第11話 人殺し
太陽が、水平線へと落ちかかる。
「またか……」
二人は元の浜辺に立ち尽くしていた。
どこへ行こうとも、道の先は、必ずこの海に続いているのだ。
「なんで、こうなるんだろうな。確かに、真っ直ぐに進んでるのに」
みちは西日に輝く山を見上げる。
「明日の朝なの……竜宮に行かなきゃいけないのは。もうすぐ」
「時間がねえのか」
「やっぱり、帰るなんて、無理なのかな」
うつむくみちの肩に、晴瀬は手を添える。
「無理じゃねえよ。無理じゃねえ……だって、入ってきたってことは、出れるってことだろ?」
みちは目を見開く。なぜ、そんな単純なことに気が付かなかったのだろう。
「……ここに来た時に初めていた場所が、出入り口……?」
「そうか!それだ!」
パッと彼の顔が輝く。
「頭いいなあ!」
対してみちの顔は暗い。
「出入り口、あの山にある、機織小屋みたいなところなの。初めてここに来たとき、あそこにいたから」
「あの山か……。それじゃあ、俺はついていけないな」
みちは、右手を左手で包み込んだ。
「大丈夫かな」
「俺も行きたいよ。心配だ」
心の底から自分を思う眼差しに、みちは涙が出そうになる。彼の言葉や表情には、邪気がない。だから、胸が締めつけられそうになるほどに嬉しい。
「麓まで、一緒に行こう」
嫌な一歩を、共に踏み出す。
「朝になっても帰ってこなかったら、地上に戻れたってことにする」
「……一緒に、行きたい」
「俺もだ」
「地上に戻れたら、もう、あなたとも会えなくなっちゃうかな」
彼の瞳が、一瞬よどむ。すぐに光を取り戻して「俺も戻れるように頑張る」と力強く言った。
夕日に陰影を刻んだ顔を、見上げる。今日出会ったばかりなのに、もうずっと前から一緒にいるような気がする。故郷に似たあの桜の景色を、共に見たこと。道を行く静寂が、心地良いこと。
みちは、山を目前にして立ち止まる。
「本当に、会えるのかな」
不安気な眼に、優しい声が返る。
「絶対、また会える。そんな気しかしねえんだ。だから大丈夫だ」
彼は、屈託なく笑った。
大丈夫。その言葉を心臓に覚えこませるように、拳を胸にあてる。彼が、言うのなら、大丈夫だ。
「それじゃあ……行ってくるね」
「おう。また会おうな」
彼の笑顔は、太陽のようだった。
黄昏の山道を、一歩ずつ登る。夕暮れに夜明けを勘違いしたような小鳥のさえずりと、一方で胸に染みる静けさ。
もし本当に、戻ることができたら。
もし本当に、生まれ故郷に帰ることができたら。
もし本当に、元の場所で彼に出会うことができたら。
輝かしい光景を思うと、鼓動は痛いほど強くなる。落ちる桜が、彼女の道行きをちろちろ飾った。あの小屋が待ち遠しい。急いた気持ちに合わせるように、毛先が軽やかに跳ねる。
頬を上気させて至った小屋に、めめはいなかった。
みちは一度呼吸を整え、部屋に上がる。
洞窟からこの小屋に出た、あの時。開け放たれた戸から桜を見た。
あの機織小屋なら、朽ちかけた祠があったその場所。そこから、出てきたことになるだろうか。みちは足音も立てずに、玄関の向かいにあたる壁に歩む。扉になってないかと壁を間近で見るが、正真正銘ただの壁だった。
みちはそっと、壁に手を伸ばす。滑らかな壁面に触れたとき、かたりと音がした。
驚く彼女をよそに、壁が扉のように開いていく。現れたのは、山肌にばっくり開いた穴だった。
その闇は、どんな夜よりも黒い。光さえも飲み込んで離さないような手が、無数に生えているような。突如、闇がぐわりと歪んで渦を巻く。
――吸い込まれる。
ぐらりと歪んだ足元に、しりもちをつく。
