第38話 切り裂きメアリー
現場はとある娼館の一室だった。
既に到着している魔法騎士たちに挨拶して、二人は部屋に入った。
途端、アリスは気味の悪い空気に当てられて怯んだ。部屋に異様な魔力が漂っている。
部屋の真ん中にはドレスを着た娼婦が倒れていた。肌は青白く、ぴくりとも動かない。顔はズタズタに切り裂かれており、床は大量の血液で真っ赤に染まっていた。
「──ひ、」
反射的な悲鳴をなんとか抑えるが、余りにも無惨な死体に、アリスは嘔吐し、膝から崩れ落ちた。
「無理しないで」
ノエルに介抱されるが、無理を押してアリスは見学することにした。
ノエルは脈、呼吸、瞳孔、魔力等を確認して、完全に死亡していることを確認した。この後、遺体を診療所に運んで死因を詳しく調べることになるが、今の状態でもわかることはあった。
娼婦の自殺は珍しいことではないが、水の都は身投げ場所に困らないため、入水が圧倒的に多く、自刃は珍しい。凶器が部屋にないことや、顔を切り刻んでいることから他殺なのはほぼ確定だろう。そして何より、部屋に充満する歪な魔力痕。これは───
「切り裂きメアリー」
深刻な表情でノエルが言った。
『切り裂きメアリー』。それは十二年程前から発生している娼婦殺人事件の犯人の仮称だ。
メアリーは共通して、人気のある娼婦を殺しており、その顔をズタズタに切り裂く。そして犯行現場に
痴情のもつれ、妬み嫉みは娼館街の日常。切り裂きメアリーは人気のある娼婦に嫉妬した女が犯人だというのが今の定説だ。
ノエルは何度も切り裂きメアリーに殺されたとされる遺体を診てきたが、その足取りを掴めないでいた。
その後、診療所で検死が行われ、刃物で顔面を切り刻まれたことによる出血性ショックが死因だと断定された。傷の位置や角度から自殺の線は限りなく薄い。
殺人現場と検死の見学をしたアリスは精神的に大きく疲労していた。殺人事件があったこともあり、ノエルに付き添われてサムエーレ娼館へと帰った。
「今日はよく頑張ったね」
ノエルは娼館の扉の前でアリスの頭を撫でると、ロザリオを手渡してきた。
「お守り。悪夢と悪魔からアリスちゃんを守ってくれるよ」
「ありがとうございます」
切り裂きメアリーのこともあるだろうが、死体を見たアリスが悪夢に悩まないようにくれたのだろう。
「おやすみ、アリスちゃん」
「おやすみなさい、ノエル先生」
互いに安らかな休息を願い合い、二人は別れた。
ロザリオにはノエルの魔力が込められていた。その温もりを大事に胸に抱えて、アリスは娼館の扉を開ける。
エントランスの腰掛けにはリリーが座っており、アリスが帰ったのを見て、呆れたように溜息を吐いた。
「あなた殺人現場に行ったんですってね。まったく、十二歳の子供に死体を見せるなんて、あの医者は何を考えているのかしら。頭がイカれているんじゃないの?」
実の母親からの当然の意見だ。しかし、本心はアリスを心配しているのではなく、自分の娘という存在が、他人のノエルに付き従っていることが気に食わないから文句を言っているだけだ。そのことをアリスは読心魔法で読み取った。
「自分の意思で行ったんです。ノエル先生を悪く言わないでください。私は本気で魔法医になりたいんです」
アリスは初めて自分の意見をリリーに伝えた。これまでまともに会話することなんてなかったが、向こうが口出ししてくるなら、言い返したいことはあった。
言い返してくるとは思っていなかったようでリリーは少し眉間に皺を寄せた。
「おまえは現実を見てないんだよ。なれるはずがないだろ」
「私は貴女とは違います」
娘の反射的な反論に、母は反射的な暴力で答えた。返答から間髪入れずにリリーはアリスの頬を引っ叩いていた。
「おまえに私の何がわかるんだ!」
何も知らない。だって、この口喧嘩が初めての会話なんだから。ただ一つ、アリスは自分と母の精神性が決定的に違うことを確信した。
「貴女は私のことを知っているんですか」
杖も手も使わずに、念じただけでアリスは腫れた頬を治療した。その離れ業に、母は目の前の娘をまるで化け物を見るような目で睨んだ。
それで親子の会話は終わり。娘は自分の部屋に戻り、母は男に抱かれに行く。
