第9話 海の人
「!」
夢!
みちは転がるように布団を出て、戸を開け放つ。そこにはちゃんと春がある。高々と昇っているのは、日輪。
あれは夢だ。
何度言い聞かせようと、この山を下った先にあの景色が待っているような気がした。桜は、真実を覆い隠すために咲いている。
「違う!夢よ!」
激しく脈打つ心臓が整わぬまま、みちは坂を下る。むせかえるほどの、薄紅の幻想。生を許さぬような景色から戻ってきた今、目にがしがしと染みてくる。
あの、愛おしさ。
あの、血の熱さ。
あの、月の輝き。
生々しさに吐きそうになり、立ち止る。強い風が、幾度となく押し寄せた。花びらは無限に千切れて、行く先を真っ白に霞ませる。首がもげそうになるほど頭を振って、夢を打ち消す。それでも夢の感覚は何度も蘇り、その度みちは足を止める。
夢中で攻防を繰り返す内、彼女はいつしか山を離れている。
ふわ、と足が異質なものに触れてやっと、立ち止まる。見上げた視線の先、目を突き刺す光。
海が、輝いていた。
みちは、息を忘れて立ち尽くす。
肌色の浜から続く海は、名前の知らない青。幾重にも重なり耳に至る波音は、
長い、溜息が零れた。
あの真冬の景色など、どこにもない。
細められていた彼女の目が、徐々に開かれる。満月のような大きさになった瞳に映ったのは、光の中に立ち尽くす青年の姿だった。
みちは、胸の前で拳をぎゅっと握る。大きな瞳をいっぱいに開きこちらを見る彼は、紛れもなく、あの朝桜の中で出会った青年だった。
波打ち際に立っていた彼が、一歩ずつ近づいてくる。みちは少し、逃げたくなった。彼が、余りにも眩しく見えたからだ。その光にさらされてしまえば、自分は全く、決定的に、別の人間になってしまう。そんな気さえした。
「俺、
潮騒も物ともしない、低い響き。
「名前は?」
「……みち」
緊張で、声が震えていた。
「桜の山で、会ったんだよな」
見上げる顔には期待がある。それに答えられることに頬が緩むが、見られたくなくてうつむいた。
「そうです」
「やっぱ、そうだよな!」
それまで伺うようだった彼の声が、途端に明るくなる。
「急に夜になって、しかもこの海にいたんだよ。どうしたって会いたくて、何回も山に行ったんだけどな、登ろうとすると夜になって、引き戻されて……。だから、本当に嬉しい」
みちは、何も言えなくなる。代わりに、痛むほど脈打つ心臓が、口から零れ落ちてしまいそうだった。
「具合、悪いのか」
この上なく悪かったが、みちは黙って首を横に振る。
「でも……耳まで真っ赤だぞ」
慌てて、両手で耳を隠す。見上げた彼は、大きく口を開けて笑っていた。呆けて両手をおろすと「面白いことするなあ」と目尻を下げている。
「よくなるまでここにいろよ。海の音聞いてると落ち着くぞ」
言われるがまま、彼女は彼の横に腰を下ろした。
彼の言う通り、海鳴りに鼓動が落ち着いていく。傍らの体温に、もう緊張しなかった。そっと見上げた横顔は、遠く沖を見ている。明るい瞳はどこか虚ろで、みちのうかがい知らぬ感情にとらわれているようだった。
「なあ」
突然こちらを見下ろした瞳に、虚ろの影はなかった。
「海、入ったことあるか」
首を横に振ると、彼は笑って立ち上がる。自然に差し伸べられた手をそっと取ると、強い力で引き上げられる。
海が、ずんずんと近づく。彼は迷わず瀬へと足を踏み入れる。みちは、水際で立ち止まった。
「入ってみないか」
こわごわと、寄せる波に足を差し出す。ひやっとして引っ込めると、彼はまた快活に笑う。
恥ずかしくなってうつむき、再び水に入る。太陽を水面に遊ばせる海は見かけに反して冷たく、ぎりぎりと肌に突き刺さる。寄せては返す波と共に、砂が足の裏から抜け去っていく。
そのまま、深みに連れていかれてしまいそうな気がした。
光をまとった小波の先には、深い深い闇が連なっている。
何もかもが息絶えた場所と、確かに繋がっているのだ。
みちはすごすごと陸に上がる。驚く彼を「やっぱり、こわい」と上目に見上げた。
「ごめんな。大丈夫か」
彼もざぶざぶと上がってくる。申し訳なさそうな顔に、かえって申し訳なさが募った。
「すみません……」
「いや、こっちが悪かったよ」
どちらともなく、再び砂浜に腰を下ろす。冷たい足に、温まった砂が心地よかった。
「俺はさ、海に潜るんだ。漁師だから」
「海に?」
娘は、再び海原に目を馳せる。
「なんでそんなこと……するんですか」
「魚や貝なんかを取るために、潜るんだ。釣りをしたり、ワナを仕掛けたりもする」
「こわく、ないんですか」
晴瀬はしばらく彼女を見ていたが、やがて沖へ目をやる。
「こわい」
ひときわ高い波が、浜を濡らした。
「でも、同じくらいに好きなんだよ」
向けてくる笑顔に、みちは海に視線を返す。
底知れぬものを隠し持った海は、なんということの無い顔で
何百何千と潜れば、好きと言えるようになるのだろうか。
「なんでこわいのに、好きなの」
「なんでだろうなあ。言われてみると、よく分かんねえな」
みちは自分の中にも、探してみる。こわいけど、好きなもの。好きだけど、こわいもの。
「月」
考えよりも先に、答えが口を
「月?」
「好きなの。でも、ちょっと、怖い」
今朝見た夢の、まるで生命を蝕むような月光を思い出す。
「海は、月の満ち欠けと一緒に満ち引きするんだ。よく見上げてたよ」
「そうなの」
「ああ。満月の海は、本当に綺麗だ。光の道ができることもある。」
「……見てみたい」
「見てほしい。きらきらしてて、そのまま海の上を歩いて月に行けそうな気持ちになるんだ。……ここから出られたら、俺が育った所の海を見てほしいな」
「行ってみたい」
顔が、心地よく赤くなる。ほんの少しほほ笑む彼女に、晴瀬も笑顔になった。
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