第16話 竜宮*二
部屋に戻ってすぐ、みちは寝台に身をうずめる。
竜宮は、恐ろしい場所ではなかった。
それでも、嫁になりたいとは思えない。
晴瀬を思い出せば、焦がれる胸。
自分でも驚くほど、彼の表情を覚えている。素直に光る瞳も、遠くを見るときの横顔も、屈託のない笑顔も。共にいた時は一日に満たないのに、もっとずっと、長い間を過ごしてきたような気がしていた。
「会いたい……」
口の奥に血が滲んでいるような。
「会いたい会いたい会いたい……」
人殺しに?
闇から聞こえた、囁き。
瞳があんなに暗かったのは。
あの場所に来た理由が答えられなかったのは。
みちは枕を抱きしめる。
いつの間にか、灯がともされていた。火を柔らかに溶かす和紙には、ふんわりと桜の模様が描かれている。瞳を閉じれば、美しい景色が返り咲いた。
何も知らない、あの時のままでいられたら。
溜まった涙を枕に押し付けたとき、灯が消える。闇に浮かび続ける幸福の景色。落ちていきたいと願うと、みちは夢を見ている。
横たわっていたのは、見たことの無い部屋だった。木目の目立つ壁に、小さな灯りでできた影。二人の男が向かい合っている。
起き上ろうとしたが、声が聞こえて硬直する。
「おい、全部でいくらになったんだよ」
「そう焦るな」
パチパチ、軽快な音が弾けている。
「しかし、冷えるな」
影が、腕をさする。
「そりゃあ炭だってケチってるんだからよ」
娘は今更、凍えるほどの寒さに気づく。あの豪奢な寝台でなく、粗末な
「全部で五千と百だ」
「……これでやっと半分か」
「俺の取り分を忘れちゃいけねえよ。お前の分は三千と五十だ」
「お前も鬼だな。こっちゃ女売ってんだぞ」
「最初からそういう約束だったろ。俺の口利きがなきゃこんな値段で売れてねえ。せいぜい二千ってとこだ」
片方の男が舌打ちをし黙る。灯火がゆらゆら揺れる。手の震えは、寒さのせいばかりではない。
「……でもよお、本当にいいのか、こんな綺麗な嫁さん二度と手に入らねえよ」
そろばんを弾いていた男が、寒そうに息を震わせながら言う。
「俺の命が危ねえのはお前も知ってるだろ。女房だって俺が死んだ方が悲しむって絶対」
「最低だなお前」
「今さら気付いたのか」
ははは。と夜闇に紛れて笑う。抑えた低い声が床を伝い頬を震わせた。
「なんであんなに大負けしたんだ。お前があそこまで馬鹿だとは思わなかったぞ」
「この女房と結婚して運使い果たしたんだろ。金持ち美人なんて、そう簡単に得られる役じゃねえ。そうだろ?」
「嫁さんの家から、どれだけくすねてこれたんだ」
「上等なものを、持てるだけさ」
「ちょっと見せてみろ」
二人の間を、物の影が行き交う。
「こりゃ良いもんだぜ。三千で売ってこられるアテがある」
「それなら頼んだぜ」
「千は俺の取り分な」
「高すぎだろ。五百だ」
「八百」
「……分かったよ」
「まいどあり」
そろばんを弾いていた男が、荷物を風呂敷に包む音。頼りない光に、覆いかぶさるような闇。心臓が痛かった。「女房」が、夢の中の自分を指していると知っている。
夫、にあたる方の影が、こちらを向く。影に目はないのに、じっとり見つめられている気がする。
夫が立ち上る。きし、きし、床が
何をしようとしているのか。
静寂に耐え切れず、目を開けた。
すぐ近くに、夫の顔がある。
みちは心の内でうめいた。
晴瀬の顔をしていた。
「今日で、最後なんだ……」
伸ばしてくる手を跳ねのけ、立ち上がる。
「どうしたんだ」
『どうしたんだ、ですって?』
恐怖が反転し、別の面を
『わたしのこと、お金としか思ってなかったくせに!』
「聞いてたのか」
『全部、全部聞いてたわよ!』
「冗談に決まってるだろ」
『なんで……?』
平気でそんなことをぬかせるのか。
「もう、お前とは会えないんだよ」
と、なおも近寄る彼を突き飛ばす。
『来ないで!汚らわしい!』
「言わせておけば……」
と怒気を孕んだ声の直後、髪を掴まれ引き倒される。
「俺を選んだのはお前だろ」
髪を引っ張られて、顔を上げさせられる。
「黙って従えよ」
娘の手が、周りを探っている。何か、何か、何か、何か!
