第39話 愛と役割


 ノエル・アザレアの葬儀が行われたのは雨の日だった。アクアの空が彼女の死を悼み泣いているようだった。

 教会には大勢の人々が訪れ、彼女に花を手向けた。誰もが彼女を尊敬し、感謝していた。そして、早すぎる別れを悲しんだ。


 棺は舟で墓の島へと運ばれた。棺を辿って、運河を埋め尽くすほどの舟の葬列が続く。


 埋葬の直前、棺の前に一人の修道女が現れた。

 栗色の髪を結って首横から垂らした美人で、百合の花を棺に手向けた。


「あなたの役割を果たしたのね、ノエル」


 手を組み合わせて、修道女は祈る。人々も彼女に続いて祈りを捧げた。


 葬儀が終わり、人々が一つの区切りをつけて、墓の島を去っていく中、アリスだけが、ノエルの墓の前で立ち尽くしていた。ノエルが死んだ、それを理解することがまだできていなかった。


 雨に濡れる少女の頭上に黒い傘が翳された。先程の修道女だった。


「私はマリア・フルルドリス。あなたのことをノエルから頼まれているの。あなたさえ良ければ、私の弟子にならない? 魔法学校にも行かせてあげられる」


 アリスはその名前に聞き覚えがあった。魔法世紀99年に、魔神イヴリースを倒して世界を救った聖女だ。ノエルとは古い友人で、魔法学校の同期らしい。


「ごめんなさい、私はもう、魔法を諦めたんです」


 アリスは誘いを断った。あの時、ノエルを助けられずに、死なせたことで、アリスは自身の限界を見た。自分は魔法医にはなれないと確信した。能力は勿論、精神力の適性がない。魔法医はアリス・カサブランカの役割ではないと判断した。


「……そう。でも、気が変わったり、何か困ったことがあったら、いつでも連絡してちょうだい」


 マリアは通信魔法の回線番号の記された名刺と傘をアリスに手渡すと、一瞬にして姿を消した。


 アリスはノエルのいない世界が受け入れられなかった。生きる意味を見出せなかった。だから、彼女に助けられたこの命すらも、大切に思えなかった。もう、未来のことを考えられなかった。


 気分が悪い。足元の水溜りが一滴の赤い血で濁っていた。その血が自分の足から伝うものだと分かり、アリスは自分の役割を察した。


 ◇


 アリスに初潮が来たことを知った娼館のオーナーのグリマーニは小躍りしながら喜んだ。


「リリーの娘だ、初夜は高く売れるぞ!」


 喪服のままロビーの椅子に腰掛けたアリスは自分が人間ではなく商品であることを自覚する。


 初潮を迎えたことで、アリスは娼婦にならざるを得なくなった。丁度いい、魔法医への道の諦めもつく。純潔を失えば、唯一の取り柄である聖典系の治癒魔法は使えなくなるからだ。


 早速グリマーニはお得意の客に連絡して、アリスの相手を探す。

 すぐに今夜の相手が決まった。先日、リリーと一緒にいたファルッシだ。


 ファルッシは貴族の出身で、金払いが良く、美男で、何より上手いことから娼婦たちからも好かれている。如何にもチャランポランみたいなビジュだが、娼婦のことを大切に扱い、相手の快楽を優先する、初夜にはうってつけの上客だ。


 ふとアリスは階段の踊り場から視線を感じて上を見上げた。リリーが妬ましいそうに睨んでいた。目が合うと、リリーは気に食わなさそうに去って行った。

 

 その後、風呂で身体を綺麗にしたアリスは白いレースのドレスに着替えて、部屋のベッドに座って待った。


 正直なところ、男に抱かれる覚悟なんて決まってなくて、恐怖で心臓が早鐘を打っていた。

 悪魔に強姦される幻覚を見せられたせいもあるし、敬虔なエクレシア教徒のノエルに育てられたため、性行為に大きな忌避感があった。


───きぃ

 

 その時、部屋の扉が開いた。まだ予定の時間よりも早い。


 部屋に入ってきたのはファルッシではなく、仮面をつけた謎の人物───切り裂きメアリーだった。手には大きな包丁を握っている。


 恐怖で動けなくなるアリス。気味の悪い、ふらふらと辿々しい足取りでメアリーは向かってきて、ベッドの上でアリスに馬乗りになった。


 なんとかメアリーの手を掴んで、迫る包丁を止める。揉み合いになった弾みで、メアリーの仮面が外れた。


「え───」


 仮面の下にあったのはアリスの母親───リリー・カサブランカの顔だった。

 大きく開かれた目は血走り、食いしばった口からは涎と独り言が垂れている。


「おまえ、さえ……いなければ……殺して、やる」

 

