みやこおち
しーえー
一
「わたし、世界一優しい人になりたい」
フェンスの向こう。屋上の端に座るあおちゃんは、白い息とともにそう言った。
高い日差しの下、木枯らしが吹きつけて、長い黒髪がはためいた。隙間からのぞく耳に、ピアスがひとつ、ふたつ。
風のやむのを待って、おれは口を開いた。
「いまの世界一って誰?」
「さあ。きっと、誰も知らない人なんだろうね」
そう答えて、すこしだけ哀しそうに笑った。
赤のリボンが胸元で輝く。三年生の証拠。あおちゃんにはこの色が一番似合う。
おれたちは、学年こそふたつ違うが、いわゆる幼馴染というやつだ。
家が近所で、うちの父親の会社であおちゃんの父親が働いている関係で、物心つく前から仲が良かった。公園で遊んだり、互いの部屋でゲームをしたり、漫画を貸し借りしたり。
いつからあおちゃんのことが好きだったかは覚えていない。たぶん、最初から好きだったと思う。
「なんで優しくなりたいの」
「わたし、博愛主義者だから。全人類を幸福にしたい」
「優しさだけでなんとかなる話かなあ」
「うん。だから、ただの願望。流れ星に唱えてるだけ」
柔らかい声。青空を眺める彼女の表情は、おれからは見えない。
あおちゃんは学校で孤立している。
実際のところは知らない。ただ、たまに教室の前を通りかかったときとか、廊下ですれ違うときとか、あおちゃんが誰かといるのを見たことがない。
けれどそれは嫌われているとか、腫れ物扱いというわけではなく、どちらかというと、孤高という言葉に近かった。
ストレートの長い黒髪と、白い肌。おそろしいほどに整った顔立ち。つり目がちの大きなブルーの瞳。180を超える大きな体格で、空手部の部長。武闘派かと思えば勉学面も優秀で、成績は上から数えて一桁をキープし続けている。
この時点ですでに相当な威圧感だが、これだけではない。
鉄仮面。
それが、彼女を孤独に追いやる最大の要因だった。
冷静というべきか、冷徹と呼ぶべきか。なにがあっても取り乱さないのだ。困っている人に手を貸すことはあるが、自分から助けを求めることはない。無駄な会話を嫌い、静かに、足早に過ごす。涼しい顔で、ベルトコンベアーに乗るように、枠をはみ出ようとしない。
彼女の周囲は気温が数度下がると、1年生の間でも噂になっている。
そんなだから、あおちゃんは常にひとりで行動しており、そして、それで問題なく過ごせる程度には、彼女のかぶる仮面は堅かった。
「みゃーくん、あれ見た? タイムマシンの張り紙」
「タイムマシン?」
「ほら、あそこ。幽霊屋敷。今朝、扉に貼ってあったんだって」
「ああ、あの煙突の。絶対ウソじゃん」
「ね」
おれのほうを向いて、楽しげに話すあおちゃん。
これは自慢だが、あおちゃんはこの学校で、お昼休みの時間、おれとふたりでいる間だけ、素の姿を見せる。
以前、なぜ他の人に素の姿をさらさないのか、尋ねたことがある。「なんか、クールキャラのイメージがついちゃって、どうしていいか分かんなくなっちゃった」寂しにそう言っていた。
あおちゃんは昔から不器用なのだ。勝手につけられたイメージなど壊してやればいいとおれなんかは思うのだけれど、律儀で、生真面目で、他人の期待に一生懸命応えようとしてしまう。もう少し肩の力を抜いたらいいのに、とも思うけれど、これもまたあおちゃんの良さのひとつだから、難しい。
宙に放りだした足をパチパチとぶつけるあおちゃんに、おれはフェンスを隔てて言った。
「あの幽霊屋敷、こないだの透明化薬の張り紙で男子たちが押し寄せたらしいよ」
「どうだったの?」
「門前払いされたって。うちの発明品は正しく必要とするものに渡すって」
「ふぅん。わたしならもらえたかなあ」
「あおちゃん」
「冗談。冗談だよ」
