第3章 水底
第15話 竜宮*一
みちはその日も部屋にいた。
灯りもともさず、襖も障子も全て閉ざし、仄暗い寝台に身を沈めている。煌びやかな部屋の調度も、鼻腔を抜ける花の匂いも、不快だった。竜宮の、何が美しいというのだろう。やたらに飾り立てて神経を逆撫でされる思いだった。
「姫様」
その呼び名も、同様だ。
「本日も、気分が優れないのですか」
めめの声。
返事など、したくない。みちは布団を被る。
「……お言葉ですが」
襖は、静かに開いた。しかし、足音には隠しきれない怒気が忍んでいる。
みちは布団の隙間から、めめを睨み上げる。廊下に面した障子の光を背景に、背筋を伸ばした正座の姿。
「余りに礼を失しております。婚礼の日を先延ばすなど。
「めめ、良い」
「主様」
めめはすぐさま、障子の向こうの影に
「心が休まらぬのに、婚礼などやるものではない。そう
「しかし、私とて黙ってはいられません。日がな一日部屋に引きこもり、貴方様にご挨拶もない」
「構わぬ。私はそのようなことよりも、娘の暗い顔を見る方が辛く悲しい」
「それなら!」
布団から顔を出す。
「ここから出して!」
「まだそれをおっしゃいますか!」
「めめ、下がれ」
静かな声に、彼女はすごすごと引き下がった。
「みち、と言ったな」
障子の向こうの影は、宮殿にふさわしく、綺麗に飾り立てているように見えた。
「おぬしは何を、おそれておるのだ」
見抜かれているような不快感が、内臓で
「不安は退屈を餌に太るものだ。閉じこもっておっては、おぬしのためにもならぬよ」
穏やかな声だった。
「ここは、美しい所だ。婚礼などは先でも良いから、私が案内してしんぜよう」
「晴瀬に会いたいの!」
「ここにはいない」
「そんなの……知ってる!」
みちは、布団を跳ね除け影に叫んだ。
「晴瀬のところに帰してって、言ってるの!」
主の首が、横に振られる。
「どうして……どうして!」
「決まってしまったことは、変えられぬ」
「何が、決まったというの」
「おぬしがここに来ること。そして我が妻となること」
みちは顔を覆う。
そんな、気味の悪いことがあってたまるか。
「……嫌よ」
「そうであっても、だ……。私が無力でなければ、おぬしを帰してやることもできようが……」
「あなたは神なのに、どうしてできないの!」
しばしの沈黙の後、主は「すまない」と短く言った。
「謝られたって、しょうがないわ……」
薄闇に広がる、乙女の泣き声。闇の色は雨の日のように青くなり、床や壁が湿り気を帯びる。じっとり沈み込んだ部屋の気配に、障子に映る影の輪郭さえぼやける。
「それほどまでに、会いたいのだな」
主は独り言のように
「かの男の姿を見せてやることだけは、できる」
すすり泣く声が、止む。
「晴瀬に会えるの」
「会えはしない。姿を見せてやれるだけだ」
「見せて」
みちは寝台を跳び降り、障子を開けた。
初めて見た竜宮の主の顔は、直感にたがわず恐ろしい顔をしていた。
それが魚や蛇だった方が、むしろ良かったかもしれない。
「やはり、気の優しそうな娘だ」
精巧な顔が愛好を崩して笑えど、人工物らしさがいや増しになるだけで心を許せない。
「ゆこう」
主は、音もなく歩む。衣を引き摺る背中をしばらく見ていると、彼が振り返った。
「来ぬのか」
「……近くにいたくない」
「左様か」
それだけ言うと、また淡々と歩いていく。角を一つだけ曲がった先、一際白い扉の前で止まった。
「先に断っておくが、姿を見ることが、かえっておぬしを苦しめるかもしれぬぞ」
「……どうして」
距離に負けない声で問う。
「めめが、あの男の素性を知るために見たものだと言えば、分かるか」
――竜宮で調べてきました……彼がどのような者なのか
その後、初めて放った言葉は何か。
みちは忘れていなかった。
「でも……晴瀬が人殺しなんていうのは……あなたたちが、わたしをここに連れてくるための、嘘で……」
口の中でもごもごと言う。主は聞こえていないようで、首を傾げた。
「覚悟があるのなら、良いが。卒倒せぬか心配だ」
「わたしが倒れるかもしれないもの、見せようっていうの」
「おぬしが、男の姿を見たいと言ったのではないか」
「そんな怖いことなら、見たくない!」
と首を何度も横に振る。
彼女の支離滅裂にうんざりすることもなく、主はそっと近づいた。
「私が悪かった。それなら、美しい場所に案内しよう」
羽に触れるようにそっと、娘の手を取る。そうなると、彼女は逆らえなかった。
廊下を何度も曲がり、ぐるぐると目が回る。ようやっと外に出られた時の眩しさに、みちは思わず
