第37話 娼館街の少女
魔法世紀112年
窓を開ける、屋根向こうに大海と地平線が見えた。朝日と海風が部屋に入ってきて、十二歳のアリス・カサブランカの金色の髪を揺らす。部屋に籠った男と女の匂いが潮風と混じって、吐き気がした。
白いエプロンと頭巾を身につけたアリスは汚れた部屋の掃除を始めた。
水の都アクアを象徴する、船の行き交うメインストリートから一つ運河を挟んだ娼館街にある高級娼館『サムエーレ』でアリス・カサブランカは下働きをして暮らしていた。
観光客で賑わう広場と清廉な寺院からたった一つ運河を隔てた先にあるのは、華やかで煌びやかで、穢れて爛れた最底辺の世界だった。娼館街は行き場のない女の墓場だ。できる仕事が限られる魔法能力の低い女は娼婦をやらざるを得ず、自然とここに集まる。
アリスはサムエーレ娼館の一番人気の娼婦『リリー・カサブランカ』と客との間にできた子供だ。リリーはその客に恋をしており、子供を産めば身請けをしてくれると思い込んでいたが、客はアクアを離れて旅に出てしまった。
母リリーはアリスの面倒を見てくれなかったため、店の他の娼婦たちに育てられた。アリスはサムエーレ娼館のオーナーの養子という扱いだが、学校には通わせてもらえず、下働きをさせられている。
日課の掃除と洗濯を終える頃、眠りについた娼館のエントランスに一人の修道女が入ってきた。アリスは階段を降りて来客を出迎える。
「おはようございます、ノエル先生」
「おはようアリスちゃん」
修道女の名はノエル・アザレア。この街の魔法医で、娼婦や貧民を無償で助けている。
年齢は二十代半ばで、明るい天真爛漫な性格だが、現職の魔法騎士でもあり、あのマリア・フルルドリスの同期にして、同じく円卓の騎士に名を連ねている。
真珠のような白桃色の髪と美しい容姿から『アクアの天使』の異名を持ち、人々から尊敬されていた。
アリスが産まれる際に取り上げたのもノエルで、幼いアリスが死にかけた時に助けたこともある。アリスは人々を助けるノエルに憧れていた。
アリスはノエルを二階の部屋に案内する。
勿論彼女は娼館に遊びに来た客ではない。病人の治療に来たのだ。部屋のベッドで若い娼婦が苦しそうに寝込んでいた。昨夜から熱があるようだ。
ノエルは慣れた所作で患者の状態を診察する。何かを見抜いたように、徐ろに女の手を取り、袖を捲った。
手首に潰れた梅の実のような腫瘍ができており、酷く化膿していた。アリスにもなんの病気かすぐにわかった。
アクアで流行している性感染症『モダイ』だ。
元々魔法世紀前は梅毒と呼ばれる性感染症だったが魔法の影響で変異し、現在のモダイとなった。
感染すると高熱が出て、身体中に赤い腫れ物が出来る。悪化するとウイルスに魔力を吸われて、最悪死に至る危険な病だ。特に魔法能力の低い者はモダイに対する抵抗力も低いため、症状が重くなる傾向にある。
「ノエル先生、私は死ぬんですか?」
娼婦の問いにノエルは優しく微笑んだ。
「大丈夫、必ず治るよ」
聞いて、安心した娼婦は眠りについた。一先ずはノエルの治癒魔法で症状が落ち着いたようだ。今後は処方した魔法薬を飲んで、しばらく休めば完治するだろう。
サムエーレ娼館での回診を終えたノエルはエントランスの掃除をしていたアリスに声をかけた。
「今日はまだ他の娼館を回るけど、付いてくる?」
「よろしいのですか?」
「いいよ」
アリスは娼婦の子供でありながら、魔法の才能を持っており、ノエルから医療魔法の指導を受けていた。時折、ノエルの仕事を助手として手伝うこともある。アリスの将来の夢は魔法医になることだった。
すると受付奥の部屋から小太りの中年の男が出てきた。
「待てアリス。掃除と洗濯はどうした」
このサムエーレ娼館のオーナーの『グリマーニ』だ。一応アリスの養父だが、雑用にこき使うだけで、家族らしいことなど一度もなかった。
