第7話 いつみきとてか
目を覚ましたのは夜明け前。
彼女はぼんやり天井を見上げた。昨日のことをゆっくりと思い出しながら、立ち上がる。ドテ、ドテと重たい足音の先で戸を開けた。
夢では、ないのだ。
青い
改めて見ると、不思議に思える。どうして、こんな所にいるのだろう。ここはどこなのだろう。
胸にわだかまる不可解を、忘れたかった。彼女は、水中のような静謐に泳ぎ出でる。
昨日とは反対に、登り坂をいく。息が上がってきた頃、桜の行き止まりが見える。真っ直ぐ見上げた先の頂上に、大きな
みちは
夜明け前の
小屋に戻ろうとした彼女は、目の端に異物を捉える。
桜の斜面へと這わせた、視線の先。
そこに、若い男がいた。
大きな目をいっぱいに開き、こちらを見つめている。その眼差しが空を裂いて、みちの脳に突き刺さった。
走った熱に、ぎゅっと胸をおさえる。
会ったことなどないはずなのに、このたまらない懐かしさは何だろう。
桜の
彼女は慌てて、青年を見下ろす。その姿はあると思えばあるように見え、ないと思えばないように見える。
「そこに、いるの」
震えた声を契機とするように、東の空を太陽が引き裂いた。
日輪は無数の腕を、空に大地に延々と伸ばしていく。彼女の白い面は太陽の色に染まり、髪が光に濡れていく。
ちらと確認した場所にもう、青年はいなかった。
みちは太陽から逃げるように、桜を離れる。まるで夢を見ていたかのような心地に、うらうらと舞い散る桜が拍車をかける。
頼りなげな足取りで小屋に辿り着く。戸を開けたそこに、女の顔。
「し、失礼しました」
ひっくり返った彼女に、めめは手を伸ばす。みちはよろよろと立ち上がった。
「今、探しに行こうと思っておりました。お怪我はありませんか。妙なことに巻き込まれなかったでしょうか」
みちは首を横に振る。その切迫した様子に、不安な気持ちが膨れ上がる。
「実は、大変なことになったのです」
と、握ったままの手でみちを座布団に導く。腰を下ろすと、めめは「落ち着いて、聞いてくださいね」と低めた声で言った。
「ここには鬼が、います」
「鬼……」
思わず呟いたとき、脳内で
「突然、夜が戻りましたでしょう。あれは山に侵入した異物を追い返す、竜宮の守りの力なのですが……こんなことが起こったのは、初めてです」
夜が来たのは、あの青年の姿を見た後だった。
みちは首を傾げる。あれが、鬼だというのか。恐ろしいものには、とても見えなかった。
「……人は見ました。人、でした」
「見たのですか」
めめは目を丸くする。みちは意味もなく「すみません」とうなだれる。
「咎めているのでは、ないのです。先ほど確認をしてきましたが、あれは紛れもなく鬼でした……鬼というのは、術士のことなのですが、知りませんか」
みちは、知らないと首を横に振る。
「
沖術。口の中で小さく繰り返す。
「鬼は凶暴な力を振るい、みち様を深く傷つけるかもしれません。みち様がお美しい姿を見られというのなら、尚更」
なぜ、いちいち容姿を称賛するのだろう。みちは少し眉をひそめた。
「私は今から竜宮に戻り、守りの力を強化して参ります。力は、平地に下ってしまえば無効になってしまいますから、くれぐれも山から離れることのないように」
そう言って、めめは出ていった。
その日、何度も夜が訪れた。みちは「鬼」という言葉に誘われ恐怖を覚えるが、隠しようがないのは胸の鼓動だった。
闇に覆われる間中ずっと、彼の姿が頭に
視線がかち合ったときの、痛み。
彼は本当に、鬼なのだろうか。あんな瞳を持った人が、自分を暴力にさらす存在だとはとても思えなかった。
闇に包まれ、心臓をおさえる。身体が熱く、息が苦しい。それなのに、悪くない。部屋で小さく
そうだ、と彼女は顔を上げる。
彼が今、山にいるのなら。またあの
手探りで床を進む。戸に手をかけたそのとき、蓑笠の男を思い出す。
鬼が、自分を騙すつもりで、あんな姿をしているのだとしたら?
また、恐ろしい目に遭ってしまったら?
彼を疑うだけで、汚くなったような気持ちになる。振り払うように戸を開けた瞬間、闇が晴れ昼過ぎの光が戻る。
彼女の呆けた顔に、太陽の欠片がちらちらと舞う。
竜宮は、ここよりも綺麗な場所なのだという。
池の底の暗さを、みちはよく知っている。真昼の光にさらされても、池の底にだけは、じっとりと深夜がある。
そんな所に美しい場所があるとは、到底思えない。みちは膝を抱える。真っ暗闇に閉ざされ、どこへも行けない。竜宮の主が、どんな人かも分からない。竜宮の主というのならば、神の類なのだろう。きっと、おそろしいものに違いない。
自分を閉じ込めるため、嘘を吐かれているのではないか。途端に、
本当の春は……。彼女は瞳を閉じる。
春が空から舞い降りて、大地を優しくなぜる。冬がそれを羨んで、寒さが戻ってくる。しかしやがて春に懐柔され、空の最奥へと去っていく。それに手を振るように桜が咲く。桜は、偉大なる冬の輝かしい
みちは目を開いた。
目の前の桜は、どことなく太陽に媚びているように見える。夜明け前、紙のような白さの中に、ぽっそり陰影を
みちは、何千何万と咲き誇る桜に、溜息を吐く。竜宮に、行きたくない。もう二度と、生きているような死んでいるような日々を送りたくはないのだ。しかし明後日、その時が来てしまう。
陽光の匂いを吸い込み、溜息に変える。
記憶に眠る温かな場所に帰りたくて、山を下りたはずなのに。抱えた膝の闇に突っ伏した。
夜が来る前、みちは
他者の記憶に潜る夢に。
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