隣室から響く水音と嬌声を気にも止めずに、ロザリオを抱きしめて、アリスは眠りに落ちた。
違和感を覚えてアリスは目を覚ました。時間はまだ午前二時。普段ならお店が賑わっている時間なのに、物音が聞こえなかった。その代わりに不気味な魔力が部屋を包み込んでいた。昼間、殺人現場で感じたものと同じ魔力だ。
部屋の扉が静かに開いた。その向こう、廊下があるはずの場所は真っ暗闇で、カーニバルの仮面をつけた黒いローブの人物が静かに立っていた。その手には巨大な肉切り包丁が握られている。切り裂きメアリーだと確信した。
「ひっ、い、いや」
ジリジリと静かに迫り来る殺人鬼。アリスは腰を抜かしながら、床を後退りする。背中に壁が触れた。窓の外に逃げようにも、いつもは見える海は見えない。
切り裂きメアリーは殺害対象を結界で隔離してから殺していた。だから今まで誰にも見つからなかったのだ。
容赦なく肉切り包丁が振り下ろされる。それが少女の顔面に触れる寸前、ロザリオから翠色の光が放たれた。光は魔力の壁を形成し、斬撃を阻む。
次の瞬間、アリスを守るように、ノエル・アザレアが殺人鬼の目の前に立ち塞がっていた。
ロザリオが反応したことで転移魔法を使って助けに来たのだ。その手には、穂先に十字架のついた錫杖が握られている。
「もう大丈夫だよ、アリスちゃん」
「……ノエル先生!」
暗闇の中、光を灯して微笑むその姿は天使の異名に相応しいものだった。
ノエルは殺人鬼に向き直り、杖を構える。
「ようやく会えた、切り裂きメアリー。それとも、こう呼ぶべきかな、
切り裂きメアリーは返答しない。突然、糸が切れた人形のように膝をついて項垂れたかと思えば、ビクンと跳ね上がって立ち上がり、手を胸に当てて会釈してきた。
「いかにも。私めは『アスモデウス』。七大罪の色欲を司る魔神でございます」
その声は低くて重い。同時に調子の良い道化じみていてた。
切り裂きメアリーの正体は、魔神アスモデウスに取り憑かれた人間のようだ。
「契約に応じ、アリス・カサブランカを殺害しなければなりません。聖女よ、どうか、お引き取りください」
悪魔から不気味な引き笑いが絶えることはない。仮面の内側で口を弧の字に引き攣らせているのがわかる。
悪魔と会話しても何の意味もないことをノエルは知っていた。無視して詠唱を始める。
「指輪を拾い、香炉を焚け。傷を癒やし、闇を祓う」
大天使ラファエルを由来とする対悪魔特攻の性質を持つ翡翠色の光が杖の穂先に集う。
聖典の記述では、大天使ラファエルは悪魔アスモデウスを祓うために使わされた天使であり、この局面での最適解なのだ。
「忌々しいラファエルの力でございますか。くひひ、当然、円卓の騎士と正々堂々戦うつもりなどございません」
聖装を纏った杖が振るわれ、魔力弾が放たれるが、アスモデウスは部屋の暗闇に姿を消して回避する。そして、静かに声だけが聞こえてきた。
「
いつのまにか、ノエルとアリスは古い石造りの神殿にいた。アスモデウスの魂源界放により、世界から隔離されてしまったのだ。
「ようこそ、我が『
魂源界放の効力により、ノエルとアリスは身体を動かせなくなる。そして、どこからともなく、裸の男が大勢現れて、無防備な乙女たちに群がった。
「ご安心ください、清らかな処女たちよ。これは全て我が『
アスモデウスはソロモン王を欺き、古代カナンエルを支配したことがあり、その際、初夜権を行使して国中の女を犯したり、人々の心を操って、淫らな行いをさせた。この
幻覚の中で、ノエルとアリスは汚らわしい男たちに身体を押さえつけられ、衣服を引きちぎられ、強姦された。
「いやぁぁぁぁぁぁ」
あまりに鮮明で残酷な幻覚に、アリスは絶叫し、慟哭する。再現された痛みと恐怖で、少女は涙と唾液を垂れ流しながら、失禁した。このままでは精神が完全に破壊されるだろう。
一方ノエルはその鋼の精神力で凌辱を耐え忍んでいた。誰にも触れられたことのない素肌を舐られ、敬虔な信仰心を踏み躙るように肉体を嬲られる。そんな窮地に陥ってもなお、ノエルはアリスを助けることだけを考えていた。
現実のノエルの目が開かれ、身体が動き出す。
「……あり得ない」
アスモデウスは感動するように声を震わせて、目の前の事実に困惑した。