「もう終わらせました」
「なら構わないが、わかっているな、おまえは初潮が来たらうちの店で娼婦をやるんだ。医者にはなれない」
真っ暗な未来を言葉にして告げられる。アリスはつい反射的に助けを求めてノエルの方を見てしまった。ノエルは優しく微笑み、頷いた。
「グリマーニさん。以前もお話ししましたが、アリスちゃんを私の養女にしていただけませんか? この子には医療魔法の才能があります。きっと多くの人の助けられる」
「それなら返答は変わらない。アリスは次代の稼ぎ頭だ。清貧なシスターが積める端金じゃ比べ物にならないほどの金を生み出す」
オーナーはアリスのことをまるで経済動物のように認識していた。事実、娼婦は現代に残り続ける最底辺の身分で、金銭で売り買いされる等、家畜同様の扱いを受けている。
「貧民を救ったところで金にはならんし、治癒魔法に多少の覚えがあったとしても、そいつは他ができないから、魔法医にはなれないだろう。何より、魔法社会が娼婦の娘を受け入れるはずがない。アリスにとってはここで娼婦をするのが一番の幸せだ。その器用なら金持ちに気に入られて、大金で身請けしてもらえる可能性もあるしな」
オーナーからすれば最高の商品を譲れと言われているようなものだ。そう簡単には首を縦には振らない。
その時、一人の客が来店した。背の高い美男で、肌は浅黒く、髪は金髪に染めている、いかにも軽薄そうな男だった。
「おはようオーナー。リリーは居るかい」
「これはこれは、いらっしゃいませファルッシ様。リリーでしたら、今呼んできます」
男は店の太客のようで、オーナーはヘコヘコと媚びるような態度で遜った。
ふと、男がアリスを視界に入れた。顔、胸、腰、足と、上から順番に舐め回すような嫌らしい視線で見てきた。
透かさずノエルがアリスの前に立ち、男の視線から守った。
十二歳になり、身体が大人へと成長し始めたアリスは、最近自分が男性から性的な視線を向けられるようになったことに気がついた。
更に、生まれつき備わっている読心魔法の制御ができずに、人の心の声が頭の中に流れ込んでくることが多々あり、不快な思いをしていた。
「ファルッシ様」
艶かしく媚びた女の声がして、ファルッシは振り向いた。二階の階段から、ドレスで着飾った金髪の美女が優雅な所作で降りて来る。アリスの母、リリー・カサブランカだ。百合の女王の名を持つ彼女だが、見に纏っているのはジャスミンの香りだった。
年齢は二十七歳だが、その容姿は十代の少女のように若々しい。金色の髪と青い眼、白い肌と完璧な体型はまるで神話の女神のようだ。アリスとよく似ており、その差異があるとすれば服装と化粧の有無くらいだろう。
一瞬、リリーがアリスを見た。アリスの頭に流れ込んで来たのは、嫉妬の感情だった。
「おお、待っていたよリリー。今日も美しいね」
リリーとファルッシは抱擁し合うと、舌を絡ませ、艶かしい声を溢した。
ノエルが咳払いして、二人はキスを止めた。
「ごめんなさい、シスターには早かったかしら」
馬鹿にされても、ノエルは気にせず、アリスの手を取って店の外へ出た。
重厚な高級娼館の扉を閉め切ると、静かな朝が二人を出迎えた。
「安心してアリスちゃん。私が絶対にあなたを自由にしてあげるから。だからアリスちゃんは自分のやりたいことをやっていいんだよ」
ノエルは少女の生きてきた世界ではあり得ないほどの善人だった。だから失礼なのはわかっているのに、心を読んでしまった。
彼女は本心からアリスのことを考えていた。
いつだってその心は誰かの幸福を願っている。アリスはいつかノエルのような魔法医になりたいと強く思った。
その後二人は娼館街を回り、娼婦や貧民の治療を行なった。