掴んだそれで、力任せに夫の顔を殴った。
「ぎゃ」
自由になって、それを見下ろす。こめかみから細く血が流れている。側に、宝の石で飾られた、銀のかんざしが転がっていた。それを娘はひっ掴み、何度も何度もこめかみを刺す。やがてかんざしが折れる。しかし娘はやめなかった。ギザギザと尖った断面で、男の眼を突き刺した。
周りを見る。そろばんの男が、部屋の隅で震えている。ちゃぶ台の上に置かれた小さな灯火の皿を、夫に投げつける。身体を這う炎に叫ぶ声を背後に、娘はその小さな家を飛び出た。
夜闇。時の頃深更。月光に凍える地上。手も足も冷たい。心臓が喉の辺りで上ずって苦しいのに、ずんずんずんずん歩く。雲が流れて、白光を覆う。滑り込む暗闇。何も見えない。前に待つものも分からない。のに、足が勝手に動く。どこに行きたいのだろう。それも分からず進む。足が、勝手に、落ちていく。
冷たい空を切って、奈落に落下する肉体。
「………………………………………………ぁぁぁぁぁああああああああ!」
己の叫びに目を覚ます。
起き上り、身体のあちこちを触り、確かめる。
「夢」
また見た。
海神に憑かれた男を殺す夢。
「大丈夫ですか」
「ヒッ」
障子の向こうから、
「随分お辛そうでしたが、いかがいたしましたか」
しばらくして、現実と焦点が合う。めめの声だ。
「何かご所望されるものは」
「ない、から」
「本当ですか」
「……あなたには、出せない」
今ここにいてほしいのは、晴瀬だった。
彼に話せば、きっと、変な夢だなと笑ってしまえるはずなのだ。
「……何かありましたら、私の名前をお呼びください。すぐに馳せ参じます」
音も無く、めめの気配が去っていく。
戻った静寂に、寝台へと身を倒す。顎まで布団を引き上げ、闇を見つめた。
愛する者が、善人とは限らない。
自分の女を売るような男も、結ばれる前はそんな顔をしていなかったはずだ。みちは晴瀬と見た海を思い出した。穏やかに光を
それなら、晴瀬も、きっと……。
「ばかなこと、考えちゃダメ」
言いながら、涙が止まらなかった。
一睡もできずに明かした夜が、徐々に白んでいく。泣きはらした目蓋は未だに重たい。薄い光は、却ってまどろみを誘った。うとうとしていると、障子に影が現れる。
主だ。
「昨晩は、大層な叫び声だったが、いかがいたした」
寝返りを打ち、背を向けた。
「溜め込んでいれば、今晩もきっと怖い目に遭おう」
みちはその言葉に、ぴくりとする。
「私に話してみなされ」
みちは寝台を出て、障子を開けた。
「あんな夢、二度と見たくない……」
哀切する自らの言葉に、涙が溢れる。
「廊下で話すことでもなかろう」
主は隣の部屋に彼女を案内し、椅子に向かい合って座る。
「いかがいたした」
「あの……晴瀬、みたいな、男の人を殺す夢を、見たの。二回も」
主は、
「おぬしの宿命が見させておる夢だ。めめが聞かせたろう。おぬしには月の神が、あの男には海の神が憑りついており、惹かれ合ったすえに女が男を殺すと」
みちは力なく頷く。
「地上では、月の神は
「……ひどい」
「酷なことだ。それに加え、おぬしは
「あなたの、意志じゃないの」
主は重々しく頷いた。
「引き裂かれそうな思いだろう。私にはそれをどうしてやることもできぬが、そなたが心安らかに過ごせるよう、全力を尽くそう」
「それなら晴瀬のところに……」
「例えば会えたとして、おぬしは、その男を自ら殺してしまうのだぞ」
みちは言葉に窮した。
「おぬしは心の優しい、娘だ。誰よりも、誰かの犠牲になりやすい娘だ。己の思うままを、私に申してみればよい。最初は難しいかもしれないが、急ぐことはないのだ。ゆっくりで、いい。この竜宮で幸せに暮らせる道を、共に探そう」
みちの瞳に、新たな涙がこみ上げていた。
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