第2話 花嫁

「水神様のお妃様」


 下からの声に、びくりと身を震わせる。見れば、胸のあたりまでの身長の老婆が、丸まった背中から皺だらけの顔を突き出していた。

「婚礼の準備に上がりました」

 老婆は筋張った手で、娘の手首を掴んだ。その老体からは想像もつかないほど、強い力だった。


 娘は家の外で、三人の女に着物を剥ぎ取られ身体からだを洗われる。何日も水浴びをしていない肌から、汗や垢がげ落ちる。ぐちゃぐちゃに絡まった長い髪を、女たちは懸命に解いて洗う。娘は髪を引っ張られる度に顔をしかめた。

「よう洗いや」

 老婆は厳しい顔で監督している。日陰から、白目をぎょろりと光らせていた。


 娘が身体を清めるあいだ、部屋は掃除が行われていた。破れた屋根は応急的に塞がれ、埃や砂で白っぽけていた部屋は元の黒さを取り戻している。


 すっかり綺麗になった娘は、白い襦袢を着せられ家に上げられた。己の顔を見せまいとするようにうつむき、居心地悪そうに背を丸めている。

 そんな娘に構わず、先ほどまで彼女を洗っていた女たちは、娘の髪を乾かしながら着物を着せ始めた。


 ぎゅっと帯を結ばれる。娘は暑さときつい締めつけに、気分が悪くなる。

 はやく、夜にならないだろうか。突如降ってきた謎の苦痛に茫然としながら、娘は思った。

 孤独に住まう彼女にとって、唯一の話し相手が月だった。肥えた月が夜をわたる何夜かの間、一月の内にあったことを話す。といっても代わり映えのない毎日なので、暑くなったとか寒くなったとか、季節の変化の話ばかりだった。それでも月は笑って聞いてくれている気がした。時には夢のような嘘の話を語りもする。思い人と秘密の逢瀬を果たした話。桜の花が咲き誇る里に行ったという話。冷たい川を自在に泳ぎ回ったという話。


 今晩こそは、現実に起こったことを、話すことができる。嘘の話を作るのも楽しかったが、本当に起こっていない虚しさに、目覚めてから泣いてしまうことがある。話題になると思えば、耐え抜くことができそうだった。

 今宵はちょうど、満月だ。十全の姿をした月が、娘は一番好きだった。全てを受け入れてくれるような慈愛に満ちている。

「もっと腕を上げて」

 腰の辺りから見上げてくる女のしかめ面が目に飛び込む。夢の景色から現へ戻り「ごめんなさい」と目を逸らした。


 月への甘美な想念を断ち切られた彼女は、されるがままに徹する。着替えはいつしか終わり、椅子に座らされ白粉をはたかれる。女くさいにおいにむせると、化粧をする女に再びしかめ面を向けられ「ごめんなさい」と俯く。

「顔上げて」

 と顎を上げられる。否が応でも接近した人の顔が目に入り、娘は緊張に肩を強張らせる。これほどの間他人と共にいるのは、何年ぶりだろう。記憶を辿るが、この粗末な山小屋での生活の他は、靄がかかってしまったように思い出せない。


 自分は産まれてからずっと、ここで孤独に暮らしていたわけではない。そのことは覚えているのに、具体的な思い出を掘り起こそうとすると、何かがそれを阻むのだ。娘はしばらく考えたが、やがて諦めた。


 化粧が終わると、まだ生乾きの髪が結われ始める。髪を引っ張られる度に、鈍い振動が痛む頭の奥まで響く。気分の悪さも相まって、何も食べていないのに吐き気が上ってくる。

 じっと耐えていると、髪が結いあがる。頭の上に何かを被せられた。視界の上部を隠し、汗をかく身体の熱気を覆う。


 できあがった娘の衣装姿を眺めまわし、老婆は満足気に頷く。

「それでは、婚礼の儀を始めよう」

 娘の身なりを整えた女たちは、そそくさと家を後にする。気づけば太陽はとっくに頂きを過ぎていた。雑草がきれいに除かれた窓に西日がさしこむ。娘の真っ白い花嫁衣装は、金の色に濡れていた。


 ゆったりと、初老の女が入ってきて、観音扉を開ける。その奥の社の扉も開けた。くすんでいた鏡は光を宿し、娘の部屋同様、社は本来の輝きを取り戻していた。

 老婆は社の前にひざまずく。初老の女が、娘の肩を柔らかに抱いて、老婆の後ろに座らせる。そのまま彼女は娘のかたわらに座った。


 老婆は何やらもごもごと唱えている。言葉が古く、娘には聞き取れない。神に捧げる言葉なのだろうが、地の底を這うようなその声は、少しもありがたさをかもさない。娘は早く終わらないだろうかと指を固く結んでいた。そうしていないと、気分の悪さに今にも倒れてしまいそうだった。


 老婆が唱え終えたころには、黄昏が訪れていた。

 娘はそれで、ようやく解放されると思った。しかし初老の女が再び肩を抱き、家の外に控えた輿みこしまで誘われる。担ぎ手の一人が娘を抱え、輿みこしに乗せた。残りの三人が手早く、縄で娘を輿みこしに縛りつける。

 なぜこんなことをするのだろう。


 ――水神様のお妃様


 老婆の声を今さら反芻する。


 ――婚礼の準備にあがりました


 ざわざわ、血流が潮騒のように騒ぎ始める。記憶に被せられた蓋が、じりじりとかゆむ。

 輿みこしが担ぎ上げられる。どん、どん、どん、と男たちの歩みに伴い、輿みこしは不安定に揺れる。その前には、あの初老の女がいる。向かう先は池だった。


 過去を思い出そうとする手を、阻むもの。それは今から起ころうとしていること。


「水神様」


 池のほとりに至り、初老の女がよく通る声でのたまう。


「ただいまより、お妃をお宮にお連れいたします。お二人の力で、どうか我らの村に雨を降らせてくださいませ」


 いつか村人のために死ぬ。そういう約束の下に、この場所で飼われていたのだ。


 ゾッ、と腹の底から絶命の恐怖が駆け上がってくる。娘は喉の奥から声をほとばしらせ、身をよじって逃れようとした。

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