すぐそこにある気づかない世界

電磁幽体

『Fairy Tale』Author. Frank Alesia

 梅雨独特のむんむんとした空気は、けだるさがそろそろピークに達してきたまぶた半開きの俺に寝ることを許さなかった。

 教室を見渡すと汗を掻きながら寝ている男子もいたり、真面目に化学の中年教師の授業を受けている女子もいたり、中睦まじく男女でこっそりと会話を楽しんでいる奴らもいたりする。

 1人だけ窓際の机の下に小説を置き教師から見えない角度で読書に耽っている女子がいた。

 触れたら壊れそう、を正に体躯で表現しているともいうべき社木綾乃やしろぎあやのだ。学校指定の地味な制服から伸びる非健康的な白い手足。人形を意識させる固定された美しい無表情に、肩まで伸びるさらさらとした黒髪。

 美しいから目立つ、というわけではない。何故か、社木の周りに人は誰もいない。

 その空間にいることは確かなのに、ちょっとでも目を離すと消えてしまうような、そんな存在感。その儚さに憧れる男子は多い。

 ふと前置き無く社木が上を向く。そして優しく微笑みかけた。何も無いはずの教室の天井に。表情はすぐに無表情の人形になる。

 目線を向けていたことを感じたのか、社木は左に離れた廊下側の席にいる俺を振り向く。無表情のまま、俺を見つめる。窓から差す太陽の、光と影のコントラストをその身に浴びながら社木は俺を見つめる。空いた窓から風が入り込み、その黒髪をさらさらと揺らした。その光景は世界に一枚だけの絵画を作り出した。教室の時間が停止していたような気がした。

 しかしそれは錯覚だ。社木がこちらを振り向いたのは一瞬。すぐに下を向き机の下の小説を読み始める。何事も無かったかのように教室は時を刻む。




 脳が勝手にさっきの絵画をしっかりと記憶した俺は、社木に見習って、社木から借りたミステリ小説でチャイムまでの時を過ごすことにした。そして無為に時間は過ぎていく。


 6限目のチャイムが鳴り、しばらくして担任が教室に入ってきて多少の連絡を済ませて「起立」「礼」「ありがとうございました」と事務的な挨拶を済ませて教室は機能を終える。

 俺は急ぐことも無く文学部のある離れの教室へ歩く。文学部といっても、ただそこで本を読むだけだ。

 人数が俺含めて6人しかいない文学部は、部活動中(と言っても本当に本を読むだけだが)も極めて静かで、ぺちゃくちゃと喋りその安寧な静寂を乱す輩は誰一人としていない。

 元来人付き合いを避けるきらいがある、しかしそのきらいによって必然的に成る人間関係の出来具合に物寂しさを覚える俺にとって、その空間は至福以外の何物でもなかった。

 最終下校時間10分前のチャイムが鳴り、それぞれが読んでいた本についてあれこれ感想を言い聞かせつつ、帰る仕度をしていた。

 社木の読んでいた本は「妖精が世界を動かしている」というのをテーマにした、数十年前にヨーロッパで大ブームを引き起こしたファンタジー小説の和訳本。タイトルは[フェアリーテイル]。世界観はファンタジーのそれではなく、現代。授業中に読んでいた本もそれだった。別にその本だけしか読まない、と言う訳ではないが、社木は飽きずに何度も何度もその本を読み返している。

「そのミステリどうだった」

「まさかの夢オチかよ。ちょっと時間返して欲しい」

「個人的には幻想的でいいお話だと思ったのだけど、ごめんなさい」

「あー、こっちがごめん」

 俺と会話している社木の表情は無表情のまま。俺は発言してから、自身のデリカシーの無さに気づく。

 特にどうといったことは無いが俺と社木の二人は、いつも一緒に下校している。頭のおかしい不審者が徘徊するこのご時世なら仕方ないことだが、学校側が「帰る時は同じ帰路の人達の集団で帰りなさい」と催促していた。俺と社木ともに同じ文学部で、二人とも友人は片手で数えるほどしかいないので当然の成り行きだ。

