九・一
飛行機で帰ってきて、真っ先にあおちゃんの部屋に侵入した。
大きく息を吸う。鼻腔をくすぐるなつかしいにおい。波立っていた神経が落ち着く。
何年ぶりだろうか。ぱっと見回した印象、風景は昔とあまり変わっていない。ただ、本棚の密度はずいぶん上がっている気がする。
机に飾られている写真立てが目に入る。おれたちがまだ小学校低学年の頃、一緒にハイキングに行ったときの写真だ。
「なつかしいな」
小さな四角の中から満面の笑みを向けてくるおれたち。
タイムマシンに乗り続ければこのころに戻れるだろうか。一瞬考えて、首をふる。そんなことは不可能だし、よしんばできたところで16歳のおれに取れる手はない。
それに、このころにはすでにあおちゃんは虫を潰していた。殺人衝動に苦しめられる未来は避けられないだろう。
くだらないことを夢想している場合ではない。情報収集をしなければ。時間はあまりない。
パソコンを開く。
「パスワードは……スマホとおなじか」
不用心な。あおちゃんは昔からこうだ。転んでからの立て直しは抜群に上手いが、そもそも転ばないよう杖を持つということをしない。そんなだから、昔から自転車の運転も荒くて、よく事故を引き起こしそうになっていた。
ブラウザの検索履歴、フォルダ、アプリと片っ端からアクセスしてゆく。
「……誰これ」
引っかかったのは、ラインだった。
「常陸賢希(ひたち・けんき)?」
ピアノのアイコンが目についた。
あおちゃんの交友関係はあまり広くない。だから、彼女と仲の良い人ならだいたい名前は聞いたことがある。その自信があったからこそ、知らない名前に戸惑った。
躊躇なくそいつとのトーク画面を開く。
心臓が跳ねた。
『最近、殺人衝動が強くて』
あおちゃんからこんなメッセージを送っていた。
あおちゃんはおれ以外に、殺人衝動の告白をしていない。そのはずだった。
おれの知らないところで、知らない人間――しかも、おそらくは男――に、当たり前のように話していた。その事実が、腹の底に重石のようにのしかかった。
『今週末はいかがですか』
常陸の返事は、そんなそっけないもの。
昨日の朝5時になされたらしい四十分の通話。これが直近の連絡のようだ。
具体的なやりとりは。最初から見ようとスクロールして、絶句した。
3年前からつながっていた。
スクリーンを突き破りたくなる衝動をこらえ、読み進めていく。
ほとんどが次いつ会うかどこで会うかというやりとりだった。
ひとつだけ朗報があった。
そんなに仲が良さそうではなかったのだ。互いに敬語でやり取りをしており、スタンプなどもない。事務的なやり取りという印象だ。
それにしても、
「……具体的な話が一個もでてこねぇ」
思わずつぶやく。
信じがたいことに、どれだけ読み進めても、彼女らの感情が一切出てこなかった。
『5月30日カラオケいかがですか』『はい、問題ありません』『では13時に』
事務的だ。だいたいカラオケで会っているようだが、会ったあとの楽しかったですみたいな言葉はひとつもない。
頻度もまちまちだ。早いときは一ヶ月たたないうちに次の予定を立てているが、とおいときは半年以上あいている。
ざっと数えたところ、三年間で十回以上は会っているらしい。
文面上でふたりが表情を見せることは一度もなく、ただ簡素な言葉で会う約束を取りつけているのみ。
目的も読み取ることができない。
はたしてなにをしていたのか。
とてもふたりでカラオケを楽しむというふうには見えない。密室を利用して悪いことをしていたのか、あるいはカラオケがなにかの隠語なのか。
「そもそもこいつ誰なんだよ」
もしかしたら本名でSNSをやっているかもしれない。グーグル先生に訊いてみる。
インタビュー記事がヒットした。ざっと流し読みしてみたところ、どうやらプロの作曲家らしい。アイコンがピアノとはいえ、さすがにただの同姓同名だろう。そう思いつつ、いちおうインスタのアカウントを覗いてみた。
「……もしかしてこいつなのか?」
いくつかあげられている写真の中に、見覚えのある光景がうつりこんでいた。おそらく市内、それも徒歩圏内だ。
どちらにせよやることは変わらない。
おれは、あおちゃんのラインからメッセージを送った。『今日会えませんか』
五分ほどして既読がついた。『いいですよ』
そっけない返事だ。
