第20話 竜宮*三

 ザアア……と稲穂が擦れて、さやかな音を立てる。見渡す限りの黄金は、秋風に吹かれて波打った。

 実りの大地に瞳を注ぐみちの右頬を、暮れ方の鮮烈な色が染めていた。太陽の時間の終焉、夜の始まりを告げる光は、瑞穂みずほに負けじと黄金を放つ。


 彼女は毎日、実りの原を眺めていた。主が「美しい場所」と言ったのがそこだった。桜の咲き誇っていた里とは違い、竜宮には、緩やかではあるが四季があった。趣向の凝らされた庭も季節に応じて色を変え、大層美しい。

 しかしみちは、この実りの原が一等好きだった。安らぎに、深いところから抱かれる。緩やかな息をこぼし、瞳を閉じる。

 夏を忘れた風の中、響き渡る音に包まれる。もの皆、実る秋。遠くから、村人たちの祭の声が聞こえるようだった。笛の音、歌う声。秋の光にぴんと映える、人々の影。


 わあああああ……。

 厳しい夏を越えた、恩情。厳しい冬が来る恐怖を度外視どがいしすらしてしまう、享楽きょうらく

 目を開けばそこには、人々が朗らかな顔で歌い踊っている。黄金の中で、天を仰ぎ地を拝し、跳ねとび回る。

 口々に何かを歌っているが、声は聞こえなかった。それでも、みちは顔をほころばせる。豊作の喜びが、伝わってくる。米を頬張る幸福。飢えを免れたことの安堵。

 そして至る厳冬。


「冬がくるよ」


 それまで、ゆるやかに踊っていた村人たちが皆、きょとんとした顔で彼女を見た。互いに顔を見合わせると快活に笑いまた、踊りながら、遠ざかる。沈む夕日から目を背けるように、南の彼方へ消えていく。


「冬がくるのに」

 秋の清らかさ。冬を滲ませるその空。この美しい実りが、死の世界へ転落する。その様を見るような気がして、顔を覆う。楽し気な旋律を、虚しく思い出すその冬。暗く、閉ざされた家の中、一歩も動けない。手足は死に絶え何を触っているのかも分からない。家の外は、骨と同じ色ばかりになる。たまの晴れに喜んで空を仰げば、目をやられてしまう。それは生き物をよせつけない青。もずが鳴く声も、金属のようにカンとしている。

「冬が……くるのよ……」

 みちの声は中空に吸い込まれる。人々は笑顔のまま、遠ざかっていく。


 今はただ、冬が来ることが恐ろしかった。

 実りの中に、足を踏み入れる。稲と衣がこすれて、混じりけの無い、美しい音をたてる。一つ、稲穂を手に取る。米の粒が、真っ白な粒が、この黄金の下に隠されている。

「冬がくるの」

 彼女の肩を、風が擦り抜けていく。力を失った手の間から、恵の穂がぐらりと落ちる。


 稲を踏み、闇の迫る畑を行く。

 不意に、薄汚れた祠が現れる。

 朽ちかけたその扉に、そっと触れる。それだけで、扉が開く。

 くろぐろとした宵闇にも、分かる。中に何があるのか。

 鈍い銀に光る蛇が、あかあかとした舌を、吐きかけてくる。

 風がうなり、稲穂の音が散らばる。あちらからもこちらからも、ここを目指して近付いてくる。さあ夜が始まる。もう、銀蛇の姿しか見えない。月の無い水底の夜。波の音に取り囲まれて、埋もれてしまう。何も見えないのに、蛇は見えている。小さな蛇だと思っていたのが、今や身の丈くらいになっている。稲穂の音だと思っていたのが、人の囁きのように聞こえてくる。満ち溢れていた黄金の輝きを懐古する間、蛇は見上げるほどの高さになり、人の囁きはひとつの言葉になる。


「お か あ さ ん」


 水を打ったような、静寂が訪れた。

 蛇は鎌首をもたげて、こちらを見下ろしている。娘の心に恐怖が無いのは、身体が闇に同化している、錯覚に陥っているからだった。

 蛇の首が、ぞらり、と下りてくる。自分の身を越えたか、と思った。背中に走る冷たい流れに、娘は身体の存在を思い出す。悲鳴を上げる彼女の衣服の下を、大蛇の首がう。立っていられなくなって、転げようとする彼女を、その長い蛇身が阻む。泣き喚く彼女の肌の上を、残らず這い回った後、蛇はその身を地に落とし、娘から離れる。

 闇の中、彼女の肌だけが、白くぼんやりと残った。

 膝を突いた彼女は、衣服をかき集めて震えている。

 闇の中、蛇はどこへ行ったのか。代わりに、ひた、と響く足の音。

 己の前に立つ人。

 視界が奪われているのに、何故知覚できるのか。

 そしてそれが、男だということも了解している。

 無言の男が、手を伸ばしてくるのが分かる。温かいものが、頬に触れた。


「このような所におったのか」

 幻視は消えている。日没後の墨縹すみはなだの空を背景に、あるじが顔を覗き込んでいた。

 みちは実りの中に身を横たえていたのだった。

「冷えてしまうぞ。明日は婚礼なのだから、今日はもう休みなされ」

 二人は連れ立って、宮殿へと戻る。


 あるじと夫婦になる。

 それは、晴瀬を殺す未来に至らぬための道だった。何度も、彼に会わせてほしいと懇願した。しかしその果てに、彼を殺す未来が待つのだとしたら。彼が首をねられたあの悲嘆を思えば、最初から会わない方がいい、と思うようになった。

 というのは、一人で考えたことではなかった。主が、共に、寄り添うように考えてくれた。落ち込むときは、気晴らしに美しい景色を見せてくれた。それが何より嬉しく、心地よかった。

 だから、婚礼をあげることにしたのだ。


みちは、人間でないものの顔を見上げる。気高き獣のような髪。寸分も狂わぬ陰影を溜め込んだ顔。鉱物的光輝を秘めた瞳。

「どうした」

「いいえ……また明日」

 顔を伏せて、部屋に戻る。灯りをともしたそのとき、目に飛び込んできたものに悲鳴を上げた。

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