第7話 いつみきとてか

 目を覚ましたのは夜明け前。


 彼女はぼんやり天井を見上げた。昨日のことをゆっくりと思い出しながら、立ち上がる。ドテ、ドテと重たい足音の先で戸を開けた。


 夢では、ないのだ。

 青いあけぼのに、亡霊のような桜の木々が並んでいた。

 改めて見ると、不思議に思える。どうして、こんな所にいるのだろう。ここはどこなのだろう。

 胸にわだかまる不可解を、忘れたかった。彼女は、水中のような静謐に泳ぎ出でる。


 昨日とは反対に、登り坂をいく。息が上がってきた頃、桜の行き止まりが見える。真っ直ぐ見上げた先の頂上に、大きな枝垂桜しだれざくら屹立きつりつしていた。じっとり黒ずんだ幹から、細い枝がやわらかにおりている。こぶりのかわいい花がぽつぽつと咲いているのが、近付いていくごとに明瞭になってくる。


 みちは御簾みすのような枝をかきわけ、冷たいその木に寄りかかる。小さな花々の向こうに、海が見えた。

 夜明け前のかすみを這わせた空の下、海は鉄のように黒い。昨日と同じように、遠く離れているのに海の息吹が聞こえてくるような気がした。

 小屋に戻ろうとした彼女は、目の端に異物を捉える。

 桜の斜面へと這わせた、視線の先。

 そこに、若い男がいた。

 大きな目をいっぱいに開き、こちらを見つめている。その眼差しが空を裂いて、みちの脳に突き刺さった。

 走った熱に、ぎゅっと胸をおさえる。


 会ったことなどないはずなのに、このたまらない懐かしさは何だろう。


 桜の御簾みすを出ようとしたその時、突風が山を駆け下る。突然辺りに闇が落ち、みちは小さく悲鳴を上げる。こわごわと見上げれば、空には夜が戻っていた。星が姿を現し、舞い上がった桜の花びらを睨みつけるように輝く。


 彼女は慌てて、青年を見下ろす。その姿はあると思えばあるように見え、ないと思えばないように見える。

「そこに、いるの」

 震えた声を契機とするように、東の空を太陽が引き裂いた。

 日輪は無数の腕を、空に大地に延々と伸ばしていく。彼女の白い面は太陽の色に染まり、髪が光に濡れていく。かげった瞳が否応なく明るみにさらされる居心地の悪さに、彼女は顔を伏せた。

 ちらと確認した場所にもう、青年はいなかった。


 みちは太陽から逃げるように、桜を離れる。まるで夢を見ていたかのような心地に、うらうらと舞い散る桜が拍車をかける。

 頼りなげな足取りで小屋に辿り着く。戸を開けたそこに、女の顔。


「し、失礼しました」

 ひっくり返った彼女に、めめは手を伸ばす。みちはよろよろと立ち上がった。

「今、探しに行こうと思っておりました。お怪我はありませんか。妙なことに巻き込まれなかったでしょうか」

 みちは首を横に振る。その切迫した様子に、不安な気持ちが膨れ上がる。


「実は、大変なことになったのです」

 と、握ったままの手でみちを座布団に導く。腰を下ろすと、めめは「落ち着いて、聞いてくださいね」と低めた声で言った。

「ここには鬼が、います」

「鬼……」

 思わず呟いたとき、脳内で蓑笠みのかさを被った男の姿が閃いた。

「突然、夜が戻りましたでしょう。あれは山に侵入した異物を追い返す、竜宮の守りの力なのですが……こんなことが起こったのは、初めてです」

 夜が来たのは、あの青年の姿を見た後だった。

 みちは首を傾げる。あれが、鬼だというのか。恐ろしいものには、とても見えなかった。

「……人は見ました。人、でした」

「見たのですか」

 めめは目を丸くする。みちは意味もなく「すみません」とうなだれる。


「咎めているのでは、ないのです。先ほど確認をしてきましたが、あれは紛れもなく鬼でした……鬼というのは、術士のことなのですが、知りませんか」

 みちは、知らないと首を横に振る。

沖術ちゅうじゅつ、という恐ろしい術を、生まれながらに使う者のことです……火や水、風や闇までもを自在に生み出し、操る。人の形をしていますが、人ならざる力を振るう。それが、鬼なのです」