 お互いに無言の帰路。コミュニケーション能力が欠如している俺と社木にとって、それは息苦しい空間ではなくむしろ快適な空間。

 途中、社木が頭上を向き何も無いはずの空中に微笑みかける。教室でもそうだった。それは日常の中で彼女を観察しているとよくあることだ。常に無表情の社木の微笑みが見れるのは、その時だけ。何がどうなっているのかよく分からないが、わざわざ俺は干渉するつもりはない。

 分かれ道がきたところで「また明日な。バイバイ」「ばいばい」と口にする言葉。俺は社木の美しい後姿を眺めつつ、今日一日、何事も無く終わったなぁと一人ごちる。


 あ、と思い出す。借りたミステリ小説を社木に返すのを忘れていた。

「社木—。本忘れてた」

 俺の呼び声に振り返った社木が、なぜか息を呑んだ。俺の名前を、叫ぶ。唐突過ぎて意味が分からない。ただその表情は無表情ではなく、いつになく切羽詰ったような。

 社木が俺の後ろを指差す。ふいに何かに頭を叩かれたような気がした。後ろを振り向く。車が一台。すぐそこまで迫っていた。



 

 カーテンから差す幽かな光がちょうど俺を包み込んでいるようだった。

 壁に立てかけてあるポスターカレンダーを見ると日付は7月12日。記憶があるのは7月2日が最後だ。横にある棚の上には折り紙で出来た千羽鶴と[早く元気になってね]と書かれた無数の書置き。

 俺は[下校途中に交通事故に遭い、今は病室の白い清潔なベッドに寝かされているのだ]ということに気が付くのに少しばかし時を要した。

 ベッドの上で起き上がると俺は久しぶりに訛った肉体を動かす。色々な注射針やコードが体に延びていて、ひどく動きづらい。肉体を動かす過程で、何事も無く上を見上げる。

 そこに少女が居た。

「は……?」

 それは手の平に収まりそうな大きさの女の子で、一糸纏わぬ姿で頭上にほわほわと浮いていた。

 視線が合うと、ただ何も言わずに微笑んできた。

「はい……?」

 意識を取り戻したなら、それを知らせるために直ちにナースコールを押さなければならないだろう。

 俺は別の意味でナースコールを押した。


「あの……手の平サイズの小さい人間が頭の上をくるくる回ってるんですけど」

「ヒヨコの見間違いだろう。車に当てられてから10日経つのにまだ見えるのか。ハハッ」

 肉体的にも精神的にも異常無し、と診断された俺に二日後に退院の許可が下りた。

 俺の頭上に舞う、手の平に納まるサイズの素っ裸の女の子。それは、俺が見たどんな人間の上にも舞っていた。

 あの時にナースコールで呼んだ看護婦の頭上には、同じく手の平サイズの素っ裸の男の子が微笑みかけてきたし、主治医のおっさんの頭上には、回りの人間の頭上にいるチビどもより少しばかし太った素っ裸の女の子。

 涙を貯めてかけつけた母親と父親の頭上には、それぞれの性別の反対の男の子と女の子が両親の感情に呼応するようにぐるぐると回り手を取り合って歓喜している。

 俺は自身の頭をぽかぽかと殴りながら病室を出ると、病院内にはあの裸のチビどもが楽しそうに駆け回っている。

 病院を出ると視界のあちらこちらに、密集しているわけではなくまばらに、それでも数多くのチビどもが高度に関係なく飛び回っている。

 その光景は幻想的で、神話でも見ている気分だった。

 頭がおかしくなりそうだった。

……なんだこれ?


