第35話 金属片


 恐ろしほどクリアな声が直接脳に響き、カワズは両目を見開き、声の出どころを追っていた。いつかと同じように低い位置から広がった声は、扉の下あたりから漏れ出るように聞こえていた。

 止めていた声を抑えられず、「ビャー!!」と女子のような悲鳴を上げ、二歩、三歩と後退る。再び現れた女は、数分前と同じように扉の一番下部分から真っ直ぐに、彼の姿を捕捉したように見つめていた。


 捕食者と、被食者。

 自然界を生き抜くため、必死に擬態している虫たちを、まるで嘲笑うかのように見つけ出し、捕食する者。

 クチバシで捕らえた羽虫を音もなく飲み込む様は、慈悲の欠片もなく、冷酷無残なこの世の理を示すようでもある。見つけられ、逃げ場を失った羽虫の最期はどうなるか。その答えは、火を見るより明らかである――


 女の手元から伸びた鞭が、ヘビに擬態したかのように這い回り、襲いかかった。「もうヤダー!」と涙目で後方宙返りしたカワズは、間一髪攻撃を躱して壁に張り付いた。


「みぃつけた、みぃつけた、やっとのやっと、みぃつけた。可愛いなぁ、、本当に可愛いねぇ。大丈夫だからねぇ、私の可愛い可愛い実験体にしてあげるからねぇ」


 鞭を引き付け、かかとを鳴らして近付く女は、自らのことをエイヴと名乗り、ハァハァ荒い呼吸を繰り返しながら嫌らしく自己紹介した。そんなの聞いてないからと、『しゃっくり&大号泣』状態に陥ったカワズは、この狭い空間から如何にして逃げるかを考えるしかなかった。


「しかし厄介だよねぇ。武器エモノにすら当たった感触がないんだけど。本当にどうなってんの、キミのカラダ?」


 生き物のように動き回るエイヴの鞭は、対象を見据えたようにうねうねと迫った。しかしどこか違和感のあるその動きに、カワズが気付かぬはずがない。


「う、う、うむ、うむむ、これはもしかして……?」


 腰に手を当て、掴んだ取手を引き寄せる。途端に伸びた竿先が壁に跳ね、空気を叩く。

 鞭の先が反応し、一瞬カワズから方向が逸れた。

 一連の動きを頬を膨らませて凝視していたカワズは、顔を伏せ、上目遣いに敵の姿を見定めた。


「もうキミに逃げ場なんてないんだからさぁ。そこでジッとしていてほしいなぁ。私の可愛い可愛い玩具ちゃん♪」


 引き付けた鞭を激しく振るえば、穂先が音速を超えて襲いかかる。

 不規則に揺れる細く長い武器の動きを読むことは難しく、「ヒィィ」と悲鳴を上げながら逃げ惑うことしか方法はないものの、カワズは一つの可能性を探るため、竿先から伸ばした重りにほんの僅かな魔力を込め、指先だけを使ってリリースした。


 重りが天井と壁を跳ね、何かのサマを擬態する。

 その何かに反応し、エイヴの視線が外れ、部屋の四隅へと振れる。


 擬態を諦めた被食者が取るべき次の動き。

 それは必死に逃げ回り、一矢報いること。これしかない。

 そんな動きもできるのかいと、僅かに漏れ出る魔力を追った彼女の視線が激しく揺れる。狭い空間を巧みに利用し、四方八方逃げ回る意外な抵抗に、思わず彼女の頬は緩んでしまう。


「凄いよぉ。完璧な擬態だけじゃなく、それを補って余りあるまであるなんて。キミはどこの諜報員なんだい。ぜぇんぶ教えてもらうよぉ、捕まえた後、ゆっくりと時間をかけて♪」


 どれだけ抵抗したところで、この部屋の出口を背負った状況でカワズに逆転の目はない。狙いは彼女自身に一撃を与えた直後の逃亡と予測し、エイヴは四方から迫りくる魔力の流れを予想し、いよいよ己を狙ったを鞭の先ではたき落とした。


「ムダムダ、ムダだよ。そんな小細工で、私からは逃げられな――」


 エイヴが視線の端で捉えた何かを見つめた。

 初めて " 視覚 " で捉えたその物体は、ころころと床を転がり、ゆっくりと動きを止めた。



「……金、ぞく、片?」



 思考を巡らせたその一瞬、彼女の動きが完全に静止した。

 すぐに我に返り、そこにいるはずの人物を追ったエイヴだが、これまで微かに感じていた残渣はトンと消え失せ、既に影も形も残ってはいなかった。


「う……そ。逃げられた? この私が? ……ふふ、くくっ、これが草食動物の悪足掻きってやつですか、面白いねぇ」


 一瞬の隙をついて逃げ出したねと、ただ一つの逃げ道を振り返りながら呟いた。先に扉を閉めておけばあるいは、と頭を掻きながら詰めの甘さを後悔したエイヴは、上官への言い訳を口にしながらアジトを出ていった。


 その頃カワズはというと、アジトを抜け出し、そのまま街中へ逃亡。

 命からがら逃げきっ ―― てはいなかった。


 なぜなら彼は、未だアジト、さらにいえば先程の部屋に隠れていた。

 ジトォっと湿った背中と脇の下を乾かすようにパタパタ衣服を前後させ、どうにか乗り切ったピンチに大きく息を吐いて安堵する。




「ずっと返事がないし、きっともうダメね。多分アイツ死んでるわよ」


『勝手に殺すなし。死んでないし、ピンピンしてるし!』


 魔道具を耳に付け直して勝手なことを口走るリリーに悪態ついたカワズは、衛兵に襲われたことを皆に報告した。

 襲ってきた女の特徴と行動、そして言動から、その人物が衛兵の中でもごく限られた作業をするための特殊諜報員であることを伝えたアメリアは、いとも平然と「よく無事でしたね」と、軽く、かる~く言った。


『さらっと言わないでよ! アタイ、普通に捕まりかけたんだからね!?』


「捕まってないのですから良いではありませんか。それで、なにか手がかりになりそうな情報はございましたか?」


 絶体絶命のピンチをポーイと何処かへ投げ捨てたアメリアの非情さにドン引きし、カワズは「アンタ鬼だよ」と体育座りしながら呟く。しかし鬼は躊躇などなく「ヒッヒッヒ」と笑いながら、さっさと立ちなさいと命じた。


「ちょっと待ちなよ。カワズと言ったかい、アンタ本当に無事なのかい!?」


 しかしアメリアの平然さとは対照的に、酷く慌てていたのは意外な人物だった。半べそかきかきではあるものの、何事もなく平穏と無事を報告したカワズの様子に驚愕していたのは、ほかでもないハーグマンその人だった。

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