少しずつ目を開いたその場所は、穏やかな光に満ちていた。水越しに見た太陽からは白金色の薄布が伸び、光の粒をともない揺らいでいる。
「綺麗だろう。私はこの空が竜宮の景色の中で最も好きだ」
見惚れていたみちはハッとする。水の底なのに、少しも暗くはない。おまけに水中になかった。
「池も底にくれば、地上に通ずるものだ」
彼女の動揺を察し、主が言う。
「ここにおる者は誰も、おぬしを害する真似はしない。心やすく過ごすといい」
彼を見上げ、思わず頷いた。主は、嬉しそうに笑う。
廊下を真っ直ぐに歩いていると、鮮やかな色が目に飛び込む。
「
先に階段を下り、みちに手を差し伸べる。その陶器のような手を取って、庭に下りた。
彼女は、小さな歓声を上げる。
そこには、一つの天地があった。
庭の端に腰を下ろした、しっとりと苔のむす岩。その間から何条もの細い川が流れ、少しずつ集まりながら庭中を優美に蛇行する。ひとつになった川はやがて池に至り、覆いかぶさるように生えた新緑の色を映していた。川沿いには、見たこともない花が咲いている。地上ではお目にかかれない優美な姿を、みちは息さえ止めて見つめた。
「あれは……なんという花なんですか」
真っ直ぐ伸びた茎いっぱいに、薄紅とも薄紫ともつかない花がたくさん咲いている。それが隙間なく集まって、やわらかな光を発しているように見えた。
「乙女の花、という。おぬしのような娘がここへ来たときにだけ、咲くのだ」
「……それじゃあ、わたしがここにいる間は、ずっと、咲いているんですか」
「いかにも。見る度に、色が少し異なるのだ。紫が強いときもあれば、紅が強いときもある」
みちは、庭の中に足を踏み入れる。小さな石の橋からせせらぎを覗くが、自分と目が合ってしまい慌てて顔を引く。
小さな川はやわらかな空の色を
「冷たかろうに」
「……池の水は、
川の行く先に目をやる。
「どのような仕組みか、見てみたいか」
彼女は、池を見たまま頷く。
主は廊下に彼女を招き、岩と池が左右にくるように庭を見る。
「池を囲む岩から水が溢れたとき、変化が起こる」
「どんな?」
「あのような変化だ」
主の指さす先、水面に白い靄が吸い付いている。それは湧く水のように溢れ、辺りは濃い霧に包まれる。隣にいる主さえ見えなかった。冷たく細かな水の粒が、彼女の白い肌を濡らすことなく濡らす。
みちは怖くなって、
ただ、白が晴れない一点がある。
苔むした岩に覆いかぶさるよう、濃く白い雲ができていた。見れば、池の水位が半分に減っている。おまけに、川の溝に流れは無かった。
「池の水が雲になり、雨が降る。耳を澄ませば聞こえるはずだ」
言われた通りに集中すると、苔の山にしとしとと雨が降っていた。それは緑を深い色に染め上げて、乾いた川へと着地する。また優美な流れを描きながら、海を目指すのだった。
みちは感嘆の息をつく。
「雨が川になり、川が海になる。海が雲になり、また雨へ。一つであったものが細かに分かれ、流れゆく先でまた一つになる。そしてまた、分かれる」
「……知らなかった」
露に濡れた乙女の花は、桜のような薄紅に染まっていた。
「もうひとつ、この庭には工夫がある」
主が指差す先に、
顔を上げてみると、それは庭のあちこちに散りばめられていた。全て異なる月の
「月の満ち欠け……?」
「その通りだ。この庭に、二十八個埋められておる」
全ての円が、鈍く光っている。それがまるで目のようで、みちは廊下に上がる。
「どうしたのだ。暗い顔をして」
「……見られてる、感じがする」
口にした途端、身体の中心が熱くなる。
ここに、月の神がいる。
この神がいるせいで、晴瀬に会えない。
「月なんて……」
あれだけ焦がれたのに、途端に嫌悪が走る。
乙女の花が、じっとり紫に染まった。
「もう、戻るかの」
彼女は、俯いたまま頷く。
帰りは、主のすぐ後ろを歩いた。数々の扉の前を通り過ぎ、不意に開けた場所に出る。何かと思って顔を上げたら、渡り廊下だった。
初夏のような風に微かに混ざる、緑の匂い。
風の方に目をやる。水底は、遠く地平が霞んでいる。その殺風景を、鮮やかに切り取った緑の原。
「あれは……」
主は、しばらく緑をじっと見た。
「実りの原だ」
と短く言う。
「米がな、植わっている。ここ竜宮にも、緩やかで短い四季がある。それを象徴するのが、あの田なのだ」
彼は再び歩き出す。
「いずれ、行ってみるといい。きっと気に入ろう」
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