 俺の頭がおかしいのか、これは幻覚なのか。そうとしか思えない。

 久しぶりに学校に行くと、普段は話すことすらないクラスイメイトからの俺の安否を気遣う言葉の数々。

 そいつらの頭上には素っ裸のチビどもの姿。もちろん四六時中どこを見てもチビどもの姿。

 もう、どうしようもなかった。頭上を向くとあの小さな女の子が微笑みかけてきた。俺は「ハハッ……」と乾いた苦笑を漏らした。

 文学部に行くと、もちろんそれぞれの頭の上にはチビどもの姿。もう、気にしないことにした。

 メンバーからは「お勤めごくろうさん」と茶化されたりもしたがそのムードはすぐに終わり、みなが読書を始めるといつも通りの安寧な静寂が訪れる。その変わらなさに安心を覚えつつ読書に耽る。今日の文学部が終わると、次の夏休み明けまで文学部はお預けだ。

 1学期最後の学校が終わり俺と社木は共通の帰路につくと、社木が俺に話しかけてきた。社木の頭上にはとても美しい、社木のように完成度の高い芸術品のような裸の男の子がいる。

「体、大丈夫?」

「ああ、ふつーに動く」

 両親が言うには、社木は俺のいる病室に毎日来てくれていたらしい。もちろんその時の俺は意識不明だったから、そんなことは知らなかった。

「なんつーか、ありがとな」

「うん。……それより、犯人は見つかった?」

「見つかってないってさ。まーいいよ」

 命があるだけマシだろうと思う。

「あ、これ」

 俺はあの時に返そうとしたミステリ小説を社木に返した。

「鞄の中入ってで無事だった」

 社木は無言でそれを受け取ると学校指定の黒い鞄に仕舞う。

 二人は歩く。

 そしてしばらくが経ち、いつもながら社木は……頭上に存在する小さな男の子に微笑みかけた。


……あの時もそうだった。いつもそうだった。なぜそういう行動を取るのか。今分かった。

「社木、これ見えるのか?」

 俺が社木の頭上に存在する男の子に指を差しながらそう言うと、社木の人形めいた固定された美しい無表情が、驚愕へと一変した。

 ごく僅かな無言の時流。

「えっ……。貴方も、見えるの……?」

 それは、長い、そして幻想的な夏休みの始まりだった。




 俺と社木は、二人では初めての道草をした。

 マンションとマンションの間にある、とても小さな人気の無い公園。そんな所にも、少数ながらあの素っ裸のチビガキがいる。太陽光はその高層建築物の隙間を抜けて公園全体を明るく照らしていた。

「多分、交通事故での脳への衝撃で閉じていた回路が偶発的に開いたんだわ」

 社木が言うには、あの轢き逃げは、見えない存在が見える存在になったきっかけらしい。

「ふーん……」

 常に俺の頭上にいる裸体の小さな女の子は、今俺の右人差し指と戯れている。

 なんとなく指先に抱きつくその少女を、手首をメリーゴーランドみたいにゆっくりと、ぐるんぐるん回す。手首を止めると少女は目を回していた。右手の平に乗っけてやる。

「で、こいつはなんなんだ。マジで」

 社木は鞄から、何度も何度も読み返されているあの小説を取り出す。そして俺に両手で掲げる。

[フェアリーテイル]

「よーせい!」

 その時の社木は人形のような無表情でもなんでもなく、嘘偽りの無い純粋な、無邪気な笑顔だった。


 幻想的に舞うその姿。天使みたいな羽や輪は見えないが、なるほど妖精だ。

「この本の作者、アレシアさんはこの本当の世界が見えていたらしいの」

「それで小説を執筆ね」

 疑いようが無かった。社木だけが見えていたのなら、社木はただの電波女だったのかもしれない。そのアレシアとやらが描いた物語とたまたま一致していただけなのかもしれない。

 ただ、俺はたまたま轢き逃げに遭って、たまたま妖精が見えるようになった。俺だけなら「これは後遺症的な幻覚」と判断を下せるが、その「たまたまのたまたま」を、今、俺は社木と共有している。