 沖術。口の中で小さく繰り返す。

「鬼は凶暴な力を振るい、みち様を深く傷つけるかもしれません。みち様がお美しい姿を見られというのなら、尚更」

 なぜ、いちいち容姿を称賛するのだろう。みちは少し眉をひそめた。

「私は今から竜宮に戻り、守りの力を強化して参ります。力は、平地に下ってしまえば無効になってしまいますから、くれぐれも山から離れることのないように」

 そう言って、めめは出ていった。


 その日、何度も夜が訪れた。みちは「鬼」という言葉に誘われ恐怖を覚えるが、隠しようがないのは胸の鼓動だった。

 闇に覆われる間中ずっと、彼の姿が頭にひらめき続けていた。近くで見てはいないのに、鮮明に焼き付いてる。彫の深いハッキリとした顔立ちに、並んだ黒い瞳。癖のある短い髪に、壮健そうけん体躯たいく

 視線がかち合ったときの、痛み。

 彼は本当に、鬼なのだろうか。あんな瞳を持った人が、自分を暴力にさらす存在だとはとても思えなかった。


 闇に包まれ、心臓をおさえる。身体が熱く、息が苦しい。それなのに、悪くない。部屋で小さくうずくまりながら、闇が去ってしまうのを恐れている。指先すらも見えぬこの黒の中には、彼がいるのだ。

 そうだ、と彼女は顔を上げる。

 彼が今、山にいるのなら。またあの枝垂桜しだれざくらの元に行けば、会えるかもしれない。


 手探りで床を進む。戸に手をかけたそのとき、蓑笠の男を思い出す。

 鬼が、自分を騙すつもりで、あんな姿をしているのだとしたら?

 また、恐ろしい目に遭ってしまったら?

 彼を疑うだけで、汚くなったような気持ちになる。振り払うように戸を開けた瞬間、闇が晴れ昼過ぎの光が戻る。


 彼女の呆けた顔に、太陽の欠片がちらちらと舞う。かすみのかかった空を見上げて、後ろ手で戸を閉めた。家の壁にもたれて座り、邪気のない桜を眺める。

 竜宮は、ここよりも綺麗な場所なのだという。

 池の底の暗さを、みちはよく知っている。真昼の光にさらされても、池の底にだけは、じっとりと深夜がある。

 そんな所に美しい場所があるとは、到底思えない。みちは膝を抱える。真っ暗闇に閉ざされ、どこへも行けない。竜宮の主が、どんな人かも分からない。竜宮の主というのならば、神の類なのだろう。きっと、おそろしいものに違いない。


 自分を閉じ込めるため、嘘を吐かれているのではないか。途端に、雁首がんくび揃えて咲いた桜すら嘘の景色に見えてくる。

 本当の春は……。彼女は瞳を閉じる。

 春が空から舞い降りて、大地を優しくなぜる。冬がそれを羨んで、寒さが戻ってくる。しかしやがて春に懐柔され、空の最奥へと去っていく。それに手を振るように桜が咲く。桜は、偉大なる冬の輝かしい墓標ぼひょう。裸の桜が吸い込んだ冬の冷たい光が、暖かさにほだされ花開く。

 

 みちは目を開いた。

 目の前の桜は、どことなく太陽に媚びているように見える。夜明け前、紙のような白さの中に、ぽっそり陰影をはらんだ姿。あれが、冬がないここに咲く桜の、本当の姿であるように思えるのだ。

 みちは、何千何万と咲き誇る桜に、溜息を吐く。竜宮に、行きたくない。もう二度と、生きているような死んでいるような日々を送りたくはないのだ。しかし明後日、その時が来てしまう。


 陽光の匂いを吸い込み、溜息に変える。

 記憶に眠る温かな場所に帰りたくて、山を下りたはずなのに。抱えた膝の闇に突っ伏した。

 夜が来る前、みちは葛籠つづらから布団を出す。鬱々とした気持ちが目蓋を重くし、太陽よりも早く夢に沈む。

 他者の記憶に潜る夢に。

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