ケルビン275
甲辰商事専務室。日本屈指の大企業の十本の指に入る役職である。そのポストに就く塩葉勤は自らの派閥の北見人事部長を呼びつけていた。
「北見くん、今回はよくやってくれた。」
塩葉は椅子に座りながら、北見を労う。
「ありがとうございます塩葉専務。しかしながらお聞きしたいことがありまして」
「なんだね」
「今度の人事ですが、岡派の勢力をそぎ落とすことも私の役職柄出来たようにも思ったのですが、その...なんと言いますか課長級の人事はこれまでと変わりないように思うのですが...特に繊維部。あそこは岡社長の出身畑ですが、なぜ2課に女性社員を入れる指示だけだったのかと」
北見は塩葉の指示に疑問を感じ、探り探り言葉を選んで質問した。
「繊維2課の課長は誰か知っているかね。北見くん」
「確か...山城...あっ」
「そうだ。派閥という内だけを見ていてもいけない。マクロな目線で会社のために適材を置くのが君の仕事だ。違うかね?」
「はっ、不勉強でした。肝に銘じておきます。」
「うむ。まぁ私が『然るべき』職に就いた時には君を財務部長にすることを考えておこう。」
「ありがとうございます...それでは失礼します。」
バタンッ
「専務...」
北見が部屋を出ると、秘書が詰め寄った。財務部長は冷静に人選をしなければならないポストだからだ。しかし、塩葉は
「何、嘘はついてない。考えておくと言ったまでだ。財務畑は出世への近道だからな...普通であれば」
と言ってのけた。
「岡社長は繊維部からの大抜擢ですからね。やはり北方先生と関係が..」
「だが、分からない。それならばなぜ山城を繊維部などにいれるだろうか」
甲辰商事にはエネルギー部門、鉄鋼部門、生活資源生産部門その他財務、総務、人事があるが役員幹部となる者は財務部に属するのが甲辰商事、日本の主な商社の常道である。それに比べ生活資源生産部門の食料部や繊維部、化学品生産部などは出世の見込みはとても低いそれどころか左遷先の一つでもある。最悪平社員のまま定年を迎えるという社員も少なくない。塩葉は財務次長、部長を経て常務、専務と出世街道を走っていたが株主総会にて社長人事に無名の繊維部長・岡が出てきた。そして議決の結果岡が社長に就任する。社長まで手が届いていた塩葉としては辛酸をなめるような思いであった。
「山城課長は岡社長の直属の部下でしたからね...山城麻知とも面識はあったのでしょう。」
「第四位株主、可児派の中堅北方先生の令嬢...敵には回したくないものだが..山城麻知に気づかれないように気を付けねば...」
**************
「勿論、私だよね...あなた?」
「麻知!なんで会社に」
「忘れ物を持ってきたの。箸がないのにどうやって食べるつもりだったの?それともまた食堂のお箸を使うのかな?」
麻知は戯けるように、ポーチから箸箱を取り出し山城に見せる。先ほどまでのスーツ姿から普段の外向けの服に着替えており、山城もまさか麻知が社長室にいたなど察せられる訳がなかった。
「課長、誰ですかこの人?」
「....え、ああ私の家内だ..」
「はじめまして。主人がお世話になってます。山城の妻の麻知です。」
麻知は水萌に背を向け、2課の他の社員に挨拶をした。部下達は話には聞いていた山城の妻に興味津々だった。その眼差しに応えるように笑顔を振舞っていたが、麻知の眼には水萌は捉えていなかった。
「はじめまして!私最近配属されました水萌晴絵といいますっよろしくお願いします!」
水萌は麻知の前に立ち挨拶をするが、麻知は見向きもせず山城の腕をとった。
「...あなた、食堂に行きましょう。野口さんにもご挨拶したいし..」
「ちょっと待ってください!課長は私と食べる約束が..」
「ほら、行きましょう。」
「麻知、水萌さんに挨拶ぐらいは...」
麻知は山城の腕を引きながら食堂へと足を進めた。しかし、場を壊したくない山城はフォローをするも、その願いは叶わなかった。
「嫌よ。常識がない小娘は嫌い。」
「麻知!」
「嫌なものは嫌...あなたはあの女の肩を持つの...?人の夫を誑かして一緒にお弁当なんて。」
「う....」
流石に山城も少し水萌の厚顔無恥さには辟易しており、麻知の言葉にぐうの音も出なかった。
「それではみなさんお騒がせしました。失礼します。」
「ああ、引っ張るな引っ張るな..麻知」
麻知は最後まで水萌を無視し、社員に挨拶をして山城とともに去った。水萌は麻知にまともに相手をされなかったことよりも山城との時間を奪われたことに怒りを感じていた。
「チッ会社まで出しゃばって...課長は私のなのに...許さない許さない許さない許さない許さない...」
水萌は恨めしそうな顔で爪を噛んだ。
**********
「お久しぶりです、野口さん。いつも主人がお世話になっております。」
「いや、こちらこそ家内がお世話になっているようで。」
2人は食堂で野口と合流した。野口は食堂のカレーを食べていた。
「ええ。いつも透ちゃん、野口さんにお弁当作ろうとして渡しそびれて私が食べる羽目になってるんですよ」
「透がお弁当ですか!たまに作ってくれることはあったけどそうかぁ明日から聞いてみるか。それにしてもすいませんね。食べて貰って」
「いえいえ、野口さんにも私のお弁当食べて貰っていたのでおあいこですよ。」
「麻知は何を言って..」
麻知の言葉に動揺を隠せなかった。麻知の言い振りは推測というよりも確信めいたように聞こえた。
「ふふっ気づかないと思ったの?あんな見え見えのウソ」
「ハハハ流石奥さんには嘘は通せないな」
「麻知、許してくれないと思うけどすまない。」
「大丈夫だよ。その代わり...」
「その代わり?」
「これからは毎日駅で待ってるから一緒に帰ろ?そしたら許してあげる」
「そんなことでいいなら..」
「おいおい、お二人とも会社でイチャイチャしないでくれよ」
「イチャイチャって..」
「周りを見ろよ」
周りを見回すと微笑ましいと見ている年上の先輩やそうではない痛い目線で見てくる人もいて注目されていた。山城はとても恥ずかしかったが、麻知は夫婦の仲を見せつけるチャンスと見て嬉しそうだった。山城たちは他愛もない話をして昼休みを過ごした。麻知のお弁当は一週間ぶりだからかいつも以上に美味しい気がした。
「それじゃあ帰るね。」
一階のロビーまでで良いと言い、麻知をそこまで送った。
「ここまでで大丈夫か?駅まで行くけど」
「ううん。お仕事の邪魔をしちゃいけないから。それじゃ、お仕事頑張ってね」
チュッ
「...」
麻知は頬にキスをして駅に向かって走っていった。
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