第26話 神殺し*六

 神はいやに首の長い、女のように見えた。水の底に響き渡るような声は、男のような低さを纏っている。体躯を見る限り性別は判然としない。

「女。名前はなんという」

「マキ。あなたの名は」

「は?」

 神が、長い首を傾げる。

「名を知ることで認知を区切る。あなたが言ったことだろう」

「はて、お初お目にかかる者だが」

「あの二人はお前の眷属なんかじゃない。あなた自身の分身だ。違うか」

「なぜそう言える」

「沖を読めば分かる。二人のものがちょうど二つ、混ざり合っている」


 神は低い声で忍び笑う。

「見込み以上だ」

 神の背後から、ふわりと風が駆ける。

「私を殺す方法も見当がついていると見る」

 銀の瞳が、夏の夕刻のような光を湛える。

「私の名前は、八乎やこだ」

 彼女の頭上に、炎の球が現れる。

「何をしようとしているかは、分かっているな」

 言葉が終わらぬ前に、巨大な球はマキを襲った。

 沖を読める、と思った自分の浅薄を知る。

 彼女は絶叫と共に炎に包まれた。


 意識が遠ざからない。身体からだも無くならない。肉がただれ、神経が焼け焦げ、眼球の水分が蒸発していく強烈な痛みが、不断に襲い来る。いつも炎にまれたときは、自らの意識が終わることを切に願う。マキは歯を食いしばった。今回ばかりは許されない。それは同時に死を意味する。


 終われないなら、ひっぺがせ。

 操り返せ。


 しかしありもしない身体は、言うことをきかなくなる。乾いた地面に倒れ伏す。それでも心を、絶対に折ってはならない。


 ひっぺがせ。

 それはできない。

 意識が遠のく。

 死にたくない。


 マキは業火ごうかの中で拳を握る。

 このまま終わりたくない。


 代替品のように生きてきた過去。こだわれ。それをくだらないと笑われたために自ら棄却すること、それこそが、今までの自分と同じ生き方だ。自らの道を歩きたい。そのために力を、死の世界でやっと手にした気がした。

 生への渇望が線香花火のように、中央でぎちぎちぶるぶると膨れてくる。


「死にたくない!」


 咆哮ほうこうと共に、身体が爆発する。彼女の沖は炎の塊を爆散させ、中空に躍り上がる。一転して氷漬けになったような錯覚に、むしろ頭が冴え渡る。神の殺害に至る、一本の道が、眉間から真っ直ぐ未来へ伸びる。

 神を見下ろし、己の奥底に溜まる苦しみを反芻する。それを核に、青さすら纏った炎が、彼女の手の平に灯る。


「くだらないと、いつまでも笑うがいい!」

 マキはそれを、神へと振り下ろした。

「太陽の神に熱など使ってどうする」

「言わせるな。炎は主眼じゃない。わたしの苦しみを味わえ。神のお前にも苦痛であるはずだ」

 炎の中に、人影が現れる。八乎に絡みつき首や腰を絞める。神が苦悶の声を上げている。


 マキはゆっくり、地上に降りる。

 神が人間の感情や性質を取り込む性質を持つのなら、それが苦しみになっても同じように影響されてしまうはずだった。だから自らの苦しみを、沖に乗せて投げつけたのだ。

 苦しみの声を上げていた神は、動かなくなる。そして人の形は外側からぼろぼろと零れていき、跡形もなく消え去った。

「私は神を、殺した」

マキは、詰めていた息をは、と吐く。全身から力が抜け、がっくりと手を突いた。


 終わった。


『神殺しというのは言葉の綾だ』

 青い炎は八乎の形をとったかと思うと、マキに飛びかった。光に視界を奪われた彼女に為す術は無い。上から潰されるような、下から突き上げられるような、前後に激しく揺さぶられるような。捉えどころのない衝撃に、身体が砕けそうになる。


 衝撃が過ぎ去った後、目を開けてみると、右腕に真っ赤なあざが飛び散っていた。

 嫌な予感に胸がざらつく。

『お前に憑りついてやったよ』

 脳内に声が響き渡る。

「私を乗っ取るつもりか」

『発想は小娘だな。お前は神を憑けたのだ。常人にできないことが叶う身体となった』

 右腕が、発火するように熱くなる。

『まず手始めに、この荒野から地上に返り咲かせてやろう。お前も本望とするところではないのか』

 マキは全身に、ありもしない熱い血が巡るのを感じた。

『その意気だ。右腕の痛みに耐えながら、西へ走れ。沈む太陽に滑り込めば、お前は地上に出られる』


 気がつけば、影の色が薄くなっている。太陽の光が、雲もないのに弱まっていた。

 マキは言われた通りに、走った。太陽の沈む方向がどちらなのか、正確に分かった。それも神を憑けたからこそなせるわざなのだろう。

 しかし

「あなたは私を利用しようとしているのだろう」

『何のために』

「自らへの信仰を取り戻すため」

『そうだ』

 手癖の被害者意識が胸を襲うが、マキは息をく。自分が考えなければならないのは、神の言いなりにならない方法ではない。いかに利用してやるかだ。


 まだ見ぬ斜陽に思いをせ、彼女は冥界での最後の試練を潰しに走る。

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