第4話 黒い男

 真っ暗に囲まれて、娘は夢の出来事を反芻はんすうする。震える両手を握り締め、足を折り曲げ丸くなった。水中のような浮遊感に、身体がゆっくり沈んでいく。耳には微かに、水の音が触れている。無数の囁きが集まって一つになったような、音だった。

 何も無いかに見えるここに、実はたくさんの何かが潜んでいるのかもしれない。みちは恐る恐る辺りを見る。


 真上に、小さな、点のような、白い光。

 月だ、と娘は思った。

 身体をゆっくりと解いて、手を伸ばす。するとそれは、みるみる近づいてくる。

 それは腰まで伸びた白髪の、後ろ姿。


「た、す、け、て」


 娘は、鉛のように重たい喉で、声を振り絞った。


「あらあ」


 ゆっくり振り返ったのは、若い女だった。みちはぎょっとする。瞳が血のように真っ赤だ。大きな口をぱっくり裂いて、女は笑う。


「あなたはここにいちゃ、だめよ」


 人に見えないその娘は、両手で彼女を突き飛ばした。

 背中に、冷たく固い感触。

 見上げるのは、ちろちろと小さな炎に照らされた石の天井。

 覗き込んでくる顔は、あの青年。みちはひっと息をのみ身を強張らせる。

 彼は安堵の息をついた。


「やっと、会えたんだ」

 青年はうつむいたまま、独りごちる。

 みちは目だけで辺りを見る。かぼそい蝋燭が、岩壁を照らしていた。おそらくは洞窟の中だろう。

 彼の指が、細かに震えている。小さく恐怖を感じて、彼女は身を起こした。


「……あなた、誰」

「私はやっと、死ぬことができる」


 それまで呟きだったような青年の声が、突然感情を帯びた。


「死なせてくれ……」

 顔を上げた彼の、瞳。涙で、闇が溶けている。

「私を、死なせてくれ」

 肩を掴まれる。

「死なせてくれ」


 振りほどいて、立ち上がった。少しでも彼から遠ざかりたかった。

「やっと会えたんだ」


 同じ言葉ばかりを繰り返す。

「死なせて……」

 みちは首を横に振る。


「できない。わたし、きっと、人違い。帰して」

「あなたはもう、死んでいる。帰る所はない」

「でもまだ、この世にいる」

「私を、死なせてくれ」

「わたし故郷に帰りたい」

「目を逸らさないでくれ」

「いや!」

「目を逸らすな!」


 大声に彼を見る。


「はやく、私を殺せ!いい加減に罪を償え!」


 洞窟の岩肌は、青年の言葉を何度も繰り返す。彼女は打ちのめされて、膝から崩れ落ちる。同時に、涙が瞳からこぼれた。

「わたし……何もしてない……人違いだから……」

「いいや私が間違えるはずなどない」


 今すぐ、この男から逃れたかった。


 みちは涙を拭って、もう一度光を探した。火が邪魔で、蝋燭を吹き消す。

「何をする」

 馴染まない目を必死に凝らして、立ち上がる。


「あ」


 洞窟の向こうに、幽かな白光。

 みちは引っ張られるように歩き出した。


「そっちには、何も無い」

「いいえ。光がある」


 彼女は光を信じ、滑らかに歩く。洞窟の天井はだんだん低く、また光は強くなっていく。身をかがめて進み、やがては四つん這いになる。天井が頭に当たった時、突如まばゆい光が弾けた。


 反射的に、手の平で目蓋を覆う。目に焼きついた痛みが遠ざかり、恐る恐る目を開けた。


 みちは、あの粗末な小屋によく似た場所にいた。どうやってここに来たのだろう。戸惑いにかげった瞳が、開け放たれた戸の向こうを見て光を呼び込んでいく。そこには、数限りない桜が満開に咲き誇っていた。

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