第3話 月は

 突如、身体からだがふわ、と浮き上がる。三度、輿を上下させられる。このまま池に放り込まれるのだ。


「いやだ!」


 ガシャン!と大きな音がして衝撃が突き上がる。綿帽子が頭の上で弾んで落ちた。

 池でなく地面に落とされて、娘は目を白黒させる。いつしかどよめいている担ぎ手たちと老いた二人の女は、黄昏の中に佇む異様な人物を見ていた。


 娘はその姿を見て、咽に声を詰まらせる。

 そこにいたのは、蓑笠みのかさを着た巨漢だった。

 化物じみた風貌のそれは、何かを呟き、のしのしと足音を響かせこちらに迫る。


「眼玉をもらいにきた」


 人間とは思えぬほどの低い声と共に、蓑の中から滑り出た白銀の光。村人たちは叫びを上げて散りぢりに逃げていく。蓑笠の男は脇目も振らず、娘に向かって真っすぐ走ってくる。


 娘は、なすすべもなく呆然としていた。ただ、薄い唇だけが、恐怖をさとってひきつっていた。

 

 蓑笠の男が、短剣を持つ太い腕をいやにゆっくり振り上げる。突如脳内に、解き放たれた記憶が次々とよみがえる。記憶の中の映像が次々明滅し、あまりのはやさに娘の認識も追いつかない。

 ただ一つ明瞭だったのは、ここに来る前までは笑顔に囲まれて過ごしていたということだった。


 切っ先が、眼球に突き迫ってくる。

「死にたくない」

 痛みよりも先、視界に真っ暗闇が落ちた。

 それは、雪の日の夜のような色だった。

 目の前にかざした指の形すらも見えない、越しがたい夜。歯の根があわず震えた雪の晩。穴の開いた屋根から、家の隙間から、容赦なく寒風が吹きつける。なけなしの木炭を火鉢にくべても、気休め程度の暖かさが得られるだけだった。冷たい布団の中で丸くなり、氷のような指先に息を吐きかけては、背筋をさする死を追い払う。

 冬枯れの枝が解けて、花が咲く。冬の固い地面を、じくじくと生命力が裂いて春が噴き出る。その瞬間を胸に抱いて、冬を耐え忍んでいた。


 娘は、目を開ける。

 今日はまばゆい夜だった。視線の先にいる満月。夏の月は高度が低い。池を囲む木々のこずえすれすれに、その姿を見せていた。

 満月の位置からして、すっかり真夜中だ。

 娘は満月に手を伸ばす。その白い手は、金色の光に透けていた。

 起き上がろうとするが、背中が大地に根を張ってしまったかのようで、動かない。


「帰りたい」

 頭を駆け去った古い記憶。自分を産んだ両親の顔。同じ年ごろの子供たちが笑う顔。皆と、あたたかな村で苦楽を共にする生活。透けた手で、何度も月を掴もうとする。

孤独の存在しえないあの場所に、もう一度戻りたい。


「わたし、みちって、名前だった。わたしが、忘れてた」

 ぼったりとした金の光が、涙ににじむ。

「わたしが、死んでも……みちが死んだなんて、誰も、思わない。誰も、知らない……」


 一人で山に閉じ込められて死を待つ日々は、苦痛以外の何物でもなかった。天災に備えて殺されるのか、天災がきたら殺されるのか。もしかしたら、明日死ぬかもしれない。恐怖にとらわれたら最後、正気ではいられなくなった。


 ただ、機織はたおりのあいだだけは無心になれた。毎日夢中になって織っている内に、その日がくるという事実を忘却した。それと共に、温かい記憶も一緒に葬っていたのだった。


 死に際に蘇ったそれらの中に飛び込みたい。凍った映像が氷解して、声や温度を持つ瞬間が、欲しくて欲しくてたまらない。

 死人が欲したところで、渇望はただの渇望。生者を気取って涙を流している身体の感覚は、落下するように失われていく。月にかざした手も、今や消えようとしていた。


「かえりたいのに」


 絞り出すように言ったそのとき、水底に響き渡るような声が降る。

「あなたは死んだ。けれどそれは、この世の人じゃなくなったというだけの話」


 涙に広がった月光が自ら変形する。水中に広がったような髪と、輪郭の曖昧な四肢を持った女の姿になった。その顔には真っ黒な両目の他何もないが、慈悲深く微笑んでいるように見える。