それから二、三やりとりをした。
待ち合わせ場所はファミレスを指定した。疑われないためにはカラオケにすべきなのだろうが、なにしろ初対面で、こちらはあおちゃんを騙って行くのだ。いざというとき、衆目があり、逃げられる環境を構築しておくべきだろう。
インタビュー記事を流し読みした印象だと常識人っぽいが、外面で計測できることなど、仮面をかぶる上手さだけだ。
待ち合わせ時刻は二時間後に設定した。
あまり時間はないが、ギリギリまで情報収集をしたい。そう考えてトークページを閉じる。
もうひとり、知らない名前を見つけた。
「山崎星帆(やまさき・せいほ)……で読みかたあってるのかな」
同世代くらいの、ギャルのアイコン。
迷わず開き、絶句した。
あおちゃんの殺人衝動について、当たり前のように話していた。
あわててトークを遡る。上限にはすぐにたどり着いた。
半年ほど前だ。
こちらのやりとりもまた、基本的にそっけない。
『わたしの父親を殺してほしい』
そんなメッセージが目についた。
一か月ほど前の深夜二時に送られていたものだ。
その後のやり取りを確認したかったが、残念ながらその日は三時間にも及ぶ通話記録以外なかった。
「くそ」
毒づいてトーク画面を消す。
いちおうこちらの名前もググったが、とくにヒットするものはなかった。
なにかほかに情報はないだろうか。パソコンを閉じて周囲へ目をやる。
あおちゃんは殺人衝動を両親にも伝えていない。だから犯罪心理学だとかといった、あからさまな書籍はすべて電子で購入していた。教科書と漫画と、すこし小難しそうな本で埋め尽くされた本棚。
ベッドに腰掛け、数瞬ためらってから寝そべった。あおちゃんのにおいがまだ残っている。
――脳裏に、今朝の首吊り死体がよぎった。
なぜ。
なぜ自殺したのか。
いや、あれははたして、ほんとうに自殺だったのだろうか。
自殺に見せかけた他殺という線もあるのでは。
ベッドの上で右へ左へゴロゴロ転がりながら、現実逃避気味に思考を巡らす。
あおちゃんは死を運命づけられている。そう考えていた。
落下。交通事故。何度やり直しても、死ぬときはかならずこのどちらかだった。当然といえば当然だ。一般人が偶発的に死ぬとしたら、ほかの選択肢はない。
だがあおちゃんは、ここにきて新しい死にかたをした。
そういうこともある、と流して良いのだろうか。良いのかもしれない。
だが、心の奥底に妙に引っかかるものがあった。
だからこうして部屋に侵入し、パソコンを覗くという、明らかに一線越えた行為をしているわけだ。正直、次の周でまともにあおちゃんに顔向けできる自信はない。
ともあれ。
今回は突発旅行を企画し、親抜きで北海道に行くという非日常だった。ならば、いつもと違う死にかたをしたのは単にその影響という可能性もある。
だが、なればこそ、より一層首吊りという死因が理解できない。あおちゃんに殺意を抱くような人間があの場にいるわけがないし、自殺に踏み切るようなメンタル状態ではなかったはずだ。
わからない。
ゴロゴロと転がる。ベッドの端から端へ。あおちゃんもよくこうしていると、以前話していた。不思議と落ち着く感覚があった。
「!?」
勢い余った。ベッドの端、ギリギリを攻めた身体は支えを失い、そのまま地球に引っ張られた。鈍い音を立てて、腹の底が痛みを訴える。
直後、がちゃりと、扉を開く音が下のほうから音が聞こえた。
やらかした。
心臓が早鐘を打つ。
ぎしり、ぎしりと、ゆっくり、確実に階段を登ってくる音。
まずい。まずいまずいまずい。あおちゃんの両親とは面識は当然あるが、そういう問題ではない。こんな泥棒みたいなマネをして、素直に帰してもらえるわけがないのだ。
とにかく逃げるしかない。窓を開けて、ひといきに飛び降りる。
一瞬の無重力。全身の毛が逆立つ。
重たい音をたてて着地。きしむ関節。
悲鳴を押し殺し、ダッシュで逃げた。
ファミレスにはあえてすこし遅れていった。なにしろ、新たに連絡を取る手段がないのだ。むこうがおれを知らない以上、先に入ってもらって、顔を確認してから対面に座るしかない。
店外から中を覗く。
……見当たらない。
悪い予感に駆られながらうろうろと周囲を歩く。
「おまえがみゃーくんだな?」
タバコをくわえた男が、声をかけてきた。
一瞬、心臓が止まったかと思った。