 アスモデウスは既に祓われたはずなのに、彼女からは悪魔の魔力が感じられた。アリスは読心魔法でリリーに何があったのかを探る。

 その心は剥き出しになっており、これまで心理を隠していたと思われる悪魔の力もないことから、すぐに事情がわかった。


 リリーはアスモデウスと契約して魔法の力を得て美貌を保ち、十二年前から当時人気のあった娼婦を殺していた。


 現在はアリスが自分の立場を揺るがすと考えて、殺そうとしているが、アスモデウスの残した魔力に影響されて、精神が暴走しているようだ。


 魔力で身体能力が強化されており、アリスに向かって徐々に、治癒阻害の毒が付着した包丁が迫って来る。

 切先が胸に触れ、ズブズブと肋骨を割って体内に入り込む。


「い、やだ……死に、たく……ないっ」


 激痛と死の恐怖に、アリスは「死にたくない、死にたくない」とみっともなく悶える。もうどうなってもいいと、自分の人生を捨てていたのに、本心が曝け出された。


 しかし、ついに包丁は心臓に達し、その衝撃でアリスの意識は暗転した。


 ◇


 真っ暗な空間でアリスは目覚めた。

 空間の真ん中には不自然に映写機が置かれており、映像が投影されていた。


 その映像にはまだ赤子のアリスが映っていた。

 これは自分に記録されている記憶だと、アリスにはわかった。


 揺籠で眠る赤子の首に、少女の手が伸びる。

 現在のアリスとそっくりなその少女はリリーだった。

 リリーは無表情のまま、赤子の首を絞めた。

 

 アリスは赤子の頃に死にかけたことがあったとノエルから聞いたことがある。その原因はリリーだったのだ。


 何故、自分の子供を殺すのだろうか。理由は単純で、リリーはアリスを愛していないからだ。愛した男を繋ぎ止められなかった子供など、泣き喚くだけのうるさい肉塊だと彼女は認識していた。


 死の淵を彷徨う赤子の意識は、今アリスがいるのと同じ、暗い空間に落ちた。そこにはアリスとリリーにそっくりな金髪の少女が居て、赤子の魂を受け止め、抱擁した。


 その少女は赤子の魂を優しく上へと押し上げて、現世に戻した。

 映像はそこで終了する。

 

 現在のアリスがいる真っ暗な空間に一粒の光が灯った。その灯の側には豪奢な玉座があり、アリスとリリーによく似た金髪の少女が足を組んで座っていた。


「久しぶりね、アリス」


 少女はアリスとそっくりな声で喋った。


「あなたは誰ですか?」


「私はリリス。悪魔を生み出し、人間に魔法を与えた魔女」


 エクレシア教の聖典や古い神話に記された存在『リリス』。悪魔の祖であり、人間に知恵と魔法を与えた魔女だ。それが何故アリスの意識の中にいるのか。


 アリスの心を読んだのか、リリスは疑問に答えた。


「単純な理由よ。あなたの人生が面白いから、精神世界に住み着いて、鑑賞しているの」


 なんて性格の悪い女だろうか。流石は悪魔の生みの親なだけはある。アリスは感心しながらも、気に入らず、リリスを睨んだ。


「赤ん坊のあなたが死にかけた時、助けてあげたんだから感謝しなさい。あなたが治癒魔法を使えるのも、私と契約して生命の力を得た恩恵なんだから」


 ショックでアリスは青ざめた。記憶にはないが、赤子のアリスは死にかけた時に、生存本能を利用されて、無意識のうちに悪魔と契約させられてしまっていたようだ。


 悪魔と契約していたなんて、ノエルに合わせる顔がない。それどころか、この先死んだとして、ノエルのいる天国には行けない。

 何より、自分のアイデンティティである治癒魔法が、他人から与えられた後付けのパーツだったことがショックだった。


 そのアリスの悲壮な顔を見て、リリスは意地悪く微笑んだ。


「何あなた、まるで自分がこれからも生きられると思っているみたいね。今、あなたは死んだのよ」


 悪魔の言う通り、アリスは自分が生きていることを前提にものを考えていた。

 死んだのなら魔法の才能のことなど気にする必要はないし、そもそも、死ぬ以前に魔法は諦めた筈だ。

 気に入らないが悪魔に諭されて、アリスは自分がどうしたいのか気がついた。


「魔女リリス。もう一度私と契約してください。私はまだ死にたくないんです。生きて、やらなければならない役割があるんです!」


 強い意志で懇願するアリスを見て、リリスは面白そうに笑った。


「良いでしょう。では、代償に何を捧げられますか」


「魂だって、なんだってあげる。地獄にだって堕ちてもいい」


「ふふ、では、何を望みますか」


「生命を助ける、生きる力を」


「承諾しました」


 アリスの精神体の胸の中央が光り輝く。暗い空間が温かい光で満ちる。自分が途方もなく強い力を手にしたことを実感する。


「それは『生命の樹の実』。あなたに永遠の命と生命の力を与えましょう。代償として、あなたは永遠に死ぬことができなくなります」


 悪魔はニタニタと品性のない破顔を見せる。

 永遠の命とは最も重い罪であり罰だ。


 多くの人々が追い求め、ついぞ手にすることは叶わず。手に入れてしまえば最後、地獄に堕ちるよりも遥かに辛い苦難を受けることになる。


 アリスの人生はまんまと悪魔の望む最も苦難に満ちたものとなった。永遠にリリスの娯楽として苛まれることになるだろう。


 しかし、そんなことはどうでもいい。寧ろ都合がいい。永遠の命があるなら、たくさんの人を助けられる。


 アリスの意識が現実に戻る。

 目の前には狂乱したリリー・カサブランカ。心臓には包丁が突き刺さり、激痛に身体が捩れ、再び意識を失いかける。それでも、覚悟を決めて、己の命と向き合う。


「……死にたくない、死にたくないから───生きる!」


 ノエルの形見のロザリアを、リリーの目に思い切り突き刺した。


「いぎゃぁぁ!?」


 目を抑えてベッドから転げ落ち、リリーはジタバタのたうち回った。

 