おれの、少しこわばった声にかぶせるような、あおちゃんはひらひらと手を振って笑った。
「透明でも指紋や髪の毛から足がつくからね。日本の警察は舐められないよ」
「そういう問題じゃないけど?」
おれのツッコミに、あおちゃんはカラカラと笑った。
「ウソウソ。大丈夫だよ。その一線は越えないから」
「ならいいけど……。最近はどうなの?」
「落ち着いてきてるよ。この間、部屋に侵入してきた軍曹を殺したのが一番の大物かな」
「そっか」
ほっと胸をなでおろす。
あおちゃんは繊細だ。
でも、ガラスの器に、鋭い狂気を飼っている。
「みゃーくん」
あおちゃんが遠くを眺めたまま、静かに言った。
「みゃーくんもここ座りなよ」
「無理無理無理知ってるでしょ高いのだめだって」
「気持ちいいのに」
不満げに言って、あおちゃんは隣を叩く手を膝に戻した。それから、足をブラブラさせながらメロンパンを平らげた。ズコズコとオレンジジュースを飲みきり、よっこらと立ち上がり、振り向き――「あっ」ずるっと。足が滑って。身体が、向こうに。
「あおちゃん!」
とっさに手を伸ばして、でもフェンスがどうしようもなく隔たっていて。
まんまるに見開いたブルーの瞳。
彼女の顔に描かれた感情は、驚愕と、コンマ数秒後の未来への恐怖だった。
死んだ。
病院で、顔に布をかぶせられたあおちゃんの姿に、イヤでも現実を突きつけられる。
警察から、おれが突き落としたのではないかと疑われはしたが、すぐに開放された。おれが消沈していた上に、おそらく、あおちゃんの両親が掛け合ってくれたのだろう。
「あなたのせいじゃないわ」
あおちゃんの母親は、それだけ絞り出した。
表情は、見ることができなかった。
あおちゃんの家庭は円満だ。
いや。もう過去形にすべきか。
両親仲睦まじく、一人娘のあおちゃんとも良好な関係を築けていた。
最愛の娘の消えた空白は、想像もできない。
けれど、それをいうなら、おれだって負けてはいない。
初恋の人で、ずっと好きで、あおちゃんの幸福だけを願って生きてきた。半身を失ったようなものだ。
ふらふらと、おぼつかない足取りで病院を出たところまでは覚えている。どこをどう歩いたか。目の前にこんな張り紙があった。
タイムマシンあります。
あおちゃんが昼に話していたやつだ。
数瞬遅れてその意味に気づき、慌てて建物を見上げる。
幽霊屋敷。
というのが通称だが、その実なんの建物なのかは判明していない。マッドサイエンティストの研究所だという考えが最大勢力だが、ヴァンパイアの隠れ家だとか、デスゲームの館だとか、尾ヒレ背ビレひげトサカとあらゆる妄想が語られている。
「馬鹿じゃねえの」
誰に向けた言葉か。
自嘲的に笑って、張り紙の下、壁にもたれかかった。
おれは無意識下で、こんな世迷い言にすがりついてしまったらしい。今なら、新興宗教にハマる人の気持ちもわかる気がする。
ずるずると崩れ落ち、膝を抱える。コンクリートは冷たく、体温が急速に奪われる。知ったことではない。
胸がぽっかりなんて、あんな表現は嘘だ。ずっと頭の中に霧がかかっているみたいだ。現実感がなくて、でも夢の中と呼ぶにはリアルすぎて、指の先数センチ届かない場所を歩いているような感覚。
どうしよう。これから。
自問する。
あおちゃんのいなくなった世界で、おれはどうしたらいいのだろうか。
いっそあおちゃんを追っておれも死んでしまおうか。
「はぁ」
ため息。
自分が死ぬところを想像して、あまりの現実感のなさに漏れ出た。
「タイムマシン、かぁ。ほんとにあんなら、今朝に返してくれよ」
「おや、乗車をご希望かい?」
突如降ってきたその声に、ビクンとして頭を打った。
「っ~~~~~!」
頭をおさえつつ、声の方を向く。
おれの左どなりに、いたずらっぽい笑みを浮かべた白衣の女が座っていた。