が、動揺を悟られるのが癪で、おれは平静を装って答えた。
「どうも。あおちゃんがお世話になったようで」
常陸賢希。まさにその人だった。
「俺はパフェとドリンクバー。お前は?」
「ドリンクバーだけでいいっす」
「ふむ、スペシャルハンバーグ定食を奢ってやろう」
おれの反論を待たずタッチパネルで注文をする。
「あんた……常陸さんはあおちゃんのなんなんすか」
鳩が豆鉄砲をというのはこんな顔をいうのだろうか。常陸は考えたこともなかったとでも言いたげな表情をして、長い沈黙の果てにかろうじて答えた。
「なんなんだろうな」
「は?」
コーヒーをすすって、彼は続けた。
「悪いが、言語化ってやつが苦手でね。歌でなら表現できるんだが、聴くか?」
「結構です」
食い気味に答えてストローに口をつける。コーラの炭酸が脳内で弾ける。おれはため息を飲みこんで問いを続けた。
「質問を変えます。おれが来るってわかってたんすか?」
「死人は来れないだろ?」
なんてことないふうに言って、運ばれてきたパフェにスプーンを突き立てた。墓標になる前にぐちゃぐちゃとかき混ぜられる。
「なんであおちゃんが死んだって知ってるんですか」
「お、ほんとうに死んだのか。カマかけしてみるもんだ」
満足げに言って、パフェをほおばる。
「どんな死にかたしたんだ?」
「……なぜそう思ったんです」
質問を無視して問う。カマかけするにしても、ある程度そうだろうと予測していなければできないはずだ。
常陸はつまらなさそうにコーヒーで喉を潤して、言った。
「ついに殺人に踏み切ったからだよ」
「………………どういうことですか」
「お前も知ってんだろ。仁本が殺人衝動に苦しんでたって。で、ついにやったんだってよ」
「…………………………………………は?」
ガツンと、頭を思いっきり殴られたかのような衝撃だった。
知らない。初耳だ。脳みそがグラグラと揺れる。
信じられない。とても信じられる話ではない。だって、おれはあおちゃんからそんな話をひとつも聞いていないのだ。
けれど、目の前の男はあまりにも平然としていて、嘘のようにも、こちらの反応を楽しんでいるようにも見えない。「これウマいなぁ」なんて言いながらパフェを口に運んでいる。
おれはうつむき、拳を震わせ、深く、深く息を吐いて、絞り出すように言った。
「どういうことですか」
「なんだ知らなかったのか。そら悪いことしたな」
「なにがあったのか、詳しく教えてください」
「そう焦るな」
常陸はそう言うと、タッチパネルで同じパフェを追加注文した。
同時におれの目の前にハンバーグがやってきた。
「ほら、冷める前に食え。で、どこから話したらいい?」
「イチから最後まで」
「欲張りさんめ。食後のデザートはまた注文してやるよ」
常陸はコーヒーをすすり、語り始めた。
「はじめて会ったのは三年くらい前だ。そのころの俺は作曲に役立てるために殺人犯とコンタクトを取りたくて、ツイッターやインスタで探してた。で、そこで見つけたのが仁本だ」
「……あおちゃんはそのころにはもう殺人を?」
「いや、まだ一線は超えてなかった。ただ、殺人衝動に苦しみ悶える姿もまた作曲のアテになると思って、こっちからコンタクトを取った」
「良い趣味してますね」
「だが俺の音に救われるやつがいるのも事実だ」
誇るでもなく淡々と言う。
「あおちゃんと話してどうだったんですか」
「興味深かった。おかげで、かなり理想に近い曲を描けるようになった」
配膳ロボットが新たなパフェを運んでくる。彼は受け取って、スプーン突き立てて続けた。
「俺は殺人衝動の話を聞くために。仁本は誰にも吐き出せない苦しみを和らげるために。利害の一致から、俺たちは定期的に会うようになった」
「だいたいカラオケだったのは、話を聞かれないためですか」
「こんなファミレスで話してたらはた迷惑だろ?」
スプーンで周囲を指し示す。平日夕方とはいえ、家族連れで賑わっている。
「仁本は安定期と不安定期をひたすら繰り返していたが、最近は特に不安定だった。毎日のように人を殺す夢を見ると言っていた」
「そのわりに連絡頻度は高くなかったみたいですけど」
「同じ話を何回聞いたって作曲の糧は積み上がらん。興味ない話を聞くのはカウンセラーの仕事だ」
