第3章 魔導優生機構キヴォトス

第36話 水上都市アクア


 魔法世紀116年8月


 車窓から海に浮かぶ街並みが見えた。窓を開けると潮風と汽笛の音が飛び込んで来る。アンナは慌てて窓を閉めて、乱れたくせ毛と修道服を整えると、大人しく列車の長椅子に座った。


 現在、絶賛夏休み中のアンナは水上都市『アクア』へと向かっていた。夜会パーティーに参加するためだ。

 先日、アンナに『ノア・ジウスドラ』という著名な魔法使いから、パーティーへの招待状が届いた。

 ジウスドラは毎年、優秀な魔法使いを集めて夜会を開いており、アンナは彼の御眼鏡に適ったようだ。


 アンナは視線を車窓に映る水上都市の上空に向けた。中世建築の街並みが残る優雅な水の都アクア、その上空には巨大な箱船が浮かんでいた。


 船の名は『キヴォトス』。ノア・ジウスドラが設計、建設した空中都市だ。キヴォトスは魔法研究機関でもあり、優秀な魔法使いだけが立ち入ることのできる神秘の中枢だ。

 件の夜会はあのキヴォトスで行われる。


 しかし、アンナにとって夜会などアクアに出向くための一口実に過ぎなかった。本命はアクアに住んでいるアリス・カサブランカに会うことだ。夏休み中に彼女の家でお泊まり会をしようと約束をしていた。


 久しぶりに友人に会えることと、アクアの観光が楽しみで、頬の緩みが抑えられない。


 そんなアンナを、対面の座席に座った女神イブが翳りのある眼差しで見つめていた。


 瞬きをした次の瞬間には、彼岸花柄の着物を着た黒髪の少女は既に隣にいて、アンナの首に冷たい手指を這わせながら、耳元で囁いて来る。


「ダメだよ、他の女のことばかり考えたら」


「……は、はひ」


 強力な使い魔だが、彼女を使いこなすには相応のリスクが伴う。そう、常に適切な対ヤンデレコミュニケーションが求められるのだ。間違った選択をすれば、最悪殺されるだろう。


 アンナはイブを自分の胸に抱き寄せると、やり返すように耳元で囁いた。


「大丈夫だよ、わたしの全部はイブのものだから。ほら、魔力を感じてみて」


「───!?」


 イブが赤面する。アンナの思考と感情を共有できるイブは大きく、深く、あまりに重い愛情を感じ取ったのだ。

 

 これで暫くイブの機嫌は良いだろう。十年以上一緒にいるため、ヤンデレ女神の扱いはバッチリだ。


 抱きしめ合う二人の向かいの席に修道服のマリア・フルルドリスが足を組んで座った。


「……またその魔術儀式、恥ずかしいから人前ではやめなさい」


 呆れる最強聖女。マリアは度々行われる二人のこのやりとりを魔法契約の儀式だと認識していた。


 そんな事をしているうちに、列車はアクア駅に到着した。


 駅を出るとすぐ目の前に海に浮かんだ街並みが迎える。

 アクアは150以上の運河と170以上の島、400以上の橋からなる水上都市で、その魅力はやはり複雑に入り組んだ水路と路地だ。


 アンナが街の景色に見惚れていると、ちょんちょんと誰かに肩を叩かれた。振り向くと、指がアンナの頬をつついた。金髪碧眼の美少女───アリス・カサブランカが悪戯っぽく笑っていた。

 

「お久しぶりです、アンナちゃん。ようこそアクアへ」

 

「久しぶり、アリスちゃん」


 アリスは夏らしい白いワンピースを着ていた。露出した肩と白い手足に、アンナはドキドキしてしまう。そんな初心を弄ぶように、アリスはアンナの左腕を掴んで胸を押し付けて来た。