みちの視線は闇の穴に縫いつけられていた。ぐるぐる目が回り、天地の区別が無用になる。視界が徐々に暗くなり、穴に飲み込まれようとしていることを知る。この先に、本当に光の世界があるというのか。
――大丈夫だ
晴瀬の声が響く。
みちは意を決し、拳を握る。
きっと、大丈夫だ。きっと、このままでいれば…………………………「お帰りですか」
冷たい声に、ヒッと息を飲んだ。
瞬く間に、部屋は元の通りになっている。
あの穴も、壁に開いた扉も、嘘のように消えていた。
「何をやっているんですか」
夢だったのだろうか。めめの問いに答えず、みちはぼうっと壁を見上げる。
「……みち様」
名を呼ばれ、やっと振り向いた。
めめは、いつもよりも綺麗な衣装に身を包んでいた。
「どこに、行っていたんですか。山を離れるなと申したでしょうに」
細い眉が作る怒色に、「ごめんなさい」とうつむく。
「もしかして、鬼に会っていたんですか?」
心臓が跳ね上がる。
答えないみちに、彼女は目を細める。
「鬼の男に、会っていたんですね」
返事を待たず、彼女は言葉を次いだ。
「竜宮で調べてきました……彼がどのような者なのか」
聞きたくない。本能的に耳を塞ごうとする手を、めめの怒りを知った理性が留める。
「彼は、殺しをしています」
「殺し……?」
否定するつもりで反復すると、ご丁寧に頷きが返る。
「それが原因で、死んだようです。今なお、殺した者の亡霊に追われている……と。鬼同士、反乱を起こそうとしたことがあるようです。その際、首領であった仲間の鬼を殺した」
目を泳がせるみちに、彼女は容赦なく続ける。
「鬼である上に、殺しをしている。しかも、仲間を裏切っているのです。そんな男と会うことがいかに危険か。誰だって分かります」
めめの言うことは、嘘だ。
あんなに真っ直ぐ、自分を思ってくれる人が、人殺しなど。
ただ一方で、夜の底のような瞳の色を思い出す。
こちらに来た理由が、本当に人殺しであるのなら。ここまで来た経緯を語れないのも、ごく自然なことではないだろうか。
みちは全身を硬直させていた。腹の底から溢れかえる言葉は喉でのたうち回る。
動揺するみちに、めめは溜息を吐いた。
「ともかく、あなた様に何もなくて良かったです。竜宮へ行くのは、夜明け前ですからね……。今日は早く寝ていただくつもりでありました。温まれば、すぐに眠くもなるでしょう。お風呂を用意してございます」
彼女は笑顔で戸を開ける。
もう、逃げられないのだ。見る間に、目の前が暗くなった。
気がついたときには、真新しい着物に身を包み、滑らかな布団に挟まれていた。
部屋には小さな灯がついていた。扉の方で、めめが寝ている。その反対側……穴のあったちょうどその前に、真っ白な
みちは、そっと身を起こす。
それが並大抵の品でないことは、薄暗い中でもよく分かった。まるで雪のような無垢に、よく見ると流れる水の模様が縫い込まれている。それが光の加減で、きらりきらりと光っていた。
あれに袖を通せば、太陽を二度と拝めなくなる。
瞳を閉じれば、晴瀬の顔が闇に浮かぶ。
彼の明るい笑顔。真っ直ぐな眼差し。力強い声。人殺しなんていうのは、きっと嘘だ。桜と同じ、自分を竜宮に赴かせるための嘘。
彼の「大丈夫」を反芻する。
だからきっと、大丈夫……。
布団の外が冷えていく速度に、夜更けの深度を感じる。彼の力が、きっと、助けてくれる。みちは挑むような気持ちで、長く息を吐いた。
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