幕間

「あたし、人を殺したいみたい」

 14の春。おれにのみ向けられた言葉。声の調子から、ああこれは曲がらないなと察した。

 あおちゃんは頑固だ。こうと決めたら、テコでも曲げない。自分の決断を圧倒的に信頼し、あらゆる誘惑を跳ねのける。

 おれがあおちゃんを好きになった、六歳の春。彼女は毎日同じ服を着ていた。ピンクの、シンプルなシャツだ。色が特別好きだったというわけでも、おしゃれな服だったというわけでもない。ただ、彼女の脳内でなにかがカチリとはまったようで、その服以外の着用を断固として拒絶した。こだわりは蝉の季節を超え、紅葉を抜け、雪がちらつくようになってもまだ続いた。彼女の両親は大層参ってしまい、最終的に、まったく同じ服を何着も何着も買い足すことで、なんとか洗濯ローテーションを回した。年が明け、二度目の桜が散り始めたころ、前触れなく、あおちゃんは黄色の服を手に取った。その日以来、大量に残されたピンクの服に袖を通すことは、一度もなかった。

「あおちゃん、左利きになりたい」そう言いだしたことがあった。小学三年生のころだ。彼女はそれから、あらゆる行動を左手で行うようになった。箸を持つのも、字を書くのも、ボールを投げるのも。どうせすぐイヤになってもとに戻る。周囲の大人の楽観的な考えは、徐々に塗りつぶされていくこととなる。最初はぶるぶると震えてろくになにもできなかったが左手が、一か月、二か月、三か月と継続していくうちに、どんどんと器用になっていった。半年も経ったころには、右手とそん色ない状態になった。そうして、左利きとして生活できるレベルになったところで、彼女は左手を使うことをやめた。理由をどれだけ聞いても、可愛らしい笑顔を浮かべるのみで、口を割ろうとはしなかった。

 この手の話はほかにも、山ほどある。ブロッコリーを食べるのをやめたり、十キロもの道のりを単身走破したり、席替えを断固拒否したり。そのたびに両親を、周囲の人物をハラハラさせたが、本人はケロっとして、持ち前の可愛らしい顔立ちで許されてきた。

 そんなだから、14度目の桜舞い散る季節、マリカー中にサラリとなされた殺人衝動の告白は、おれの脳を大層揺さぶった。

「虫を殺すのが好きなんだと思ってた」

 おれは、平静を装って言った。ヘタな反応をして嫌われたくなかった。画面では、おれのクッパが釣り竿で釣られていた。

「この間、映画を見て、やっとわかったの」

 彼女のヨッシーが、赤甲羅を放つ。

 どのくらい前からか。おそらく物心ついたころからだろう。あおちゃんは、よく虫を潰していた。

 アリにはじまり、ダンゴムシ、ミミズ、バッタ、コオロギと、片っ端から潰していた。感触が好きなんだと言っていた。

 あおちゃんの両親はよく怒っていた。命を大事に。自分がされてイヤなことはしない。どこかで聞いたような道徳観で説教していた。だから、彼女は両親に隠れてやるようになった。

 おれの前では隠さなかった。なにも言わないから。

 ――ほんとうはあおちゃんが虫を潰す姿を見たくはなかったけれど、言わなかった。口にしたら、おれもあおちゃんの外側に追いやられると思ったから。

「誰を殺すのさ」

「誰でもいい」

「そんなことある?」

「食パンの袋を開けて、一枚取り出すとき、どれにしようか迷う?」

 あおちゃんは一着でゴールし、大きな青い瞳をこちらへ向けた。

「みゃーくん。あたし、どうしたらいい?」

 まだ12歳のおれに、適切な返答が思い浮かぶはずがなかった。

「あたし、人、殺したくないよ」

「殺したいのに?」

「うん」

 どうして殺したくないの。問いかけようとして、言葉が喉に詰まった。

 おれは、どんな答えが欲しいのだろうか。道徳的な理由なら納得するのか。警察に捕まりたくないからだと答えられたとして、なにを言えるのか。ドン引きせずに対応できるだろうか。

「……」

 自信がなかった。だからなにも言わず、黙々とクッパを操作した。母親でも乱入してきて、この話題がうやむやにならないだろうか。そんな都合の良い展開に期待したが、当然そうはならなかった。現実はいつも冷たい。

 あおちゃんは黙って画面を見つめ、おれは口を閉じたまま操作した。かろうじて最下位を免れ、コントローラーを床に置く。

「あおちゃん。……おれの首、絞めてみる?」

 声が、すこし震えていたかもしれない。

 怪訝そうに目を丸くするあおちゃんに、言い訳するように続けた。

「殺す真似をしてみたらどうかなって」

 死なない程度に殺す。そうすることで、彼女に巣食う殺人衝動とある程度付き合っていけるようになるのでは。そう思っての提案だった。

「――うん。いいね」

 そう答えたあおちゃんの表情を、なんと表現したら良いのだろう。嬉しいようで、哀しいようで、色っぽくて、怒っているようにも見えた。感情がなにも入っていないようにも思えた。

 細く、しなやかな指がおれの首にからみついた。

 背中に走る、ぞわりとした感触。

 あおちゃんは微笑をうかべておれを押し倒した。カーペットの上、おれに馬乗りになって、獲物を見つけたヘビのような目で見おろす。

「がっ……」

 細い指のどこからそんな力が出るのか。あおちゃんの冷たい手が、気道を、頸動脈を潰す。窒息の苦しさと、ある種の気持ちよさ。

 あおちゃんはなにも言わない。喉ぼとけに関節を食いこませる。

 髪の先から、ほのかに良い匂いが漂ってくる。最近トリートメントを新しくしたのだと話していた。

 背徳的だ、と思った。

 そういう趣味があるわけじゃない。ただ、いつか死ぬ日がくるなら、こうして、あおちゃんに殺されたいと思った。

 呼吸が止まり、血流が阻害され、心臓が早鐘を打ち、頭の中に霧が立ちこめる。さーっと、どこからか音がする。

「  」

 あおちゃんの口が開く。なにかを言っている。それはわかったが、おれの耳はもう、彼女の声を聞き取ることはかなわなかった。

 ――気がついたら、あおちゃんに頬を叩かれていた。

 舌がピリピリと痺れる。ああ、気を失っていたのか。彼女の揺れ動く瞳から察する。

「みゃーくん! 大丈夫!?」

「んっ……へいき」

 なんとかそう答えると、あおちゃんは「はあ~~~~~~~~」と深く息を吐いた。

「死んじゃったかと思った」

「おれは死なないよ」

 安心させるようにうそぶく。

「だから、まあ、いつでもいいよ。人を殺したくなったら、またおれの首を絞めて」

「……わかった。ありがと」

 その日以降、おれとあおちゃんの、危険で、背徳的で、すこし艶めかしい行いは、現在に至るまで続けられた。

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