「ちょっ、アリスちゃん!?」


 アンナは顔を真っ赤にしながらたじろぐ。そして、熱く火照る顔とは真逆に、背筋に蛇が這い回るような寒気を感じた。


「……アンナちゃん」


 嫉妬と怒りの冷たい笑みを浮かべたイブが右腕を掴んで引っ張って来る。


 蛇二匹に挟まれた。アリスとイブが玩具の所有権を主張して二方向から同時に引っ張り合う。

 終わりだ。アンナの命運は全て二人の気分で決まる。アンナがどう足掻いても、その意思が未来に影響を及ぼすことはない。


 絶望していると、救いの聖女マリアが二人をアンナから引き剥がしてくれた。


「ちょっと浮かれすぎよ。夏休みだからって、ハメを外しすぎないように」


「は〜い」


 二人は絶対に分かってない声で返事、ニコニコ微笑みながら、互いにバチバチと睨み合い続けた。


「それじゃあ、私は仕事があるから。アリス、アンナのことお願いね」


 そう言い残して、マリアは一瞬にして姿を消した。急にアクアで仕事が入ったようだ。夏休みはずっと一緒にいられると思っていたから、アンナは残念に思った。


「アンナちゃん、アクアをご案内しますね」


 アリスはアンナの手を取ると水の都の路地を先導した。現地民でも迷うとされる細い路地をアリスは迷いなく進んで行く。


 アンナと背中に引っ付いたイブはアリスに案内されてアクアの街を巡った。

 巨大な鐘塔のある広場でコーヒーを飲んだり、ゴンドラに乗ったり、歴史のある建築を見て回った。


 しばらく観光を楽しんだ三人は喧騒から離れて、路地裏の奥深くにある小さな広場のベンチに腰掛けて休むことにした。


「アクアはどうですか?」


「いいところだね。細い道とか、古い建物とか好きで、からずっと来てみたかったんだ。人が多いのは苦手だけど、この街は好き」


 アクアは観光地であると共に、その昔から重要な港町だ。様々な地域から集まった人々が行き交う、海と陸の交差点。常に人々の活気が街を満たしている。季節行事の際はもっと人が増えるらしい。


「私もこの街が好きです。生まれ育った街だからというのもありますが、何より多種多様な人々が集まるこの土地の性質が気に入っているんです」


 建物に囲まれた小さな広場から、わずかに見える青空をアリスは見上げた。


「春の始まりの頃にアクアではカーニバルが開かれるのですが、その際参加者は仮面をつけて素顔を隠します。階級制度のあった時代に、カーニバルの間は身分を忘れるという風習の名残りなんです。この街はどんな人でも受け入れてくれる。こんな私でも」


 アリスが自分を卑下するのは、彼女の出自に関係していることがアンナにはわかった。アリス本人は血統と才能のことなど気にしていないが、現在の魔法至上主義世界が、娼婦の子や魔法弱者を差別している。

 このアクアは魔法至上主義から、立場の弱い人々を守り匿う、仮面の方舟アサイラムなんだ。


 アリスは何かを言おうとして、少し躊躇い、目を逸らした後、息を大きく吸ってからアンナを見つめた。


「エクソダス事件の際、私はアンナちゃんの前世の記憶を見ました。ですから、その代価として私の過去の記憶を見ていただけませんか? ……その、釣り合いが取れない、酷い記憶なので、断っていただいても構いませんが」


 精神干渉系魔法に長けるアリスは自分の記憶を夢として見せることも可能だ。わざとではないとは言え、アンナの記憶を覗いてしまったことに対して、彼女なりにお詫びをしようということだろう。


「見たい」


 即答するとアリスが珍しく驚いて、目を見開いた。


「わたし、アリスちゃんのこと、もっと知りたい」


 平静を装っているが、金髪の少女の頬は紅潮していた。喜んでいることが悟られないようにと澄ました顔で自身の膝の上を二回叩いた。


「どうぞ寝てください。夢をお見せします」


 あっという間に、いつも通りのアリスのペース。ご厚意に甘えて、膝枕に預かると、ジャスミンの香りがした。


 空気を読んだイブが周囲に人避けの結界を張る。仕方ねぇなぁとやさぐれ顔で影の中に入った。アリスは後で美味しいワインをイヴにあげることにした。


 額にアリスの手が優しく触れ、仄かに緑色に発光した。強制的に眠らせる昏睡魔法だ。暖かな光に誘われて、アンナの意識は深い眠りの奥底に落ちた。

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