暗くてよくわからないが、見た感じ、20代前半くらいだろうか。胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
「少年も吸うかい?」
「誰すか」
警戒心を隠さず尋ねる。
「はは。取って食ったりしないよ。私はただの家主さ」
「それは……すんません」
気勢をそがれ、軽く頭を下げる。
勝ち目がない。不法侵入を通報されないうちに退散しようと立ち上がると、意外そうな声がかかった。
「タイムマシン、乗らないのかい?」
「……今どき誘拐犯でももうちょいマシなこと言いますよ」
なんとかそれだけ言って背を向ける。たぶん関わってはいけない類の人間だ。
「今朝に戻りたいんだろう? できるよ?」
一歩踏み出した足が止まる。
振り向き、できるだけ冷たい目を向けて言った。
「正気ですか」
「脳をやられてしまった可能性は否めんね」
気持ちよさそうに煙をはきながら、白衣女は言った。
「少年もタバコなんて吸うもんじゃないぞ。いいことがひとつもないからな」
ならやめたらいいじゃないか。そんなツッコミを口にはせず、黙ってヤニカス女に背を向ける。
「……」
今朝に戻れる。たしかにそう言った。
十中十嘘だ。そんなうまい話があるわけがない。弱った人間に漬け込むのは詐欺師の常套手段だ。
「……」
だが。
もし。
もし万が一。億にひとつ。
ほんとうにタイムマシンがあって、今朝に戻れるのだとしたら。
「……」
「おや、帰らないのかい?」
見なくてもわかる。ニヤニヤとした笑みでこちらを見上げている。
「話だけ」
振り向いて、言った。
「話だけ聞かせてください」
「話だけでいいなんて、最近の若者は欲がないね」
おれの決死の言葉に、白衣女はそう答えた。
屋敷の中は、さながらゴミ屋敷だった。といっても、カップ麺やビールの缶で溢れているというわけではない。家庭ごみではなく、いわゆる産業廃棄物に該当しそうなものたちだ。
「足元気をつけたまえよ」
白衣女が振り向くことなく注意してくる。
脚が長いのだろう。座っていたときは気づかなかったが、おれよりもずいぶん背が高い。あおちゃんとタメ張れそうだ。ただ、肉付きは対照的で、針金のようなヒョロリとした体躯を、すり足でずるずると進めている。
「これがタイムマシンだ」
ガラクタの山々をかきわけてたどり着いたのは、人ひとり分くらいのサイズのカプセルだった
「これが?」
「机の引き出しに入るタイプを本当は目指してたんだけど、そっちはうまくいかなくてね」
改めてカプセルに目をやる。卵型だ。無色透明で中の様子がはっきり見えるが、最新モデルのベッドだと言われたら信じてしまうかもしれない。それくらいに簡素だ。
とはいえシンプルなのは内側だけだ。ひとたび外側に目を向けると、なるほどこれは電子機器なのだと理解できる。おびただしい数のコードが繋がれているのだ。
こんなに繋がれていてはどこにも行けないだろう。中身だけ転送するのだろうか。
「このタイムマシンは、君の情報を飛ばす」
「情報?」
おもわず反芻する。
「物体の時間を超えたやり取りは、データ量が多すぎて、まだできていなくてね。だから、君の身体を隅々まで読み取って、すべてデータ化し、過去に送り、向こうで肉体を再構築するんだ」
「おれ自身は過去に戻れないってことっすか?」
「そういう見方もできるね。私から言わせてもらえば、まったく同じ記憶を、肉体を、思想を持った存在を別人と呼ぶ理由はないと思うがね」
「身体だけ再現しても、心が伴わなければ意味ないでしょ」
「心なんてものは存在しないよ。君の中で揺れ動く心だとか魂だとかいうやつは、すべて脳に流れる電気信号だ。本質的に、君とロボットの間に差異なんてないのさ」