 疑いようの無い事実だった。

「妖精はね、私たちの守護霊みたいな存在なの。全員の頭上にいたでしょ。ほとんどの場合、妖精の性別は人間の性別の反対」

「ほとんどの場合?」

「体は男の子でも女の子だったり、その逆だったり。人間の外見上の性別と言うより、心の性別かな」

「へー……」

 社木は無表情ではなく笑みを浮かべながら語っていた。本当に、楽しそうに。

「じゃー、あいつらは?」

 俺は公園を飛び回る妖精たちを指差す。

「死んだ人間の妖精。妖精の寿命は人間より長くて、任期?を終えた妖精は存在が消えるまでこの世界を楽しむの。あと、妖精たちには負の感情が無いの。みんな、楽しく生きてるの」

「自由気ままだな」

「そうね」

 俺は今の社木の嬉しそうな表情など、あの上を見て微笑む以外のシーンで、しかも俺に向けられていることなど今まで無かったので、心の中では結構ドギマギしている。

 ただ、心の機微が表情に表れない性格らしく(いわゆる冷めた奴)、俺はいつも通りの表情だ。

「あの……私、今、本当に嬉しいの。私以外にこの世界を見れる人がいなかったから。ずっと、一人ぼっちだったから。この世界を共有出来る貴方がいれくれて、今、本当に嬉しいの」

「うん。まぁ、そうだな」

 流石に照れくさい。無意識に頭を掻く。

「……これからも、この世界を、いつでもいいから一緒に見てくれる?」

「オーケー。いつでもな」

 俺は男を見せておいた。

 社木は、無邪気な笑顔を。太陽すら越える眩しさだった。

「ありがとう!」




 俺と社木。特に今まで接点の無かった俺たちに生まれた、妖精が見えるという、幻想の共有のおかげで夏休みはよく二人で出かけた。




 あの浜辺にいる妖精達がすごく可愛いから見に行きましょう。

 俺と社木はちょっと遠い砂浜まで出かけた。

 微笑みを浮かべるちょっと際どい水着姿の社木は、可愛かった。

 思わず携帯で写真を撮りたくなったけど、「恥ずかしいからダメ!」って言われた。


 あの山の神社にいる年老いた妖精はすごい物知りだから色々教えてもらいましょう。

 妖精は喋れない。基本的にボディランゲージ。そのボディランゲージすら行う妖精は滅多にいない。

 ただ、その数千年を生きた妖精は[文字が書ける]らしく、俺たちは本当に興味津々でその文字を追っていった。

 俺と社木はそれからというものの、意味の無い雑学クイズをお互いに出し合ったりしている。


 あの田んぼのあたりに住んでる妖精がしている遊びを見に行きましょう。

 白いワンピースと麦藁帽子を被った社木は、それだけで絵になるような、はっと息を呑むような光景だった。

 思わず携帯で写真を撮らせてもらった。「いいよ」「サンキュー」社木のダブルピース。

 意味も無く携帯を開け、待ち受けに映る社木の笑顔を見るたびに勝手に俺の頬が緩んだ。


 妖精の見える世界は俺にとっても趣深いものがあり、素晴らしく幻想的で、何より見ていて飽きない。

 ただ、それでも俺にとっての妖精世界は『社木との幻想の共有』という役割が大部分を占めていた。それでしかなかった。もちろんそんなことを本人に言わないけど。


 社木の無邪気さに、俺の心は溶かされていった。

 今までは美しい人形という印象しか受けなかった社木は、俺といる時は本当に別人のようだった。

 俺と社木の頭上にいる妖精が楽しそうにじゃれあっていると、人並みに微笑み、いたずらをした妖精に、人並みに怒る。

 今では社木は、俺に心を開いてくれている。

 ただ、それまでは? 妖精にしか心を開いてなかったのではないか?

