第2章 乙女

第5話 桜花

 窓から吹き込んできたやわらかな風に、薄桃の花びらがふわ、と舞い込んでくる。

 見間違いかと思う。二度、目をしばたくが、やはりそこには桜がある。

 そろそろと足を出し三和土たたきに下りる。恐る恐る、外に出た。


 白い柔らかな光に、みちは目を細めた。眼下に広がるのは山の斜面。そこに立つ木は全て、満開の桜だった。


 素足のまま歩き出す。桜の花びらに、まだら模様になった地面。木漏れ日がその上にまだらを重ねる。幾重もの黒と白。呆けるほど穏やかな日差し。包み込まれるような大気に立ち止まって、大きく息を吸い込んだ。可憐な花々の放つ匂いで胸が一杯になり、思わず顔がほころぶ。


 青い、もやのかかった空に向かって、桜たちが枝いっぱいに花を綻ばせている。春の太陽をまとう、純白の花。全ての生き物を代表して、冬の終わりを高々と宣言し、春の豊かさを寿ことほいでいる。


 桜を見たのは何年ぶりか。月に語った夢物語そのままの景色の只中に、自分はいる。彼女はたまらず、桜の中に駆け出した。

 春の大地の弾力が、みちの細い足を跳ね返す。光と影の中をくぐり、根を蹴り、山道を下る。黒い髪は艶やかに流れ、ぬばたまの瞳はまっすぐ前を見る。首をくすぐる風はまだ冷たく、熱を上げていく身体には心地良い。呼気は楽し気に弾み、胸の苦しささえ春の空に解き放っていく。光が一層華やいで、滲んだ。いつしか涙がこみ上げていた。


 麓まで一気に下り、その勢いのまま平地を走る。そこには、一本の大通りが通っていた。道の両脇にも、一定の間隔をおいて桜の木が植わっている。


 みちは、ゆっくりと歩き始めた。

 風が後ろから吹き抜け、道いっぱいに散った花びらを転がしていく。

 聞こえてくるのは、まるで瑠璃の鈴を転がすような小鳥のさえずり。花弁が枝を離れちらちらとまたたく。それに合わせるように、毛先が風に躍った。真っすぐに伸びる道の先には、何があるのだろう。地平線までずっと、薄紅の花が咲き誇っているのを見たい。延々と緑の続く草原もいい。未知へと高鳴る鼓動が、道を先へ先へと進ませた。

 しかし現れたのは、想像だにしない光景だった。

 彼女の足は、自然と止まる。


「……海だ」


 初めて見る水の広野は、深く青い色をしていた。

 あそこには、たくさんの生き物が泳ぎ回っていると聞いたことがある。遠く離れているのに近くにあるように感じるのは、きっとそのためだろう。あれは生命をふんだんに抱え込んだ、おおきな一つの生命体。立ち止まっているのに、迫ってくるような気さえした。風にざわめく桜の音も、潮騒のように聞こえてくる。万象が自分を海の底へ沈めようとしているような錯覚に、彼女はたまらずきびすを返した。


 来たばかりの道を、全力で駆け戻った。背を向けた途端、海が追いかけてくるような気がして、何度も振り返る。海が見えなくなっても、安心はできなかった。もしかしたら、ぞわぞわとあの道を這ってきているかもしれない。


 それでも身体は、急には丈夫になれないものだ。元気一杯に動きすぎた足は次第に萎え、彼女は脇腹を抱えながらとぼとぼ歩く。来た時よりも斜面が急になった山道を登り、小屋に辿り着いたときには薄暗くなっていた。


 改めて見上げてみると、質素ながらもきれいな小屋だった。雑草も生えていなければ、屋根が破れてもいない。無垢のままの壁は、薄闇の中でぼんやり光っているようにさえ見える。

 その格子窓から、灯りが洩れていた。


 誰かいるのか。息を止めた時、戸の向こうから声がする。


「お待ちしておりました」

 清澄な、若い女の声。

「こちらはあなたのためにご用意いたしました宿にございます。どうか立ち去ることなく、戸をお開けくださいませ」


 そっと戸に手をかける。恐る恐る開いてみると、部屋の真ん中に背筋を伸ばした女がいた。

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