 アリスは心臓から包丁を抜いて立ち上がり、自己再生魔法を起動した。時計を象った魔法陣が胸に出現し、大きな刺し傷が元通りに再生していく。


 アスモデウスの毒には治癒阻害があるため、通常の治癒魔法では治療はできない。しかしリリスの『再生』の力を手にしたアリスにはそれが可能だった。


 生命の樹の実の力、それは時間を巻き戻す『再生』の力なのだ。


 治療ではなく、厳密には傷の時間そのものを過去に戻しているため、治癒阻害の効力を受けない。


 とはいえ、時間を巻き戻す力は何にでも使えるわけではなく、あくまで傷や病にのみ。それも戻せる時間は限られていて、長く経過した傷病には適用できない。

 そして何より、死んだ人間を生き返らせることはできない。


 そのことを瞬時に理解したアリスは、目の前の殺人鬼を患者と看做した。


 リリーはもう立ち上がれないようで、痛みにもがき苦しんでいる。目の傷が原因ではない。悪魔の魔力で精神と肉体が汚染されているからだ。


 アリスはリリーの目を治療すると、目を瞑り、意識を集中させる。気がつくと、アリスは娼館のロビーにいた。


 夢魔の祖であるリリスの力を得たアリスは他人の精神世界に入り込むことができるようになっていた。つまりここはリリーの精神世界だ。

 この精神世界に付着した悪魔の力を祓えば、リリーを助けられるかもしれない。

 

 ロビーの椅子にアリスとそっくりな少女が座っていた。リリーの精神体だ。

 これが彼女の理想の姿だからなのか、それとも精神が大人になれていないからなのか、子供のままだ。

 リリーの精神体の胸には黒い魔力が燻っていた。あれがアスモデウスの残滓だろう。


「こんにちは。あなたがお客様ですか?」


 声をかけられて、アリスは涙した。

 リリーの記憶がアリスの心の中に流れ込んでくる。

 

 リリーは愛されたことのない女だった。貧しい親の元に生まれ、幼いうちに娼館に売られた。美しい容姿だったが、彼女は性愛、恋愛の対象になれど、親愛、友愛といった純粋な愛を与えられなかった。


 心が育まれることはなく、商売の道具として生き、肉体と精神は磨耗し続けた。恋をした男には見捨てられ、愛を知らない女の元に残ったのは、愛する方法のわからない子供だけだった。

 

 悪魔の囁きを拒めず、若さと引き換えに魂を差し出し、嫉妬と危機感から他の娼婦を殺した。


 それがこの女の人生だ。


 アリスは気がつくと、少女を抱きしめていた。この人を無償で愛してあげられる資格を持つのは、この世でたった一人、アリスだけだったからだ。


「どうしたの、泣いて。よしよし、大丈夫ですよ」


 リリーに初めて頭を撫でられて、アリスは涙が止まらなくなった。


「愛しています、お母さん」


 アリスは愛を伝え、その胸に縋り付く。その想いを乗せて、祓魔術を唱えた。


「荒野を越え、砂漠を越えて、旅を続けよ。果てに地獄があろうとも、越えて光の元で逢おう。エクリシア・アザリエル」


 リリーの胸の黒い魔力が消滅する。

 同時に強制的にアリスは現実に戻った。どうやら悪魔の残滓を祓っても、何もかも手遅れだったようだ。


 リリーの生命力が急激に失われていく。悪魔と契約して若さを保っていたため、その魔力がなくなったことで、代償として生命力を失っているのだ。


 アリスは自分の魔力を分け与えるが、それも追いつかない。悪魔との契約の代償には干渉できないため、治癒や再生魔法は意味をなさない。


 祓魔をしなければどの道、精神と肉体の両方が悪魔の魔力で破壊されていただろう。アリスのやったことは結局苦痛を無くしただけで、命を助けることはできなかった。


 リリーが僅かに残った力で手を天に向かって伸ばした。


「……死にたくない」


 アリスは諦めずに魔力を送り続けて、何か助ける方法がないか考える。

 すると、リリーがアリスを見た。


「おまえなんて、産まなければよかった」


 読心魔法でそれが本心だとすぐにわかった。

 言い終えて、リリーは力尽き、その目から光を失った。

 

「お母さん。私を産んでくれて、ありがとう」


 娘は祈るように母に伝えた。

 紛れもない本心だった。彼女に愛されたこともないし、何かしてもらったこともない。寧ろ殺され、大切な人も奪われた。


 それでも、自分をこの世界に産んでくれた母をアリスは愛していた。これこそが無償の、本物の愛だった。

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