第27話 月の女と海の男*一

「わたしがあなたを殺したら、海の神の力を手に入れて、太陽の神を殺しに行くのだって」

 みちは頬杖をつき、焦点の合わない目で呟く。

「……そうしちゃったら、どうしよう」


 二人が再会したその日が、暮れようとしている。お互い、あれだけ焦がれた相手だったのに、感慨が不思議と薄かった。どちらが言うこともなく、西を目指し、並んで歩いていた。それは作業のようだった。どちらかの口が、別離から再会までの間に何があったかを、語ることもなかった。

 歩くのに飽きて、二人は腰を下ろしていた。みちはようやっと、月の女と海の男の話を彼に伝える。言おうか言わまいか、それまで散々逡巡しゅんじゅんしていたのだが、座った途端に気が抜けた。


「ここは死の世界だ。本当に殺すことなんて、できねえよ」

 乾いた唇で、晴瀬は答えた。

「ほんとに?」

「ああ……」

 晴瀬の目は、枯れた地平を映している。

「俺が殺させないよ」

 黒い瞳の中に、みちが映る。その奥で、熟した太陽が没しようとしていた。地平線は真っ黒に焦げ、やがて至る夜を先駆ける。

 娘はそれを振り返り、溜息を吐いた。

 荒野の夜は、どんなだろう。みちは己の肩を抱く。こんなに寂しい天地の夜は、きっと胸が塞がるようなのだろう。真っ暗にし潰されるような。太陽の没する方へと歩いたことを悔やむ。微々たるものではあるだろうが、夜までの間を少しでも生き延ばせたのに。


 瞳を閉じた彼女の耳に「おい、見ろよ」と明るい声が割り込む。

「星が出てきた」

 星が水の底から浮き上がってくるように、ちらほらと輝き始めていた。日が駆け去るのに従い、星は強くきらめいていく。いくらもしない内に、空は砂袋をいたような光に彩られていた。

「こんな所なのに、綺麗だな」

 みちは何度も頷いた。浮世離れして乾いた天地に、地上と同じものがある。熱心に星空を眺めた記憶は無かったが、自然と懐かしさを誘うものだった。


「これは夏の空だな」

「そうなの」

「ああ。この帯みたいのが、天の川だ」

 そう言われてみれば、夏祭の夜に、見上げたような空だった。空の端から端までを、雲が淡く光ったような川が横断する空。胸の底に、記憶がざらつく。蓋を開け出て来ようとするそれを、そっと押し返した。


「みちは、星の話を聞いたことがあるか」

「ないわ」

「俺の住んでた所では、星の話がいっぱいあったんだ」

 空を見上げていると、首が痛くなってくる。どちらともなく、乾いた地面の上に寝転がった。満天に広がった輝きの空が、視界を占める。ささやかな光でもより集まれば、夜闇を忘れる輝きになる。みちの視線は、天の川の両岸に、青く強い光を放つ二つの星に注がれていた。左の星は川の際に、右の星はいささか距離を置いた所にある。

「あれ……、川の岸で向かい合ってる星には、どんな、話があるの」

空から目を離し、彼がこちらを向く。

「会えなくなった男と女の話があるんだ」

 静かに光るその瞳は天を見る。

「あの右のが男で、左のが女だ」

 どちらも青白く光っていたが、右よりも左の星の方が、少し明るくまた大きかった。


「男と女は夫婦だった。それも、近所でも評判のおしどり夫婦だ。でもな、二人は唯一、お互いの許せないところがあった。それは、女は男に出仕して家を豊かにしてほしいと思うが、男はそのまま素朴に暮らしたいと思うことだった。唯一っても、その食い違いって大きいよな」

 みちは頷く。が、彼は空を見ているのでそれが分からないことに気づき、「うん」と口に出して返事をする。

「二人は相手が大好きだからこそ、それぞれの暮らし方がお互いを幸せにするって、強く思ってた。何百回も喧嘩して、言葉では伝わらないって分かった二人は、それぞれの思う暮らしがどんなに良いか、実際に見せに行った。それでも駄目だった。次に、相手の思う生活がどんなに悪いかを、実際に見せに行った。それも駄目だった。どうしようもないから、女は、男がどうして素朴な生活を求めるのか聞いた。男は、人の心を忘れないためだと答えた。男も同じように、女がどうして金持ちになりたいか聞いた。女は、どんなときでも、隣人に心を配る余裕を忘れないためだと答えた。そのとき二人が思いついたのは、そう思うことそのものをくじいてやろうってことだった。だから、男は周りの人間を殺し始めた。女はそれを止めようとしたけど、やめた。それが、人の心を忘れさせることだって気付いたからだ。一冬の間に、男は村人を全て殺しちまった。それを天の神様がとがめて、二人を空に上げたんだ。大きな川の両岸に引き離してな」

 語る彼の声は、さんざめく星々をかすませるような暗さを纏っていた。

「天の川が地面の下にある冬は、天の神様の目は届かないだろ。その間に、二人はそれぞれ橋をかけようとするんだ。でもいつも、あと一歩ってとこで夏が来て、ボロボロに崩されちまう。神様に見張られてる夏の間は、橋を作ることもできない。だから川のそばで、二人とも向かい合って、見てるしかない」

 みちは両岸の星を眺める。冬の間、その手を再び取り合う日を思い描きながら、橋を作るのだろう。果てることのない苦役の中でも、それを希望として走ることができる。そして幻想に突き放された夏に、己の罪を呪いながら、遠くの良人おっとを望む。

「かなしい」

「ひどい、話だよな」

「もう、会えないのかな。二人は」

 みちが悲し気に言う。


「……出会わない方がいいって、この話を聞かせてくれた人が言ってた」

「どうして」

 みちは彼を見た。彼も、彼女を見た。星明りに白眼が冴え、真っ黒な真円しんえんが浮く。

「近づき過ぎたらまた、お互いを自分のものにしたくなっちまうからだって。あの二人は絶対に、一緒にはなれない。でも近寄らなければ、すれ違うこともないだろ。遠くから互いを眺めてればいいんだ。それで相手の言葉を好き勝手、考えられていた方が幸せだって、その人は言ってた」

「それは……誰が、言ってたの」

 晴瀬は、みちから目を逸らして空を見上げる。

「父さんだ」

「かなしいことを、言うのね」

「父さんは、すごく、優しい人だった。だから、そう言うんだろうって俺は思う。悲しいけど、同じぐらいに優しい考え方だろ」

「それじゃあ、晴瀬も、出会わない方がいいって、思うの?」

「俺は……」


 考えるような横顔を、みちはそっと見た。彫の深い眼窩がんかから、星空を真っ直ぐに見ている。唇はわずかに開いて、やがて腹の底から湧き出る答えを待ち構えていた。

「……繰り返さないって約束できるんなら、出会った方がいい。このまま天地を回り続けてたって、お互いのことしか考えられないだろ。二人で、人を殺したんだ。一緒に、罪を償うために、繰り返さないって約束して、出会った方がいい」

 彼が顔を傾け、こちらを向く。みちは、彼の瞳の奥が一瞬、ささやかな色にかちりと光ったのを見る。それは、名前の通り、晴れた海のような光だった。

 みちは、それから目を逸らすように、空を見る。

 彼の抱えた光が、出会ったときのようにその身から溢れるときがきたら。今度こそ眩しさに耐えきれず、闇のひとかけらになってしまうだろう。そんな気がした。今のまま、海中に没した太陽のような人でいてほしい。

 不意に浮かんだ願いに蓋をするように、みちは瞳を閉じた。

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