反射的に反論しそうになって、口をつぐむ。この土俵で喧嘩をしたところで勝ち筋はなさそうだし、そもそもこの議論に意味はない。
今重要なのは、ほんとうに今朝からやり直せるのかという話なのだ。
「正直、信じらんないですね。どうやって過去に情報を送るんですか」
「君は、フェルマーの最終定理を解説されて、理解できるかい?」
「できるわけないでしょ」
「そういうことさ。タイムマシンの原理を、相対性理論の基本すら知らないような少年に理解できるよう説明することは、たとえ神だろうと不可能だよ」
なんかごまかされた気はするが、実際、解説されたとして理解できるとは到底思えない。
「向こうで身体を再構築するって話でしたよね。てことは、今朝に戻ったら、おれがふたりいることになるんですか?」
「そうだね」
「タイムパラドクスはどうなるんですか。おれは、今朝から今に至るまで、未来のおれに会ってないですよ」
「気にする必要はない。かなり大雑把に説明すると、過去に戻った時点で世界線が分かれるんだ。だから、たとえ君が過去の自分と接触しようと、自分を殺そうと、いまの君が消えることはないし、記憶も変容しない」
「世界線が変わるってんなら、もし過去を改変して、……たとえば、死んだ人が死ななかったことになったとして、今のこの世界では生きてないってことですか?」
「そうだね。けれど安心したまえ。このタイムマシンは過去にも未来にも行くことができるが、どれだけ正確に時間を合わせたところで、君がこの世界に帰ってくることは二度とない。無数にある並行世界のどこかに行きつくだけ。だから、この世界がどれだけ絶望的な未来を歩もうが、関係のない話さ」
安心したまえ、と言ったかこの女。こんな話、安心どころか追い討ちでしかない。傷口に刃を立ててこれで治るよと言ってるようなものだ。
「もうひとりのおれがいる世界で、どう生きていけって言うんですか」
「隠れて生きてもいいし、殺して成り代わってもいい。すべて説明して納得してもらえる自信があるなら、もうひとりの君と共存することも不可能ではないだろう。好きにしたらいい」
そんな無責任な話があるか。
もはや怒りもわかず、ただため息が出る。
「それと、ひとつ注意点なんだがね。人間の情報を隅々まで読み取るのは、ものすごく難しいんだ。SF的マシンだが、私の技術もまだ途上段階だ。そのままでは君の身体すべてを読み取ることができない。だから、情報を収集する過程で、溶かす必要がある」
「とか……す?」
とかす。溶かすだろうか。漢字変換の候補はこれしかないが、人間の身体に対して使う単語ではない。
「ドロドロの液状に溶かすのさ。情報とは0と1の集積体だからね。重なり合っているより、液体にしたものを管に通して端から順に読み取るほうが簡単だし正確なんだよ」
「それはまたずいぶん非人道的っつーか……溶けたあとおれはどうなるんすか」
「下水道を通って処理場へ行くね」
「…………」
「だからまあ、なにが言いたいのかっていうと、もしこのタイムマシンを使うとなれば、君は、生きたまま溶けてゆく。おそらく、世界で最も残酷な処刑だろうね」
「……死んでから溶かすんじゃだめなんですか」
かろうじて、悪あがきのような質問をする。
「だめだね。死んだ君の情報を集めたところで、向こうで精製できるのは死んだ君だよ」
「いやいやそれはおかしいでしょ。溶ける段階で死ぬわけで、結局読み取るのは死んだあとでしょ?」
「鋭いねえ」
感心したように言う。
「ここも、フェルマーの最終定理でね。正しい説明をしようと思うと京極夏彦を超える厚さになってしまうんだ。多少真実に近い説明をするなら、生命を維持できるギリギリまで溶かし、のこりはその状態でスキャンするんだ」
「おれが過去に戻ったとして、この世界でのおれは完全に消滅するんですか?」
「未練があるのかい?」