会う頻度がまちまちだったのは、メンタル状態だけでなく、単純に新しい土産話があるかどうかという部分も大きかったのかもしれない。
「仁本は数ヶ月前、好機がおとずれたと喜んでいた」
「好機……?」
イヤな予感が背筋を這う。
「同級生から、父親を殺してほしいと依頼を受けたんだと」
あおちゃんの部屋で見たラインを思い出す。山崎星帆から、そんな文面を受け取っていた。
「みゃーくん。お前は、仁本が殺人衝動に抗っていた理由を知っているか?」
常陸の問いに、一瞬喉が詰まる。
あおちゃんがどうして殺人衝動を解消できないのか。
言われてみると、考えたこともない。人を殺してはいけないだなんて、価値観の前提みたいなものだから。理由なんてない。人を殺してはいけないのは人を殺してはいけないから。そんな馬鹿の理論を当たり前のように受け入れていた。
「正解は、警察に捕まるからだ」
「……」
言葉を失う。
道徳に反するから。たぶん、そう答えてほしかった。
常陸は鋭い目を細めて続けた。
「被害者家族が望んでいなくとも、司法は犯人探しをやめない。そして日本の警察は優秀だ。後ろ盾もない素人では間違いなく捕まる。そこであいつは考えた。殺人欲求を満たしつつ捕まらずに済む手段を。未必の故意だ」
未必の故意。聞いたことがある。
たしか、百パーセントではないがうまくいくと死ぬかもしれないという、確率に依存する殺人だ。足がつきづらく、仮に見つかったとして、殺意を認められにくいため罪も軽くなるという。
「あおちゃんは、同級生の父親を殺したんですか?」
「ああ。一昨日な」
「あなたも、そこにいたんですか」
「まさか」
驚いたように声をあげる。
「俺は音楽家だ。創作の糧にはしたいが、共犯者になる気はない。終わってから電話で聞いたんだよ。――未必の故意では満足できなかったってな」
半液状になったパフェを持ち上げ、ジュースのように飲む。
「……もしかして」
「仁本は未必の故意で父親を殺害したあと、依頼者にも手にかけた」
血の気が引く、とはこういう感覚をいうのだろう。
「とまぁ、そんな話を一昨日の朝五時に聞いて、どうなったかなって思っていたらお前から呼び出しを食らった。これが、俺の語れるイチから最後までだ」
「……なんであおちゃんが死んだのを知ってるのかってまだ聞いてないですけど」
「悪あがきすんな。もう察してんだろ?」
コーヒーカップを手に、席を立ち、言った。
「あいつは、警察に捕まるより自殺のほうがマシだと判断したんだよ」
ドリンクバーへと歩いて行った。
残されたおれは、ただうなだれるしかなかった。
家族連れの賑やかな声が、ずいぶん遠くに聞こえた。
タイムマシンに乗るべきなのだろうか。
若桜の研究所前に腰を下ろして考える。
あおちゃんを死の運命から引き剥がさなければ。そう思って、何度も地獄をくぐり抜けてきた。
初手から間違えていた。
あおちゃんを死に導いてるのは運命ではなく、あおちゃん自身だった。
「こんなのってありかよ……」
つぶやく。
いったいなんのために。文句のひとつでも言ってやりたくなるが、聞いてくれる人はいない。
スマホで時間を確認する。タイムマシンに乗るなら、もうそろそろ限界だ。けれど、足に力が入らない。
あおちゃんが自殺を選んだなら、おれにそれを止める権利なんてあるのだろうか。
止めることは果たして良いことなのだろうか。
わからない。
あおちゃんが人を殺したという事実は覆せない。タイムマシンが完成したのは、あおちゃんが殺人を完遂したあとなのだから。それより前には戻れない。
おれはどうすべきなのだろうか。
戻ってあおちゃんの自殺を止めるべきか、このまま死なせておくべきか。
おれは、あおちゃんが好きだ。あおちゃんの幸福を真に願っている。
どちらがあおちゃんのためになるのか。
……わからない。
わからないが、ひとつだけ、戻りたい理由が、喉の奥に小骨のように引っかかった。
――あおちゃんが、おれよりも、他人を頼っていたことに、一言文句を言ってやりたい。世界で一番、あおちゃんを想っているのはおれなのに。そう文句を垂れたい。
だから、おれは立ち上がった。何度目になるかわからない研究所の扉を開け、そうして、うんざりする顔にむけて言った。
「乗せてくれ」
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