 理由を聞くと、彼女は人並みに自嘲的な笑みを浮かべて、両親が居ないの、と言った。

 夫の蒸発。妻の過労死。死ぬ間際の妻の頼みで引き取られた先は親戚の家。邪魔者扱いらしく、その家の子供との差別された待遇。

 全てを受け入れていていたらしい。だって、世話をしてくれているだけ有難いから、と。

「湿っぽい話してごめんね」

 社木は笑っていた。笑いながら泣いていた。

 俺は右手を上げて溜まる水滴をそっと掬おうとした。でも、社木は「いいの」と言った。

「これは、悲しいから泣いてるわけじゃないの。嬉しいから泣いてるの。貴方と出会えて、本当に嬉しいの」




 9月1日。二学期が始まった。

 俺と社木は当然のように一緒に登校し、いつの間にか6時間目のチャイムが鳴り終わり、文学部へ。

 久しぶりの部活の友人たち(メンバー)と談笑。

 すると俺と社木の仲の良さに探りを入れてきた一人。

「お前ら付き合ってんの?」

「付き合ってない」俺はとっさに言う。照れ隠しと受け止めたのか、茶化すみんな。やめろ恥ずかしい。社木は顔を少し赤らめて、下を向く。


 過ぎない夏と妖精の見える帰り道。どこまでも続く空に、どこまでも見える妖精。いつの間にか日常と化した非日常。

 俺の横を歩く今日の社木は下を向いている。俺が社木に合わせる、二人一緒の歩幅。

 道を曲がって少し歩いたところで、ふと社木は立ち止まり上を向き空を眺める。俺は少し歩いて立ち止まり、振り返る。

 社木の頭上の妖精は他の妖精と戯れていた。

「……どうした?」

「……。私……貴方のことが……。……」

 頬を染めながら口をぱくぱくさせる。言葉を紡ぐことが出来ず、途中で口を真一文字に閉める社木はうつむいた。背筋がむず痒くなるような、じれったい時間の空白。

——お前ら付き合ってんの?

 告白することによって、もしかしたら訪れるかもしれない関係性の崩壊を恐れている。たまらなくそれが怖い。

 夏休みを共にした社木はそんなやつだった。

 だから俺は、

「俺は社木のことが好きだ」

 両思いだってことを伝えてやる。社木を安心させてやる。

 世界から音が止んだ。

 社木は、うつむいたまま。

 しばらくするとうつむいたまま俺に向かって歩く。俺の顎の下に社木の頭が当たる。当たってもかまわずに社木は体を俺に押し付けてくる。

「私も、好き」

 俺の体を社木は両手で強く締め付ける。そこでやっと上を向く。俺の目を見つめる。顔はくしゃくしゃで、涙はぽろぽろと。

「ずっと……好きでいてくれる? 私のこと、見捨てたりしない? 

 私、貴方と出会うまで、ずっと人形だった。妖精だけが私の全てだった。人形みたいって、みんなには気持ち悪がられた。

 でも、今の私は人形じゃない。貴方がいるから。

 だから、……ずっと好きでいてくれる?」

 俺は間髪いれずに言った。

「ああ」 

 俺と社木は初めてキスをした。

 一瞬だけ、唇と唇が触れ合った。

 社木の甘い香りと涙の塩味がした。


 一瞬だけ、唇と唇が触れ合った。

 それだけの時間しかなかった。

 突然クラクションが鳴る。世界に音が戻る。俺は唇を離し前を見る。

 曲がり角から飛び出してきた車。俺と社木は道路のど真ん中。

 俺は社木を真横に突き飛ばす。

 車がすぐそこまで迫っていた。記憶はそこまでだった。

 俺の世界が真っ暗になった。

 

 








 カーテンから差す幽かな光がちょうど俺を包み込んでいるようだった。

 壁に立てかけてあるポスターカレンダーを見ると日付は9月12日。記憶があるのは9月2日が最後だ。横にある棚の上には折り紙で出来た千羽鶴と[早く元気になってね]と書かれた無数の書置き。

