第10話 逃走への挑戦

「みちは、いつこっちに来たんだ」

「おととい」

「どうやって来たか、聞いてもいいか?」


 みちは少し考えた後、黙って首を横に振る。もう、思い出したくはなかったのだ。

「……辛い思い、してきたんだな」

 彼女は驚いて、彼を見上げた「どうして、分かるの」

「表情が、辛そうだ。悪いこと聞いたな」

 少しの沈黙の後、彼は口を開いた。


「俺は、もうどんくらい前なのか分かんなくなるくらい昔に、ここへ来たんだ……海に、飛び込んだら、ここにいた」

「漁で、飛び込んだんですか」

「いや……」

 晴瀬は目を逸らす。砂を見るその瞳は、まるで闇に満たされたかのように黒かった。海の底を思い、みちは恐ろしくなる。それでも、なぜか、目を背けることはできなかった。

 自分と同じように、辛いことを、思い出してしまっているのかもしれない。

 みちは「……ごめんなさい。嫌なこと、聞いてしまった」と頭を下げる。

「違うんだ!」

 突然の大きな声に、みちは肩をすくめる。

「俺が言えないのは、辛いからじゃないんだ……」

 と言いかけ、口をつぐむ。


 沈黙が、重くしかかる。彼の瞳は変わらず真っ黒なままだ。みちはなんとかしなければと焦るが、自分のことも話すという方法の他、何も思いつかない。

 傷口を裂くような気持ちで「わたしは」と口を開く。晴瀬の瞳に光が戻ったのを見て、みちは心の内で息をついた。


「村で日照りが続いてたから、池に落とされそうに……生贄にされそうになってた。でも、蓑笠を着た男の人に、殺された。気がついたとき、月が、話しかけてきて。そしたら身体が自由になって、山を下りたら、雨が降って……村の人たちが皆、喜んでた。そこに、黒い服の男の人が来て……。その人の中に、吸い込まれた。それで、目が覚めたら、洞窟にいて……洞窟の奥に進んだら……ここにいた……」

 自ら口にしてみると、信じ難い話だった。話す前は嫌悪にまみれていたこれまでの出来事が、まるで夢の話であるように思えてくる。


「なんか、夢みたいな話だな」

 同じ言葉が耳から聞こえて、みちは弾かれたように黒い目を見上げた。

「わたしもうちょうど、そう思ってたの」

「そりゃ面白いな」

 と彼が笑うのにつられて、みちも笑顔になる。ひとしきり笑った後、今度は晴瀬が驚いた顔で、「お前、そんな風に笑うんだ」とつぶやく。


「ずっと暗い顔してるから、想像つかなかった」

 言われてみれば。みちは頬に手をやる。

「そんだけ辛い思いしてきたんだもんな。笑えなくもなる」

 うん、とみちは頷く。

 彼といれば、笑顔の日々を取り戻せるのかもしれない。

「竜宮なんかに行くより、あなたといたい……」

 溜息のように、口から零れた。

「俺も、みちといたいな。会ったばっかりなのに、安心する」

「でもね、私、竜宮に嫁がなきゃいけないの」

 晴瀬はきょとんとして、何度か瞬く。

「海の底にあるっていう、あの竜宮か?」

「……わたしがいかなきゃいけないのは、池の底にあるって」

「そんなとこに、嫁ぐのか。ほんとなのか」

「蓑笠を着た男に殺されたのは、竜宮に選ばれたってことだから、行かなきゃいけない」

「行かなくていいだろ、そんな所」

 彼の顔には怒りがあった。

「その蓑笠の男ってのは、みちを竜宮の嫁にするために殺したんだろ?」

「……そうではない、みたい。でも、行きたくない」

 みちは膝を強く抱く。

「行きたくないの」

「じゃあ、行かなきゃいい」

「でも……無理だと思う」

 夜を呼ぶほどの力が、竜宮にはあるのだ。抗っても、きっと敵わないだろう。

「もう、さみしいところには、戻りたくないのに」

「昔も、竜宮にいたってことか?」

 つい、独り言になってしまう。首を横に振って、遠く沖を見る。


「わたしね、殺される前は、独りでずっと、機織小屋に閉じ込められてた。山の上にあったのだけど、人が住むところには、下りられない。小屋はぼろぼろで、冬はとっても寒い。何年も……誰とも話なんかしないで、暮らしてた」