「ないですけど」
両親を残すことに申し訳なさがないとは言わない。とはいえ、それだけだ。あおちゃんのいない世界に用などない。
が、あおちゃんがこの世界で生き返るわけではない。あくまでその世界線では生き延びるだけだ。
はたして、それは、あおちゃんを助けたと言えるのだろうか。
「……料金は?」
哲学的な問いに答えが出るはずもなく、ごまかすように質問を変える。
「いらないよ。ココだけの話、まだこのマシン、人間相手に使ったことがないんだ。動物実験には成功しているんだがね。だから、実証実験に付き合ってくれる人を探していたんだ」
「ここで断ったら、どうするんですか」
「どうもしないよ。私は人道主義者だから、イヤだということを強制したりはしないのさ」
一行で矛盾シリーズでもここまでのは見たことがない。人を生きたまま溶かそうって人間が人道主義者を自称するな。
「さあ、少年。どうする?」
「すこし、考えさせてください」
「うむ。好きなだけ迷うがいい。ただ、このマシンは最大10時間前までしか戻れないから、あまり悩んでいると間に合わなくなるかもしれないね」
スマホで時間を確認する。21時過ぎだ。つまり、今から戻ると11時ちょっと。学校が徒歩圏内とはいえ、あおちゃんの死んだのがお昼休みであることを考えると、なるほど結構ギリギリの時間である。
「もしそれ以上に戻りたいのなら、もっかいこれ使えばいいんですよね?」
「世界一残酷な処刑台にニ回登る勇気があるならね」
「…………データ取りたいなら、わざわざ脅すような真似をしないほうがいいんじゃないですか」
「私は人の幸福のために発明をしているんだ。マッドサイエンティストみたいに思わないでほしいね」
……なるほど、たしかに人道主義者かもしれない。
さて。
好きなだけ悩めとは言っていたが、あおちゃんを救うためには実質ほとんど猶予がない。
小さく息をつく。
迷う余地はない。あおちゃんを救うためには、これに乗る以外の選択肢などないのだ。
……けれど、ほんとうに乗って大丈夫なのだろうか。
世界一残酷な処刑方法と言っていた。おそらくそのとおりだろう。
昔あおちゃんから借りた漫画に、自らの生爪を剥がさせる描写があり、長い間トラウマになっていた。このタイムマシンは、あんなのが屁に思えるような、想像を絶する苦痛を与えてくるのだろう。
そもそもだ。
ほんとうに、この人道的サイエンティストを信じていいのだろうか。
タイムマシンなんて世紀の大発明をしたのなら、こんな辺鄙な場所に引きこもっていないで、グーグルにでも売りに行けばいい。あるいは学会で発表して承認のシャワーを浴びてくるか。まだ実証実験段階と言っていたが、動物実験に成功している時点でノーベル賞にかわる賞を作ることができるレベルの発明だ。
実は、おれは騙されているだけで、このマシンに乗ったが最後、サイコパス殺人鬼であるこの女に、地獄の苦しみの果てにただ殺されるのだろうか。あるいは、海外のやばい組織に身柄を売り渡されるか。そんな終幕が現実的な落としどころな気はする。
「……」
もっといえば、もし仮に万が一、このカプセルがほんとうのほんとうに本物のタイムマシンで、過去に戻れたとして、おれに、あおちゃんを救うことなどできるのだろうか。
なにしろ、あおちゃんは死ぬその瞬間までおれの隣にいたのだ。まさかそこにおれがもうひとり現れるわけにはいくまい。
「…………ふぅ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~」
大きく、大きく息を吐いた。
体内にうごめく黒いもやをすべて押し出す。
おれの中の汚いものをすべて捨て、綺麗な空気を吸う。何度も、何度も。
少しずつ脳内がクリアになり、濁った思考が、欲望が、消えてゆく。
