第6話 竜宮の使い

「みち様ですね」


 彼女は、ややあって頷いた。名を呼ばれるのは、余りにも久し振りだった。


「ようこそ、おいでくださいました」

 手慣れた所作で両手をつく。玄関で立ったまま動けないみちに「おあがりください」と微笑んだ。

 みちは三和土たたきを上がってすぐのところで、正座をした。


「こちらに座布団を用意しております。そこでは冷えてしまいますよ」

 正直なところ、見知らぬ女に近づくのが怖かった。しかし従わないともっと怖いことになりそうで、みちは彼女と向かい合う座布団に座る。


 目の前の彼女は、鮮やかな色の服を着ていた。その衣から、なんとも言えない良い匂いを漂わせている。視覚と嗅覚が一度に刺激され、みちは小さくくしゃみをした。


「私は竜宮の主の使いで、めめと申すものでございます。みち様のお世話をさせていただきますので、何卒よろしくお願い申し上げます」

 竜宮?

「まずは地上での働き、お疲れ様でした。主はみち様を竜宮にお招きできることになり、大変喜んでおります」


 みちは目を白黒させる。

「もしかして、ご自身の状況をお分かりでないのでしょうか」

 おずおずと頷くと、めめも大きく頷いた。

「それでは、説明をさせていただきましょう。みち様はずっと、池の横で機織はたおりをされていましたね?」

「……はい」

「その池の底に、竜宮がございます。あなたの機織りの音は大変美しく、主も大層気に入っておりました」

 現実味の無い話に、曖昧な頷きだけを返す。


「そして旱魃かんばつの続いた夏、みち様は池に沈められるはずでした。愚かな庶民たちは、そうすれば竜宮に娘を捧げることが叶い、返礼として雨を降らせてもらえると考えているからです」

「しかし」と強く言葉を切ったのに驚いて、みちはビクリと肩を震わせる。ちら、と見ためめの瞳には、怒りの色が浮かんでいた。


「真実は異なります。池に娘を投げ入れても、死ぬだけです。そもそも、人間の都合で娘を与えられても、主に返礼をしなければならない義務はありません」

強い口調に、みちは思わず「すみません」と呟く。

「そんな!あなた様を責めているつもりはないのです。つい、熱くなってしまいました」

 と、彼女は丁寧に頭を下げた。


「竜宮には、ふさわしい娘だけがおもむくのです。みち様も、恐ろしい思いをしたでしょうから詳しくは言いませんが、蓑笠みのかさをつけた大男が選んだ人間でなければ、主の妻にはなれないのです」

 蘇る、絶息の恐怖。


「決して、主がみち様を殺させたのではないですよ。誤解することなきよう。あの男は、我々と直接繋がる存在ではありません」

 みちは膝の上で拳を握る。灼熱の目覚め、人々の黒い影、瞳を貫いた光の痛み。まだ生々しく、身体の内に残っていた。

「竜宮は、この桜の里に負けず劣らず綺麗な場所ですよ。主も、みち様にお会いできることを心待ちにしております。三晩はこちらで過ごしていただくことになりますが、楽しみにお待ちくださいまし」

 頭を去らない苦痛の光景で、めめの言葉にぼんやり膜がかかる。しかし目の前の彼女は嬉しそうな顔をしていて、みちは惰性で頷きを返した。


「お疲れのところ、たくさんお話をしてしまいましたね。もうお休みになりますか?」

 願ってもない提案だった。

「……お願いします」


 めめが立ち上がり、葛籠つづらをそっと開ける。中から出てきたのは、真っ白な寝具だった。滑らかそうな生地が、やわらかな陰影を作っている。誘われるように目蓋が重くなり、苦痛の景色が遠ざかる。

 敷かれた布団に触れる。くすぐったいくらい滑らかで、すぐにでも飛び込みたくなった。


「それでは」

 彼女が戸を閉めるのと同時に、ふ、と部屋の灯りが消える。

 暮れ時は、いつの間にやら夜になっていた。煙の臭いが鼻をかすめる。後を追い、春夜しゅんやの匂いが肺に満ちた。


 みちはめめの気配がないことを確認し、布団に潜る。そして気を失うように、闇の中へ落ちていった。

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