アクアの娼館街は時代遅れも甚だしい魔法格差の権化で、華やかに着飾った女たちの多くが、栄養失調や性感染症に陥っていた。
ある娼館で妊婦の診察をすることになった。
ノエルはベッドで横になった妊婦のお腹に優しく手を当てて、胎児の状態を確認する。
「うん、ちゃんと栄養は取れてるみたい。このまま順調にいけば後八週くらいかな」
妊婦は経過が良好なことを喜びつつも、その顔はどこか曇っていた。
「ノエル先生、私はこの子を幸せにできるでしょうか。不幸にさせてしまうかもしれません」
娼婦が妊娠出産すると、その間は仕事ができなくなるし、ついていた客も離れる。生まれた子供を養うお金もない場合が多い。娼婦が子供を産むというのは終わりを意味する。そのため、殆どが堕胎を選ばざるを得ない。
この女性は人気のある娼婦で、パトロンが母子の面倒を見てくれることになったため、幸運にも出産する選択ができた。
しかし、彼女は産んだ子供を幸せにできるか不安なようだ。妊娠中は様々な要因で精神的に追い込まれやすい。娼婦という特殊な立場にあるなら尚更だ。
「私は自分が生まれて来なければよかったと思っているんです。子供の頃に売られて、何の意味もない人生を送ってきました。魔法能力の低い、穢れた私から産まれた子は幸せになれるのでしょうか」
彼女は母親の責務に押し潰されそうになっていた。あまりに深刻な吐露にアリスは固まる。子供の未来を考えることのできる彼女は母親としての資格を十分に満たしている。しかし、その未来は余りにも不安定だ。アリス自身、娼婦の子供で、やがて娼婦にならなくてはならない宿命を背負っていて、それを解決できていない。彼女にかけてあげられる言葉が見つからなかった。
するとノエルは女性を優しく抱きしめた。
「私思うんだ。人は誰かを愛するために生まれてくるんじゃないかって。この子が
気がつくと女性は涙を流していた。今までに他者から与えられたことのない感情に戸惑っていたが、すぐにその正体に気がついた。これは正しく愛だ。今この瞬間、ノエルによって女性はその生命を祝福されたのだ。
不安が和らぎ、これまでの人生とこれからの未来に対しての問答に答えが出た気がした。
「ノエル先生、ありがとうございます。私頑張れます。この子をいっぱい愛します」
「うん、よかった。やっぱりお母さんはすごいよ。でも、頑張りすぎもよくないから、何かあったらすぐに言ってね。私が必ず助けるから」
アリスは自分も泣いていることに気がついた。アリスもまた、ノエルの言葉に救われていた。
今日の回診が終わり、二人は教会に併設されている診療所に戻った。
アリスが助手をして学んだことをノートに書き記しているとノエルが紅茶を淹れてくれた。
「ノエル先生、私にも生まれてきた意味があるのでしょうか」
ノエルならその答えを知っている気がして、ついアリスは聞いてしまった。質問してから、相手の負荷になってしまう気がして、後悔した。
「あるよ」
考えることもせずに答えた。しかしそれが具体的に何かは教えてくれない。
「全ての人に、必ず大切な意味や役割がある。それに本人が気がつけるかが大事なの。だから、生まれて来なければよかった人なんていないよ」
だったら自分の意味は『魔法で人を助けること』だとアリスは思った。自分にあるのは医療魔法の才能だけだから。
───ジリリリリ
その時、診療所の電話が鳴った。微睡を覚ますような、やけに大きい音に聞こえた。
ノエルが受話器を取ると、すぐに真剣な表情になった。
「ノエル先生?」
「娼館街で殺人が起きたみたい。アリスちゃんは……覚悟があるなら付いてきて」
「行きます」
魔法医になるなら避けては通れない道だった。己の道を決めたアリスにそれに立ち向かわなくてはならない。
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