第22話 竜宮*五

 みちは今すぐ眠りたかったが、今の今までケネカが座っていた寝台には、入れなかった。椅子の上で丸くなり眠ろうとするが、彼女の声がうわうわと蘇る。

「うるさい!」

 闇に叫んでも、ざわざわと復活して耳をさいなむ。


「いかがなされました」

 めめが来る。

あるじ様を……呼んで!」

「承知しました」

 主はすぐさまやってきた。みちは彼に泣いてすがる。主は灯りをつけると、彼女を落ち着かせる。みちは言葉をつまらせながら、ケネカのことを話した。

「それは、おぬしの恐れが、不安の象徴を借りて姿を現したのだろう。全て空言うそだ」

 娘は何度も頷いた。自分が最も欲しかった言葉を、掘り当てられた思いだった。背中をゆっくりさすってくれる手の柔らかさや、自分を案じてくれる声の響きが、娘の下瞼したまぶたに温かな涙を押し上げる。もっと言葉が欲しかったが、それを求めるための言葉は見つからない。泣けども泣けども涙が絶えないのは、言葉になりたい感情が、全て涙の粒になって流れているからだった。


「さあ、もう寝なされ。明日は忙しい」

 彼女を寝台に導く。みちの胸の内からは、嘘のように不安が消えていた。静かな部屋と同じ心持ちで、彼女は眠りに落ちた。

 翌日の婚礼は、とどこおりなく行われた。みちは言われた通りに動いているだけで良かった。宴会などは勿論ないが、みちは主とゆっくり語らった。彼は様々な村の季節を知っていた。言葉にのせて、山奥から海辺までの秋の景色が、目に浮かんでくる。秋の空を駆け回ったような心地に、胸がすいた。


 夜になり、めめに前までとは違う寝室に通された。みちの部屋より二回りも大きく、寝台も一人で寝るには大きすぎるものだった。しかし、枕は一つしかない。彼女は広々と真ん中に身を横たえ、朝までぐっすり眠った。

 それからつつがなく、穏やかに日々を過ごしていた。


 しかし一つだけ、妙なことがあった。

 毎朝自分の裸体を眺め、前の夜のことを思い出しているのだった。

 沈黙の寝台に自分の声が、滑らかな肌の上に誰かの手が、這う。誰もいないのに相手がいる。朝がくる度に訝るが、その最中は抵抗しようという気が起こらない。深い闇を熱が走る。正体を探ろうとする意識を、大きな手の平で抑えつけられる。水の中に頭を突っ込まれているような。水を飲み、水を飲み、水を飲み、溺れていく。

 朝、己の指先に目を落とし思い出す苦しみの中には、いつも光がある。水没の恐怖の内に、恍惚こうこつを見るような諧謔かいぎゃく。恐ろしい、と思えど、気味が悪い、と思えど、毎夜恐懼することもなく、きちんと寝巻をまとい寝台におさまっているのだった。


 その日も、窓から差す日差しに目を細めて、溜息を吐いた。身体の上を、中を、走った熱。揺さぶられる内臓。弾けるような光。ぎゅっと目を瞑り、肋骨を抱いた……その手が、冷たいものに触った。

引っ込めた手を、ぎゅっと握ったまま。その正体を見ようか見まいか。

「姫様」

 めめの声だった。

「そろそろ、子を宿したのではありませんか」

 が、と下から、驚愕が身を貫く。

「身体のどこかに鱗が生えていやしませんか」

「しない」

 襖が開いた。

「図星でございましょう」

 みちは身を丸めて布団を肩まで引き上げた。

 隠さなければならない、と思った。

 めめが見たことの無い笑みを浮かべ、寝台に腰かける。嫌なのに、見られたくないのに、知っている。もうバレている。

「残念ながら、お見通しですよ」

 春の日差しのような声で、裸の背を撫でる、彼女の顔がこちらを向いているのが、目の端に映っている。

「ほら」

 同意の有無を問わず、彼女が慇懃いんぎんな手つきで布団を剥がす。そして、みちが目を背け続けているそれの正体を見とめると、彼女は襦袢じゅばんを被せた。


 みちは手を引かれるままに寝台を下りる。これから、何か、今までとは違うことが起きる。わたしが、わたしではなくなってしまう。その予感に、身体が震えるほど、鼓動が強くなる。めめの手つきは大袈裟だと思うほど丁寧で、指先の動き一つ一つが、宙に水紋を描くようだった。衣擦きぬずれの音が、厳かにすら聞こえる。

「さあ、主様にご報告いたしましょう」

「わたし、子供、できたの?」

「左様でございます。よくやりました」

 気が遠くなり、彼女はぶっ倒れた。

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