「……誰?」

「月よ。あなたとずっと、お話していた、月」

 娘は不思議な心地でそれを見ていた。

「ほんとに?」

「ほんとうよ」


 光が手を伸ばし、みちの頬に触れる。水が人の体を持ったような、不思議なやわらかさがあった。

「わたしが、かわいそうなあなたの夢を、かなえてあげる」

 満月が、木々に埋もれてしまう。光の女の姿もかげる。

「待って、一人にしないで」

 すがる娘に、女は頷く。

「だいじょうぶ。姿がみえなくても、これからはずっと、一緒にいてあげる」

 女の形が崩れ、元の光のように視界いっぱいに広がった。

 みちは眩しさに、目を閉じる。


 光の残像が消えてしまってから、そっと目を開いた。溜まっていた涙を落とした眼球は、白み始めた空の色を映している。朝を告げる鳥の声が、青い闇をにぎやかに飾った。


 背中が軽くなり、みちは難なく起き上がる。それでも身体が透けていることに変わりはなかったが、消えてしまいそうなほどではなかった。もと着ていた着物を身につけ、解かれた髪の毛先が腰で揺れていた。

 池がしんしんと湛える清澄をちらりと見て、立ち上がる。


「かえろう」


 みちは夜明けの山道を下っていく。木々の間から、顔を出したばかりの太陽が睨んでくる。


 麓は思っていたよりも遥かに遠く、その上何度も迷った。山が下る通りに歩いていけば良いはずなのに、いつしか同じ場所を何度もぐるぐる回っている。そこからなんとか脱して下り始めると、今度は見えない壁に阻まれて進めなくなる。それを回避すれど、再び同じ場所を歩き回る獄の中。


 山の麓に群れる墓が見え始めたのは、昼も近くなった頃だった。


 娘は墓の間を、背中を丸めてそそくさと下った。土を盛ってあるだけの墓や、大きな石が立てられたり、小さな石で円が描かれたりしている墓がある。それらの地下深くに眠ったものたちに、睨まれているような気がした。


 墓の間を抜けて、やっと平地に足をつく。

 眼前に広がったのは、真っ白にけた道と、しなびた田畑。

 みちはそろそろと歩み出す。強烈な熱が足の裏を焼くことはなかった。それでも鈍く、熱が伝わってくる。

 娘が小川の橋を渡ったとき、冷たい風が吹き抜けた。突如として暗くなる辺りに空を仰ぐ。

 灼熱を舐めつくそうとするその正体は、真っ黒な雲だった。激烈な熱線を放つ白い円を飲み込み、あっという間に薄暗くなる。

「雨が、降るんだわ」

 彼女の囁きを合図にしたかのように、雨が滝のように降り注いだ。


 否応なしに潤いを取り戻す万物。

 蘇りに期待を膨らませる田畑。

 空が割れるほどの、歓喜が炸裂した。

「雨だ!」「雨が降ったぞ!」「雨だ!」「雨だ!」「雨だ!」「雨が降った!」「雨だ!」

 家から飛び出て、跳ね回る村人たち。灰色の天地に両手を上げて、皆踊り出す。その顔にはどれも、笑顔がある。どこからともなく歌が始まると、それは欠伸のように伝染して、たちまち村一杯が歌になった。


雨 ふれ 恵みの 雨 よ ふれ

雨 ふれ 田畑に 雨 よ ふれ

水神様の 婚礼に 母なる地より 雨が降る

雨 ふれ 恵みの 雨 よ ふれ


 踊り狂う村人の中に、あの老婆や初老の女、化粧や髪結いをしてきた三人の女や、輿みこしを担いでいた男たちの姿がある。彼らは周囲の村人たちに称えられているように見えた。

「いやあ首尾よくいったよかった」

「妙なものが現れどうなるかと思ったが」

「やはり水神様はご健在なのだ」

「よかったよかった」

「雨が降って、よかった」

 村人たちにみちの姿は見えていないらしく、誰も彼女に目をくれない。

「これでとりあえずはなんとかなる」

「川にも水が戻る」

「もう誰も死なんで済む」

「わたしが、死んだよ」

 声は、当然のように届かない。

「ねえ、わたしは、死んだよ」

「今日は宴じゃ」

「目出度い雨だ」

「よかった、よかった」

 村人たちは、それぞれに笑顔を咲かせ、安堵に泣いていた。


「わたしは、死んだ!」


「あなたは、ただの死人ではない」

 不意に背中に触った声に振り返ると、一人の青年が佇んでいた。

「やっと、見つけた……」


 目を閉じた青年は、音も無く涙を流す。

 みちは彼を凝視した。

 それは、夢で見たあの男だったのだ。


 足まで覆う長い衣を纏った男は、一見して普通の人間でないと分かる。肌の色は、死人のように白かった。


「あなたを、ずっと、探していた」

「……誰」

 黒い青年は、悲しみのような喜びのような表情を浮かべるばかりで答えようとはしない。


「わたし、ただの死人でないって、何」

 青年が、目蓋を開く。その瞳に、夢で感じた恐怖がよみがえる。

「やっと、会えた……」

 青年は、静かに娘を抱きしめた。


 青年の胸に、ずぶずぶと身が沈んでいく。みちは悲鳴を上げたかったが、喉は金縛りにあった時のように不自由だった。

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