そしてまた月は満ちる

春日野 霞

第1章 旱魃

第1話 日照り

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒ…… パン パン ホ

タン ゴタン ゴ

カタコ ヒタン タン

タ……ン

こるう     ヒー

パン パン ホ

こるう ヒー パンパン ホ


 薄暗い山の、粗末な小屋の中。

 娘は布を織って暮らしていた。

 蝉の鳴き止んだ午後、しなやかな指が布の上を舞う。


こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう どんどんどんどんどん ヒ………………………………………………………………


 娘は機織 はたおりの手を止めた。

 どんどんどんどん

 静かに高鳴る心臓をおさえ、おもむろに席を立った。

 戸に口を近づけ、小さな声で尋ねる。

「どなた」

 返事はない。

 聞き違いだったのだろうか。娘は機織 はたおりに戻り、を手に取った。


こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう どんどんどんどん


 娘は再び手を止め、夜闇を集めたような色の瞳を戸に注ぐ。


 ドん、どんどんどん


 嫌な汗が、首の付け根に滲んだ。ぎゃ、と遠くで蝉の断末魔が爆ぜる。娘は息を殺して戸を見つめた。こめかみに発した汗が、頬を伝って顎から落ち、膝の上に握り締めた拳に光る。


 しかし、待てども戸が再びおとなわれることはない。それでも安心できない娘は、布を裁つはさみを手に取り、そ、と戸の隙間を開ける。


 幽鬼のような男が、ぼおっと佇んでいた。


 娘ははさみを握り締め、片方の手でしんばり棒を戸にかけた。そ、っと後ろ向きに三和土から上がり、何歩か後退る。戸がガッタンガッタンと鳴る。しんばり棒が、強い力で開けられようとするそれを耐えている。恐怖がかかとから脳天へと駆け抜け、心臓が早鐘を打つ。どぉん!どぉん!戸が乱暴に叩かれる。娘の頭は真っ白でどうしてよいのか分からず、身を固くし戸を凝視する他できることがなかった。


 急に、扉を叩く音が止まる。

 代わりに、音もなく扉が開いた。

 娘は、眩しさに目を細める。黒衣をまとった男が、すい、とこちらを見上げた。夏の殺人的な日差しを背中に、双眸そうぼうは真夜中の闇をたたえている。顔には一切の表情がなく、汗ひとつかいていなかった。


「私を、死なせてくれ」


 土足で家に上がり込こみ、音も無く近付いてくる。娘はそれをただ見ている。黒衣の下から、両手をだらりと向けてくるその動作も。


「いい加減、私に、死を与えてくれ」


 泥沼のような瞳と目があった瞬間、目の前は真っ黒に塗り潰された。

 息ができずに、娘はもがいた。しかしそれもむなしく、ゆっくりと落ちていく感覚。死はこうして、突然訪れるものなのか。失意の中、絶息の苦しみがするすると抜け始める。それと同時に、自らの体内に蓄積されたおりのようなものも解き放たれていった。皮膚と肉に閉ざされた身体の内部までもが、白く透明になる心地に娘は微笑む。

 こんなにも清らかな気持ちになるのなら、死も悪くない。そう思った時、娘の細い背中が床に触れる。


 彼女は、ハッと目を開けた。

「夢……」

 娘は破れた屋根から降り注ぐ日光の下、重たい身体を起こす。

「夢を見た……」

 寝ている間、太陽にさらされていた頬が痛い。反対側の冷たい頬は、腐った床のあとをぼこぼこと写し取っていた。


 顔や首を流れる汗を拭う。どろどろと歩いて水瓶の蓋を開けた。

 映った自分の顔と目が合う。いかにも悪夢を見たというような顔をしていた。柄杓ひしゃくでそっと、顔を歪める。冷たい水が喉を下り終えると、代わりに温かな息が喉からもれた。二杯目を飲んで、日照りが続いているのを思い出し、蓋を閉める。


 娘は緩慢な動作で、三和土に寝かせたたらいを手に取り戸を開ける。蝉の騒ぐ山の中は、木々が濃い影を落として薄暗く、時折涼しい風が吹く。むしろ、破れた屋根から太陽の差す家の方が暑いくらいだった。木漏れ日と影のまだらを踏んで、すぐそばにある池のほとりにしゃがむ。日光にきらめく池に、娘は長い睫毛に縁どられた目を細めた。


 水位の低くなった池に細い腕を伸ばし、たらいに水を汲む。着物の袖が落ちて濡れているのにも構わず、日陰にたらいをおいて娘は顔を洗う。何度も何度も顔をこすると、残った水をその場に流す。娘の白い足の間を、水が川のように流れた。

 繕いの目立つ、ほとんど小屋のような家を彼女は眺めた。屋根にはぺんぺん草が生え、家の周りには雑草が生い茂っている。雑草は窓の高さにまで達し、家の中を覗くように頭を揺らしていた。


 娘はたらいを再び三和土において、汚れた足もかまわず家に上がる。そして思い出したかのように、入り口のちょうど向かい側にある観音扉を開けた。

 階段を三段上ったそこに、小さな社がある。格子戸の留め金が壊れて、だらしなく半開きになっていた。闇のこごる神棚に祀られた鏡はくすみ、蜘蛛の巣さえ張っている。

 娘は薄汚れた社に膝をついて頭を下げ、一つ手を叩いた。口の前で合わせた手に囁くように、もごもごと言う。

「昨日は月がきれいでずっと見上げていたら長話になってしまってそのまま寝てたらいやな夢になっていました。今日は頭がいたくてつらいです」

 娘は立ち上がって叩頭し、小さな階を上って半開きの戸を閉める。ピタリとしまらず再び開こうとするのから目を背けるように、観音扉をバタンと閉めた。部屋を振り返ると、あけ放たれた入り口からここまで、真っ黒な道が出来ていた。ピト、ピト、という音に下を見てやっと、濡れた袖と汚れた足に気が付く。

 掃除をせねばと俯くが、戸の向こうに聞き慣れぬ音を聞き顔を上げた。


 人がくる。


 彼女の小屋には一日に一度だけ、飯と水を持ってくる女がいる。それは二人だ。しかし今登ってきているのはもっとたくさんの人だ。金属のたてる、涼やかな音も混ざっている。

 娘は慌てて戸を閉めて、機を織り始めた。彼女は小高い山の頂近くで布を織り、村人たちから食事をもらっていた。

 最近は、暑さのせいで身体がえ、布の上がりが遅い。昨日も山を上がってきた女の二人に、無言で睨まれたばかりだった。

 娘の胸が高鳴る。大勢の人間は、自分を叱りに来たのだろうか。


こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう ヒー パンパン ホ

こるう どんどんどんどんどん ヒ………………………………………………………………


 遂に、人々が戸の前に達する。

 娘は機織 はたおりの手を止めた。


 どんどんどんどん


 静かに高鳴る心臓をおさえ、戸を開けた。

 大仰な輿 みこしを担いだ四人の男を先頭にずらりと、十幾人の人が並んでいる。いずれも白い服に身を固め、白い鉢巻を巻いていた。その表情は揃えたように沈鬱だった。

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