないが、俺が力を貸してやる」
それでも、人ではない自分が、子供を産んでいいわけがない。腹の中で、そう強く感じていた。
幼い頃から、人に見えないものが見えた。人に聞こえないものが聞こえた。月が見えると普通にしていられず、所かまわず走り回る。お前は人間ではない。とあちこちで何かが
人間でもないのに女ではあった自分を憎んだ。
人間でない自分が産むものは、人間でないものに違いなかった。そしてまた、自分が勝手に腹の中で造り出したものに違いなかった。何の怨念がここに結実したのだろう。自分はきっと化物を産むし、化物を産まなければならないのだった。
しかし駆け寄ってくるのは、
「かあさん」
小さな、かわいい、男の子だった。
何の邪気も無い笑顔。それに自然と笑いかけるが、彼がその下にどんな化物の姿を飼っているのだろうと思うと恐ろしくもなった。今は人間の姿をしている。自分もそうだ。昔は人間だと思われていたはずだった。それがいつの日にかおかしくなってしまったのだ。
「――俺も恐ろしいと、思ったんだ」
強引に、場面が変わる。いかにも夢らしい。心臓が早鐘を打つ。晴瀬に似た男の、深刻そうな顔。今からこの手で、きっと、殺すのだろう。この男を。目の端が捉えた光に、目をやる。窓から、冴え冴えとした月光が部屋に注ぎ込まれていた。
「この家には恐ろしい因習がある……両親を殺して食べ、
話の内容が、理解できなかった。
それでも、男の真剣な顔を見るにつけ、自分が首を縦に振ることが、一番正しい選択であるように思われたのだった。
頷いた彼女を見て、彼は顔を明るくした。
「そのための道具も、書物も、全て揃えたんだ。コウアンは覚えもいいし素直だから、きっとよく継いでくれるさ」
彼は
「これを身につけ、知識を習得すれば、誰でも蠱術を使うことができる」
彼の手の平に置かれたものを見て、
それは、
両手を握り、身を丸めた、頭のでかい、四肢のある、生き物。
『な、に』
「人の胎児だ。死んだ母親がから抜き取った」
彼の言ったことが、信じられなかった。
『ど、どどどうしてそんなこと』
「蠱術を引き継ぐには、この方法しかないんだ」
人間でなければ、道具になっていいのか。死の野で安住することもできないまま、乾涸びて、永遠にこの世で形を保っていなければならない。化物の姿をさらして生き続けなければならない。
「これがあれば、親を殺して食べなくても、また血縁でなくても、蠱術を使うことができる」
彼の、全てを、否定したくなった。
『こ、こ、この』
男は目を白黒させた。やがて眉を
『お、お、おまえをころす』
都合よく、
『食え』
「ぼく、父さんなんて、食べない」
口中に広がる血の味を殺すように、五度ほど噛む。喉につっかかったが、無理やりに飲み込んだ。逃げまどうコウアンの口に、血と脂で光る肉をねじ込む。吐こうとするのを口を塞いでおさえる。
『お、おまえも、のめ、のめ、のみこめ』
しかし手の平はコウアンの吐き出す力に抗えなかった。
怒りがこみ上げた。
子供を
『だ、だ、だまれ』
泣き叫ぶのを、殴って止めさせる。
もう一度、男の腹から肉を切り取る。夕飯の残りが煮えた鍋に放り込んで、声を殺して泣くコウアンの髪の毛を掴み、顔を上げさせる。
『いいいいいいか。つぎは、絶対に、食べろ』
涙目は頷かない。
『へ返事をしろ』
怒鳴ると、やっとのことで頷く。
素手で鍋から肉を掴み、小さな口に押し込んだ。コウアンは泣きながら、震える顎でそれを
『そそそれでいい』
血濡れた
『こここれでわたしを殺し、同じように、食べろ。必ず、食べろ』
「嫌だ!かあさんまで死んじゃったら、ぼくは」
『ひひひ一人で、生きろ』
膝立ちになる。
『おおおお前は人じゃない。わたしから産まれたものは、人じゃない。人じゃないのは人と生きられない。お前は一人で生きる。お前は人じゃない。死ぬことができない。わたしの子どもは人になれない。お前は死ぬことができない。お前は人のかたちをしているだけで人じゃないわたしの子どもは人じゃないお前は死ぬことのできない化物に帰る場所はない。お前はえいえんのときを一人で生きる』
言いながら、握らせた包丁を己の心臓にずぶずぶと突き刺していく。口はまだ言葉を吐いていたが、やがて溢れる血液に塞がれる。コウアンの泣き叫ぶ声が遠ざかり、
みちは目を覚ました。
荒野に大雨が降っていた。
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