ノエルは何の魔法も使わずに、精神の強さだけで、魔神の魂源界放を打ち破り、幻覚から覚醒したのだ。
アスモデウスは魂源界放中は直接戦えないため、すぐに魂源界放を解除する。するとアリスも幻覚から目覚めた。
ノエルはアスモデウスには目もくれず、震えるアリスを優しく抱擁した。
「大丈夫。全部、悪い夢だよ。私がここにいるよ」
精神を落ち着ける保護魔法と攻撃から身を守る防御魔法をアリスに施す。
精神が安定し、現実を認識できるようになったアリスは、か弱い手でノエルの袖を掴んだ。ノエルは「ごめんね、すぐに戻るから」とその手を解き、立ち上がった。強い怒りを宿した聖女の眼が悪魔を睨んだ。
魔神アスモデウスは本能的に『恐怖』を感じて狼狽えた。
「ひょほっ、良い目ですね。ぜひ犯したい、しかし穢したくはない。おっ! そうだ。殺してから死体を犯そう。そうすれば聖女の魂は永遠に清らかなままでいられる!」
下衆な蕩け顔を晒しながら、妄言を垂れる悪魔。憑依体をヘドロのような黒い魔力が包み込み始め、その姿を変貌させた。
それは、中年の男、牛、羊の三つの頭を持つ、鵞鳥の足と蛇の尾を生やした竜だった。
「魔装アスモデウス。本来の姿にて罷り越してございます」
真ん中の男の顔が告げる。
魔装とは、悪魔の力を身に纏うことで、悪魔の力を更に強く引き出すことができる魔法だ。
目の前に顕現した恐ろしい悪魔に怯むことなく、聖女は祈るように両手を組み合わせて目を瞑った。
「聖装ラファエル」
聖女の全身を黄金の光が包み込む。頭上には杖、魚、目を象った
それに構わずにアスモデウスは包丁を振り上げる。
「まずは真っ二つにして上半身を生かしたまま、下半身と交わりましょう! あなたは自分が犯されるのをただ傍観するのです!」
願望を早口で吐露する悪魔、その攻撃は空を切る。ノエルの姿は一瞬にして消え、気がつくとアスモデウスの全身が切り刻まれた。
「なにっ!?」
ラファエルの性質により、ノエルは超高速の転移と斬撃を飛ばす風魔法を用いることができる。
「聖風審判」
透明の風の刃が黒い魔力で塗り固めた魔装を引き剥がしていく。
「あぎゃぁぁぁぁッ」
風圧により、身動きを封じられて動けなくなったアスモデウスは、対魔の性質を帯びた風に斬られ、痛みから情けない悲鳴を上げた。
しかしそれは演技で、事実として身動きは取れないものの、過剰なリアクションを囮にして、密かに幻覚魔法を発動した。
「ひぃっ!?」
アリスの悲鳴が聞こえる。いつのまにかノエルの張った防御結界が破られており、アリスの目の前に黒い毒蛇が迫っていた。アスモデウスの使い魔だろう。
ノエルは転移魔法でアリスの前に跳ぶと、毒蛇を風で粉々に切り刻んだ。
アスモデウスへの攻撃を再開しようと振り向くが、先までいた悪魔の姿がない。
「ノエル先生!」
薄膜一つ挟んでいるような朧げなアリスの声が聞こえた。それでノエルは自分が幻覚魔法の術中にいることに気がついた。幻を振り払おうと精神を集中させた時、背後から強い衝撃を感じて、強制的に幻覚から覚めた。
「貫通〜!!」
品性の欠片もない蕩け顔でアスモデウスが背後で歓喜していた。ノエルは自分の腹部から包丁の切先が飛び出ていることに気がついた。背中を刺されて腹まで貫通したようだ。激痛に耐えながら杖でアスモデウスを殴ろうとするが、避けられる。
「良いっ! 良いっ! 良い眺めだ、まるで破瓜だ!」
アスモデウスは包丁を抜いて後退する。ノエルは即座に治癒魔法を試みるが傷が塞がることはない。大量の血が足を伝って溢れていく。
「ひょっほほ。無駄ですよ。この包丁には治癒阻害の毒が塗られているのです。魔法で傷を治すことはできません」
ラファエル由来の『治癒』を得意とするノエルにとって、精神的ダメージを与える『幻覚』と傷の治りを妨げる『治癒阻害』は天敵だった。アスモデウスはそれほどまでにラファエルに恨みがあるらしい。
悪魔の用いる未知の毒をこの場ですぐに解毒することはノエルにもできない。ノエルは幾つかの魔法薬を注射器で投与し、気休めとした。
「さて、聖女よ。今貴女が見ている世界は本当に現実なのでしょうか」
ニタニタと笑いながら、無造作にアスモデウスは再び密かに幻覚魔法を発動した。
