第20話 異質な者との遭遇

 ユリウスは軽くため息を吐いた。賑やかな周囲の音が、遠くに聞こえるような錯覚に陥る。

(私は、こんなことをしていていいのだろうか)

 ——お前は、王としての責務を全うできなかった厄介者だ。

 頭の中で、もう一人の自分がそう答える。

(建国記念が控えている。国民の前で演説をしなければならないというのに。私はここにいる。しかもタヌキになってしまった。こんな姿で、皆の前に出られるわけもない)

 ——そうだ。お前は獣だ……!

 ユリウスは、弾かれたように顔を上げた。獣のにおいがした。人間しかいないはずのこの場所で。とても強烈な血の匂いと、獣の匂いが混ざり合っていた。

(どこ? どこからだ?)

 酒を酌み交わす者。楽器を奏でる者。手と手を取り合い踊る者……。

(誰も気がつかないのか? こんなにひどい匂いだというのに)

 ユリウスは思わずマントで鼻から口のあたりを抑え込んだ。獣人の特性を獲得したユリウスにしか感じられない匂い。どうやらこの中に異質な者が紛れ込んでいるようだ。

 ユリウスは素早く周囲に視線を巡らせた。匂いを発する存在を見つけようと思ったのだ。するとふと、自分と同じように、頭のてっぺんからフードをかぶっている人物を見つけた。

(いた!)

 ユリウスは思わず身を乗り出して、その人物の腕を捕まえた。相手は驚いたように振り返る。目深にかぶったフードの下から、黄金色の光る双眸が、ユリウスを見下ろしていた。

 彼は異常に発達した犬歯を露わにしたかと思うと、ユリウスの腕を力いっぱい掴み返す。しかしその瞬間。その黄金色の瞳は、苦痛に細められた。

「怪我をしているではないか」

 ユリウスの腕を掴むその手からは血が滴っていた。ユリウスは、男のからだを抱えるように「こっちだ」と言って、先ほど、自分が座っていた場所へと戻る。

「離せ」

 男はぶっきらぼうにそう言った。しかしユリウスはそれを許さない。

「強がるな。怪我をしているではないか。血の匂いがするぞ。このままでは、見つかるのも時間の問題だ」

「見つかる……? 誰に」

「お前なのだろう? 服屋の店主を襲ったのは」

 男は、はっと目を見開くと、フードを引き寄せる。けれど、そんなことはお構いなしだ。噴水のところに戻り、マントの合間から見える褐色の腕を捕まえると、それを引っ張り出した。男は苦痛の呻き声をあげた。

「この傷は?」

 血の流れをさかのぼってみていくと、どうやら右肩の後ろに太刀傷が見える。つい最近の傷ではないらしいが、かなり深い傷だった。放っておいて治るような傷ではない。治療が必要だ、と思った。

「お前に話す理由はない」

「そうか。答えたくないなら、それでよい」

 ユリウスは自分のマントの裾を引きちぎると、噴水の水に浸す。それから、その布で、獣人の腕や肩の血を拭った。彼はその間、じっとそこにいた。

「なぜ、おれを助ける」

「助けるというか。放っておけないというか。獣人は見つかれば捕まる。しかも、お前が店主を襲ったというのであれば、保護されるどころか、即処刑されるぞ。そんなことになってはいけないと思ってな」

 ユリウスは処置をしながら、男が抱えていた物に視線をちらちらとやった。そこには、数枚の子供用衣類があった。ユリウスは布を何度も噴水の水で洗い、傷口周囲をぬぐった。それからふと、手を止めてから、フードの下で、不安気に揺れている黄金色の双眸を覗き込んだ。

「お前。怯えているのか」

「なにを……」

「なにか事情があるのだろう。悪い奴の目には見えない。お前は怯えている。なにかに駆り立てられているように見えるぞ」

 血を拭い去った後、ユリウスはさらにマントの裾を破くと、それで傷口を縛り上げた。獣人が再び苦痛の声を上げた。

「我慢しろ。男だろう。止血の意味もある。家に帰ったら、毎日一回は布を交換しろ。傷口は覆っておかないと、悪いものが入ると教えられた」

「くそ」

 獣人は顔をしかめたが、すぐに軽く息を吐いた。それから、ふと、ユリウスの細い首に腕を伸ばしたかと思うと、そっとからだを引き寄せた。二人の距離が近づく。獣人はユリウスの首筋に鼻先を近づけた。

「お前からも獣のにおいがする。お前も獣人か」

「そうだ。私も獣人だ」

「ではなぜ、ここにいる。お前も人間たちに見つかれば捕まる。おれと一緒にこい。森に獣人の集落がある」

「森に?」

 彼は顔を話すと、ユリウスを見下ろした。

「そうだ。おれたちは、人間から逃れて身を寄せ合って暮らしている。森の中だ」

「……人間を襲っているのはお前たちか」

「襲っているのではない。守っている。おれたちの住処を暴こうとしている。ずっと静かに暮らしてきたというのに。ここのところ、森が騒がしい。人間たちが近くまで姿を見せるようになった。おれは、みんなを守る」

(そうか。それで……)

 ユリウスは首を横に振った。

「違う。暴こうとしているのではない。人間たちは、お前たちが森に住まうことを知らない」

「嘘だ。人間たちは、おれたちを捕まえる。おれたちに自由はない」

 ユリウスは「そんなことはない」と言えない自分に気がついた。

(そうだ。獣人たちは保護される。保護され、繁殖の研究に用いられるのだ。それは保護とは言わない。獣人たちからしたら、歓迎されるべきものではないということ)

 ユリウスの心に迷いが生じた。その隙に乗じてなのか、獣人の腕が伸びてきたかと思うと、ユリウスはあっという間に抱き上げられてしまった。

「は、離せ。私は……」

「人間の中にいては危険だ。おれと一緒に来い。お前はここにいてはいけない」

(そうだ。私は。獣人になったのだ。人間の中にいる理由があるのか?)

 自分を見つめる黄金色の双眸を見ていると、吸い込まれてしまいそうだ。自分の居場所はここではないのかもしれない、という思いに駆られた。

 けれど。思い出されるのはフェンリルの顔。どうしてなのだろうか。自分は。ここにいる理由もないはずなのに。ここにいなければならないような気がしてしまう。

 獣人は、人間の世界ではまともに生きることはできない。なのに。

(フェンリルの顔がちらついて……)

「ポコタ」

 どこからかフェンリルが自分を呼ぶ声がした。はっとして顔を上げると、獣人が「お前の仲間か」と言った。

「そうだ。彼は私を保護してくれている」

「人間は嘘をつく。そして裏切る。お前も飽きたら殺される」

「そんなこと。フェンリルはしない」

「なぜ、そう言える?」

「なぜって……」

(そうだ。なぜそう言える? フェンリルとはここ数日の付き合いだ。彼のことを私はなにも知らぬというのに。なぜ、私は。彼を信頼するのだ……)

 混乱していた。

「ポコタ? どこだ。返事をしろ。ポコタ」

 フェンリルの声がひときわ大きくなった。ユリウスは獣人のからだを押した。

「お前が捕まるぞ。フェンリルは騎士団の長だ」

「長……。この肩の傷をつけた男」

「え……?」

(じゃあ、フェンリルたちが追っているのはこの男)

 ユリウスは彼の腕から飛び降りると、その背中を押した。

「去れ。捕まる」

「しかし」

「お前は自分のなすべきことがあるのだろう? だったら、今は去れ」

 黄金色の瞳はユリウスをまっすぐに見ていた。それから「わかった」と頷いた。

「迎えにいく。お前は人間の世界では生きられない」

「いいから。さっさと去れ」

 ユリウスの声に、獣人は衣類を抱え込むと、人込みに紛れて消えた。その瞬間。背後から伸びてきたフェンリルの大きな手が、ユリウスの肩をつかんだ。

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