第12話 姪

「みち」と呼ぶ声を聞き、思わず顔を上げてしまったその時から、その娘は貧乏ゆすりを繰り返している。


 桜の向こうに見た、二人分の人影。一方は男で、一方は女。

 怯えていた女が、あの「みち」であるのなら。こんな妙な場所に至ったことは、またとない好機だ。


 鬼に追われ死にかけた後、目覚めた洞窟。そこにいた幽鬼のような男に、母の姉を知っているかと聞いた。なぜかは分からないが、自然と問うていた。


 そして、なぜあの男がその行方を知っていたのかも、不可解だ。

 事実、あの「みち」はここにいるらしいのだから。

 彼女は、鋭い視線で平野を見渡す。極まりには、まるで千尋せんじんの谷のような海がある。

 分からないことだらけだが、彼女がここにいるのなら。やらなければならないことはたった一つだ。


 彼女はすっくと立ちあがり、歩き出す。等しく刻まれる歩調に合わせるように、空が白んでいく。朝が来る前の、引き潮のような冷たさを突き進む熱は、真っ直ぐ海へ向かっていた。





            ●




 

「起きてください」

 いつの間にか、眠っていた。


 めめに恭しく布団を剥がされ、冷たさにさらされる。冬が返り咲いたような空気に、指先が凍えた。


 立たされたみちは帯を解かれ、新しい着物を着せられていく。されるがままにぼうっとしていた。眠いから、ではなかった。言葉にならない言葉が膨れ上がり、彼女の胸を塞いでいるからだった。


「昨晩は、よく眠れましたか」

 力なく、首を横に振る。

「神のもとに、嫁ぐのですからね。緊張されるかもしれませんが、主様はお優しい方です」

 みちは答えない。部屋のぼんやりした闇をそのまま映した瞳で、床を見ている。


「加えて竜宮は、目が覚めるほどに綺麗な場所ですよ。水の底から見る光は、格別に美しい。何不自由なく、過ごすことができます。飽きることが無いよう、楽しいことを様々にご用意していますし。はじめは地上を恋しく思うかもしれませんが、すぐに慣れます。水の底は、とても良い所ですから」

 あの、水面の下の、奥底の、闇。

 黒が、内側からみちの額を殴る。

「あなたは閉じ込められることの苦しみを知らない」

 生きながら死んでいた日々が、娘の眼前を駆けていく。孤独に窒息していく心。死刑宣告を待つ日々。閉じ込められたそこで生涯を閉じる絶望。それならいっそのこと、自分で死んでやる。そう思ったことも、一度や二度ではなかった。しかし思うだけで何もできなかった。そんな自分を恥じながら、ひたすらに、機を織った。


 あの絶息の場所に、再び連れていかれようとしている。


「行きたくない」

「まだ、そんなことをおっしゃるのですか」

「嫌だ……絶対に」

 彼女の声は震えていた。

「申し上げたでしょう。竜宮は、美しい場所です。あなたがこれまで見たことないほどに」

 みちは、何度も首を横に振った。

「行きたくない!」

 拒絶に構わず打掛を羽織らせようとする、めめの手を払い除けた。

「嫌なの!」

 豹変した娘の表情に、竜宮の使者はうろたえる。

「もう二度と、あんな思いはしたくない!」

 みちは、小屋を飛び出した。


 いくらも走らない内に、長い裾に足を取られて転ぶ。立ち上がり、帯締めを解いた。走りながら帯を解き着物を脱いで小袖になる。山はまだ夜の闇そのもので、何度もつまずいた。真っ新は闇の中で、着実に汚れていく。己が名を呼ぶ声から逃れるように、何度だって立ち上がった。

 東の空が、白み始める。桜がぼんぼりのように、僅かな光を集めた。それを頼りに、みちは山を下りきる。


「晴瀬!どこなの。晴瀬!」

 力の限りに、彼を呼ぶ。しかし答える声は無い。彼女は海へ走りながら、何度も彼の名を呼んだ。

「ここだ!」

 背後から、彼がやってくる。ああやっぱり、彼が助けてくれるのだ。みちは涙の混ざった声で彼の名を呼んだ。

「晴瀬!」

「何があったんだ。泥だらけじゃねえか」

 彼の心配そうな瞳。人殺しの目だなんて、鬼だなんて、思えない。

「竜宮に、行きたくないから、逃げてきた……!」

 息継ぎの中で言うと、晴瀬は愉快そうに笑った。

「いいじゃねえか」

 みちの手を掴むと、引っ張って走る。ぐんと速度が上がり、彼女は懸命に脚を回した。


 あっという間に、砂浜に辿り着く。夜明けを控えた空が、紅潮した彼女の頬を炙り出す。呼吸を整えながら、波打ち際まで歩いた。

「追いかけてきてるのか?」

「分からない」と首を横に振る。

「まさか、放っておかれることもないだろうしな……隠れるところもない」

 晴瀬は辺りを見渡す。目が、あるものを捉えて大きく見開かれた。

「あれ……誰だ?」

 静かだが強い歩調で、歩んでくる娘。

 桜の間で見た、あの影だ。

 そう気づいた時、みちは思わず晴瀬の手を握る。彼女の視線は、真っ直ぐ自分に向けられていた。鮮やかな緑の瞳は、怒気さえはらんでいる。


 初めて会う人だ。だが、なぜか知っているような気がする。何度目かの既視感は、これまでのように心地の良いものではなかった。

 娘は、二人の前でピタリと止まった。

「わたしはマキ。あなたは、みちでしょう」

 よく通る声が、真っ直ぐにみちを刺す。大きな背中に半ば隠れながら、頷く。

「それなら確かめるけど、あなたの妹の名は、さくね」

 ――さく。

 それは確かに、妹の名前だという気がした。曖昧ながらも、みちは頷く。


「わたしは、さくの娘。あなたに、ずっと会いたかった」

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