 彼女の声は、波音に消えてしまいそうだった。

「池の底は、暗いでしょ。また、そんなところに閉じ込められるだなんて思うと……怖い。嫌なの。本当に、行きたくない……竜宮の主だって、どんな人か分からない……きっと、人じゃない。わたしはまた、独り」

 いつしか、涙が流れている。

「でも、どうしたらいいか分からない……。生まれた場所に帰りたい。ずっと、忘れてたの。そんな、温かい場所があったってことを。自分の名前だって、忘れてた。あの機織小屋から出られたから、帰りたい。でも、竜宮に行ったら、絶対に、もう二度と、帰れない」

 温かい過去の記憶が、再び頭を巡る。

「なんで、こんなことになっちゃったんだろう……」

「じゃあ、竜宮に行かなきゃいいだろ」

 彼の瞳は、彼女の瞳を真っ直ぐに見る。

「今から、戻ろう。地上に」

 強い声にも、彼女はうつむいてしまう。


「そんなこと、きっとできない……。あなたが入ったら、山が暗くなるのは、竜宮の力。そんな力を持ってるんだから……」

「そうかもしれねえ。でも、やってみようぜ!出口を探しにいこう」

 晴瀬はみちの返事を待たず、彼女の手を引き立ち上がる。

「でも……」

「山に入らなきゃ、とりあえず大丈夫だろ。行ってみよう」

 二人は海を後にする。みちは山と海の間の道の他歩いたことがなかったが、晴瀬は何度も歩いてきたという。人もいないのに田畑があり、道にはやはり桜が咲いていた。


 みちはふと、立ち止まる。

 西日を浴びて並んだ桜に、強い既視感を覚えた。

 みちはそっと腹をおさえる。温かながらもむずがゆい気持ちが身体からだ中に広がる。桜の木々の下、両手を広げ風を切ったら。みちは首元をくすぐる風と、まるで夢の中のような薄紅の乱舞を思う。まだ冬の残る冷たさと、胸いっぱいに広がる喜び。

「…………ち、みち、みち!」

 大きな声で呼ばれ、ハッとする。

「どうしたんだ?」

「……懐かしいの」

 みちの視線の先を、晴瀬も見渡す。

「故郷に、似てるのか?」

「多分、きっと、そう……。忘れていた、ことだから。きっと……」

 自分の生まれた場所には、あんな美しい場所があったのだ。

 大好きだったに違いない。この場所に初めて来たとき、桜を目にして心が浮き立ったのを思い出す。昔も、あんな風に桜の下を駆け回ったのだろうか。

「綺麗な所だったんだな」

「そうなのかもしれない」

 頬が緩む。

「美しい場所に、生まれたんだわ……」


 胸に広がる喜びが、突如として凍りつく。

 今までそこに無かったはずのものが、何度目を瞬いてもそこにあった。 

 二人は、ゆっくりと顔を見合わせた。

 人が、いる。

 桜の道に、微動だにせず立っている。

 その顔まではっきりと見えない。ただ真っ直ぐに身を貫く、強烈な視線。狼に睨まれたように、鳥肌が走る。

「俺たちの他にも、ここに人がいんのか」

 平気そうな晴瀬に対し、みちは一歩後退る。

「どうした」

「……怖いの」

「あれが、か」

 みちは頷く。

「行こうか」

 晴瀬は人影に強い視線を返し、再び歩き出す。その影は、二人が見えなくなるまで、ジッとその場に佇んでいた。

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