今度の幻覚ではノエルはアリスをアスモデウスだと思い込んで攻撃する。その手筈だった。
しかし、何故かノエルはアスモデウスに向かって接近し、注射器を突き刺して来た。
「なにぃ〜!?」
何らかの魔法薬を投与されたようで、悪魔の視界が揺らぐ。目の前で聖女が満面の笑みを浮かべていた。
「何故だ、何故幻覚が効かん」
「幻覚なら見てるよ。自分に幻覚剤を投与したからね〜」
へらへらと注射器を見せつける聖女。禁断の注射器使い回しに、悪魔はこの現象を理解した。
「
既に幻覚状態にあるノエルはアスモデウスの幻覚を受けないという理屈だ。ノエルは悪魔を倒すためなら、違法魔薬を自分に使うことすら厭わない覚悟を持っていた。
「そして、あなたにも同じ魔法薬を投与した。あなたはどんな幻覚を見るんだろうね。あはは、見る幻覚はもう決まってるんだけどね」
幻覚剤はノエルが調合したもののため、見る幻覚は既に決まっていた。
「やめろ、やめてくれ」
解釈違いな聖女の姿に失望し、迫り来る悪夢に怯える魔神。
「来た、来たぁ!」
アスモデウスは頭を抱えて、逃れようのない幻覚に相対した。
「──ああ、サラ。愛しいサラ……何をしているソロモン、何故おまえがサラの閨にいる。やめろ、やめてくれ!!」
涙を流して虚空を見つめる悪魔。彼が見ているのは既にこの世を去った知人の幻影。『
アスモデウスはかつて恋をした女性と宿敵ソロモンが交わる悪夢を見ることになった。
哀れにもアスモデウスの精神は崩壊し、放心した。
ノエルは幻覚剤で高揚した精神を落ち着け、その眼差しを真剣なものに切り替えると、人間に取り憑いた悪魔を祓う『祓魔術』の詠唱を唱える。
「永劫の業火、凍てつく奈落の川、あなたの魂を地獄に還す。光の裁きだけが、あなたを救う。最後の喇叭が響く時、あなたが我らと共にあることを祈る。魂の癒し手よ、彼を浄化したまえ。エクリシア・アザリエル」
聖句に反応して光が悪魔を包み込む。黒い魔力で構成されたアスモデウスの魔装が剥がれ、中から憑依体の仮面の人物が吐き出された。
惨めに床に散らばったヘドロ状のアスモデウスは徐々に灰になり、程なくして完全に消滅した。その魂は再び地獄に堕ちるだろう。ノエルは七大罪の一柱『色欲の魔神アスモデウス』の祓魔に成功したのだ。
残った仮面の人物はフラフラと立ち上がると、暗がりに消えていった。
追おうとしたノエルだが、それは叶わず、床に崩れ落ちた。
「ノエル先生!」
アリスが駆け寄り、腹部の傷に治癒魔法を行使するが、悪魔の毒のせいで傷が治ることはない。
「みんな、助けてあげられなくてごめんね。私もそっちに行くことになりそう」
ノエルが譫言を呟いた。幻覚として、これまで助けられなかった人々が見えていた。
アリスは解毒を試みつつ、同時に血液を精製して輸血を行う。しかし悪魔の毒は呪詛の性質を有し、肉体だけではなく魂にまで結びついていて、今のアリスの能力では解毒は不可能。いくら輸血しても、それを上回る速度で血液は失われていく。
弱ったノエルの目がアリスを見据えた。最後の力を振り絞るように、絶え絶えと言葉を紡いだ。
「ごめんねアリスちゃん。私の役割はここまでみたい」
「嫌です、死なないでくださいノエル先生! 約束したじゃないですか、私を自由にしてくれるって!」
泣きながら、必死に圧迫止血を試みる。手のひらがノエルの血で真っ赤に染まっていく。
「あなたはもう自由だよ。人は生まれた時からずっと自由。全部自分で決めていい。あなたはあなたの、あなたにしかできない、役割を見つけて」
言い終えて、ノエルは眠るように目を閉じた。呼吸と心臓の鼓動が止まる。
「ああっ、だめ」
掠れた悲鳴を溢し、がむしゃらにアリスは心肺蘇生を試みる。何度も何度も胸を押し、血だらけの口に息を送った。しかし、ノエルが戻ってくることはない。
ついに冷たくなったノエル・アザレアだったものに、唇を血のルージュで染めたアリスは縋り付いた。
「お母さん」
ずっと心に秘めていた言葉を吐露する。血は繋がっていなくてもノエルはアリスにとって母親だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます