ケルビン173

「ねぇ、あなた」

 

夕食後、書斎で読書をしていると麻知がコーヒーを差し出して話しかけてきた。いつもは静かにカップを置くと部屋を出ていくのだが今日は何か聞きたいことがありそうだった。私は開いているページにしおりを挟み、麻知に目を向ける。

 

「今日のお弁当箱、箸がきれいなままなんだけどなんでかな?」

 

私は顔には出さなかったがしまった、と思った。新しく2課に配属された水萌晴絵が私に弁当を作ってくれるようになってから一週間ほどが経つ。丁重にもう作らなくてもいいと断ろうとしているのだが、押し切られる形で彼女のお弁当をいただいている。麻知に水萌さんが作ってくれるから要らないなど言えるはずもなくズルズルと引き続けてしまっている...麻知のお弁当は野口に頼んで食べて貰っている。私の不始末だ、同僚とはいえ野口がよそのお弁当を食べる義理などないはずだが、「いいってことよ」と快諾してくれる。私はいい同僚を持った..もし野口に何かあれば必ずやいざ鎌倉とする覚悟である。

 それはさておき、私はしばらく野口と昼食を共にすることはなく水萌さんと取っており、午後の業務が始まる前に野口が弁当箱を返してくれる。なので私はひとつも中身を見ていない..どうも野口は食堂の箸を使っているようだ。

 

「箸を床に落としてしまって、食堂の箸を使ったんだ。」

 

自分ながら上手い言い訳である。なんとかやり過ごしたかと思えば、麻知から第二波がやってくる。

 

「そう.....あと、あなたエビフライのしっぽっていつも残してるのに今日はなかったんだけど」

 

私はいつもしっぽを残す派だ。身でもないところを食べるというのはおにぎりをフィルム包装のまま食べるくらい愚かなことだと思っている。鮭の皮も然りだ。しかし、野口も確か残していた気がする。天ぷらそばを食べていた際、「しっぽが邪魔でつゆが飲みにくいなぁ」と愚痴をこぼしていた。きっと、ゴミ箱か何かで捨てたのだろう。

 しかし、私はいつもエビフライが入っているときはしっぽは弁当箱にいれたままにしている。どう言い逃れればよいだろうか...しばらく沈黙が続く。麻知はそれに耐えられなかったのか、口を開いた。

 

「....ふっ..ごめんなさい、困惑したよね。だって

 

 

 

 

 

 

 

 

 

エビフライなんて入ってなかったんだから。ちゃんと食べたのかなぁって試そうとしたんだ...疑ったりしてごめんなさい。」

 

「あ、いや入ってたかなぁと思ったけどやっぱりか。いやぁ冷や冷やしたよ..」

 

つい本音が出てしまい感づかれたかと、ハッとして麻知を見ると「えへへ。おやすみなさい」とドアを閉める。安堵からか体じゅうの力が抜ける。それにしてももし、エビフライの件で下手に答えていたら何をされたか...麻知との問答はそうした誘導尋問じみたものがあるから怖い。しかし、これからは箸のことにしろエビフライや鮭の皮などのことも考慮しなければいけない...なんでたかが妻のことでこんなサスペンス小説のような巧妙な工作をしなければならないのか..私がもう少し強くものを言えれば済む話なのだが...自分の非力を恨むばかりだ。

 

バタンッ

 

「.....うそつき」

 

**************

 

甲辰商事。日本の政財界において影響を与えてきた大企業である。カップ麺からロケットまでいわれるように多角的な事業展開をしており、山城や野口が課長をしている部署は繊維部に属する。総合商社の中で言えば末端の管理職にしかない山城滉一の妻・麻知が甲辰商事の社長室-経団連の幹部もしている財界の大御所の前にいた。

 

「こ、これは山城様、今回どのようなご用件で..」

 

「たいそうなものではありませんわ。岡社長。....この度の人事に関して少し『適材』ではないように思いまして。」

大物相手に麻知は物怖じせず話を持ち掛ける。と、いうよりも岡の方が麻知に謙っている。普段の主婦の格好ではなく、黒のスーツに身を包みヴィトンのポーチを太ももに添えている。

 

「その、こちらとしましても役員を一新して業績回復、ひいては株主の皆様に納得いただける成果を出すために当社一同懸命に考えた末での人事でありますので...何卒..何卒暖かい目で見守っていただきたく存じます」

 

「私の忠告が聞けないんですね..岡社長、私はあなたを常務から応援をしていましたが間違いだったのかも知れませんね..やはりあなたより塩葉副社長の方が社長の器だったのかも...」

 

「山城様...そ、そのようなことは...山城様のためにもこの岡広次この身を割いてでもご希望に沿うよう『心づけ』致しますので...どうか..どうか..」

 

財界の重鎮が一社員の妻に頭を下げるというイレギュラーな事態が甲辰商事社長室で起きていた。秘書もその場にいた重役も静かに社長が頭を下げる姿を見る他なかった。

 

「分かりましたわ。今日のところはここで..今日は主人が忘れものをしてしまいまして持ってきただけなのですが。お忙しい岡社長にお会い出来よかったです。では。」

 

麻知はお弁当の入った巾着袋を見せ、社長室を去った。

 

「山南、人事部長を呼べ。」

 

「はっ、しかし山城様がわざわざ来られるとは珍しいですね」

 

「どうも山城が課長をしている繊維2課の人事にご立腹のようだが...」

 

「確か…」

 

「なんだ?」

 

「繊維2課に女性社員が所属された気が…」

 

「なんてことを…」

 

甲辰商事の株主に麻知が君臨してから山城のいる部署に女性社員を配置してはいけないという暗黙の了解があったのだがそれを破る行為に麻知は抗議に出たという訳である。

 

「人事部長は塩葉専務の…これはもしかすると塩葉専務による..」

 

「山南、滅多なことをいうものではない。しかし、仮にそうだとすれば..塩葉専務も山城麻知に取り入ろうとしているのか..やはり人事部長を呼ぶのはやめにしよう。山南、秘密裏に今回の人事について調べ上げてくれ。」

 

「はっ」

秘書の山南は社長室を去った。

 

**************

 

午前業務終了のチャイムがなる。山城はにとっては昼休みが憂鬱であった。

 

「課長、今日もお弁当作ってきましたっ!」

 

「ありがとう」

 

水萌は2人分の弁当箱を持ち、山城の机にやってきた。山城は「少し待って」といい、麻知の弁当箱を開け、中身を確認する。何が入っていたかを聞かれても対応できるように…今日はハンバーグや唐揚げなどとても美味しそうなおかずが多かった。水萌の弁当は美味しいが、サンドウィッチで野菜が中心なので男としては物寂しさを感じる。今日もサンドウィッチだろう。朝や夜に食べているはずなのに麻知の弁当が恋しい…

 

「どうしたんですか?…私のお弁当より、奥さんのお弁当の方がいいんですか?そんな事…ないですよね。だって私の手料理美味しいって食べてくれてますし…」

 

麻知の弁当を開けていると水萌さんが今にも泣きそうな顔でそんな事を聞いていた。私は言葉が詰まった。麻知の料理は好きだ。高校時代からほとんど休まずに作ってくれて、かつ飽きない美味しさである。しかし、水萌さんの料理も美味しい。そもそもの発端は私を見かねてお弁当を作ってくれた事から始まったのだ。

 

そんな質問答えられるはずがない。

 

「………っ」

 

『勿論、私だよね…あなた?』

 

遠くから声がする。前を見ると…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこには麻知がいた。

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