 俺は[下校途中に交通事故に遭い、今は病室の白い清潔なベッドに寝かされているのだ]ということに気が付くのに少しばかし時を要した。

 ベッドの上で起き上がると俺は久しぶりに訛った肉体を動かす。色々な注射針やコードが体に延びていて、ひどく動きづらい。肉体を動かす過程で、何事も無く上を見上げる。

 そこに少女はいなかった。

 見えなかった。何度も何度も瞬きして、目を凝らしても、あの素っ裸の少女の妖精は見えなかった。

 見えなくなっていた。

 意識を取り戻したなら、それを知らせるために直ちにナースコールを押さなければならないだろう。

 だから俺はナースコールを押した。




 肉体的にも精神的にも異常無し、と診断された俺に二日後に退院の許可が下りた。

 看護士や医師からは「また君か」と呆れ笑われた。

 その頭上にいたはずの素っ裸の男の子や太った女の子は、いなかった。

 涙を貯めてかけつけた母親と父親の頭上にいた男の子と女の子は、いなかった。

 病院内に駆け回っていたはずの裸の妖精どもも、病院を出ると地面から天空まで見渡す限りいたはずの裸の妖精どもも、何も見えない。そこにあるのは幻想無き世界。

 

 交通事故での脳への衝撃で閉じていた回路が偶発的に開いたのなら、その逆もしかり。

 考えてみれば、ただそれだけの話だった。


 久しぶりに学校に行くと、普段は話すことすらないクラスイメイトからの俺の安否を笑いながら気遣う言葉の数々。二回の轢き逃げは心配を通り越して会話のネタになっていた。

 そいつらの頭上には素っ裸の妖精どもの姿はない。四六時中どこを見てもいたはずの妖精は一匹も見えなかった。

 もう、どうしようもなかった。頭上を向くと、何も無い教室の天井。微笑みかけてくれたあの小さな女の子は、もう見えない。俺は「ハハッ……」と乾いた苦笑を漏らした。

 文学部に行くと、もちろんそれぞれの頭の上にはチビどもの姿はない。もう、気にしないことにした。

 メンバーからは「またお勤めごくろうさん」と茶化されたりもしたがそのムードはすぐに終わり、みなが読書を始めるといつも通りの安寧な静寂が訪れる。その変わらなさに苛立ちを覚えつつも、読書に耽る。気を紛らわせたかった。

 最終下校時刻になり、社木と手を繋ぎながら帰路につく。

 社木はずっと心配してくれていた。毎日ずっと病室に来てくれていた。教室でもずっと心配してくれた。いつの間にかクラス公認カップルになっていた。

「轢き逃げ犯は?」

「いや、今回は道路の真ん中にいた俺たちが悪い。仕方ないさ。まぁこっちは元気だし。気にしないよ」

「うん」

 俺の上っ面な言葉で社木は笑顔を取り戻す。無邪気に微笑む。その笑顔は俺の心に突き刺さっていた。

 社木の頭上にいた、とても美しい、社木のように完成度の高い芸術品のような裸の男の子は、今はいない。

 社木には、もう妖精だけじゃなかった。『同じ幻想を共有している俺』という存在がいた。今はいない。

 幻想の『フェアリーテイル』は消えた。

——妖精が見えなくなった。

 そのことを知れば、どれだけ社木が悲しむだろうか。傷つくだろうか。泣き叫ぶのだろうか。絶望するだろうか。

 また人形になってしまうのだろうか。

「見て、太陽と一列に飛ぶ妖精。すごい綺麗」

 社木は無邪気に指差しながら俺に語りかける。その右人差し指が示す先は、何でもない、ただの太陽。妖精は見えない。

「綺麗だな」

 社木はそんな俺との幻想の共有を再確認し、はにかみながら俺の右手に抱きついた。

 俺は社木のことが本当に好きになっていた。俺がどうなろうとも社木だけは守りたい。社木の笑顔を消し去りたくない。また人形に戻って欲しくない。

——だから俺は社木をこれから騙して生きていくことになるだろう。

 俺は偽りの『フェアリーテイル』を語り続けることになるだろう。

 いつかそれがバレる時が来るのだろうか。俺はそのことを考えないようにした。

 分かれ道がきたところで「また明日な。バイバイ」「ばいばい」と口にする言葉。

 俺は時折振り向き、笑いかけてくる社木を、いつまでも眺めていた。




END

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