バヂィッ!と、両頬をぶっ叩いた。
「乗ります」
声に、できる限りの重さを乗せて言った。
「乗せてください。そいつに」
やらない言い訳なら、何時間だって語り続ける自信がある。
でも、どうしてもやらなきゃなんない理由だって、何日でも語れる。
おれは、あおちゃんが好きだ。
だから、やる。
「うむ。その意気やよし」
白衣女はそう言って、そばにあるパソコンを起動した。
「準備に五分ほどかかるから、準備をしておいてくれたまえ」
「なにかいるんすか?」
「この世界から君が消えるんだ。遺される人のために、なにか伝えることもあるだろう。ご両親や友人は、一生かけて失踪した君を探し続けるぞ。……というか、最悪私が君を消したのだと疑われかねないから、自分の意志で姿を消すのだと伝えておいてくれたまえ」
「そのときはあなたもこれに乗ればいいじゃないですか」
「バカを言うな。私の人道主義は自分にも適用されるんだ。こんな拷問器具に乗るわけないだろう」
口をへの字にしてそう言うと、彼女は再びパソコンに視線を向けた。
連絡する相手、か。
どうだろうか。友人はいないし、両親は……まぁ、いちおうラインしておいたほうが良いか。
スマホを取り出し、適当にラインして、画面を切る。どうせうちの両親なら大して気にはしないだろう。
「待たせたね」
ちょうどぴったり五分。かはわからないけれど、たぶんそれくらいの時間が経ったころ、白衣の女がエンターキーを押してそう言った。
「さあ、心の準備ができたら、カプセルに入りたまえ」
「…………」
改めてカプセルに向き直り、一瞬呼吸が止まった。
これから、おれは、生きながらに身体を溶かされるらしい。
正直、ものすごく怖い。
どれほどの苦痛なのか想像もつかない。
生唾を飲む。脚が震えだすのがわかる。カプセルが棺桶に見える。
「ふぅ~~~~~~」
深く、深く息を吐く。
恐怖心を捨てることなどできない。
本能が、これから迎える死に怯える。
ならば、恐怖を超える勇気を奮い立たせるしかない。
あおちゃんを救う。
そのためなら、おれは、どんな苦痛にも耐えられる。
「大丈夫。大丈夫。おれはやれる。あおちゃんが好きだから。あおちゃんのためなら、どんな地獄だって踏破できる」
言い聞かせる。耳に。脳に。魂に。
「…………よしっ」
腿を叩き、踏み出す。
一歩一歩踏みしめるように歩き、カプセルに身をしまう。
「最後になにか言っておくことはあるかい?」
「いや。大丈夫です」
「そう。……そうだね、なら、名前だけ聞いておこうか」
「出井京(いずい・みやこ)です」
「ふむ。良い名前だ。私は若桜(わかさ)という。向こうでよろしく頼むよ」
若桜は顎に手をやって、満足げに頷いた。
「ではみやこ。ごきげんよう」
カプセルの蓋を閉じ、そうしておれは完全に密閉された。
おれの、ダイヤモンドより堅い決意は、一分もしないうちに後悔へと変貌した。
最初におとずれたのは異様な熱だった。
生きたまま釜茹でにされたら、あるいは、ファラリスの雄牛に突っ込まれたらこういう感じなのだろうか。
目を剥き、出してくれと絶叫するが、聞こえていないのか、あるいはただ無視をしているのか、若桜は冷めた目でパソコンとにらめっこしていた。
何十倍にも引き伸ばされた灼熱地獄。そのつぎにおとずれたのは、鮮烈な痛みだった。
指先から一センチごとに包丁で切り刻まれたら、たぶんこんな感覚なんだろう。
鋭利な痛みが背筋を凍らせ、同時に迫る重たい痛みに思考をすり潰される。
視界が白黒して、本来ならとっくに意識が飛んでいるはずなのになぜか正気を保ってしまっていて、ただこの地獄の終わりを待ち焦がれる。
どれほど絶叫したところで苦痛は一ミリも減らず、しかし声は勝手に出る。火鉢棒を突っこまれたかのように喉が枯れ、干からびてもおかしくないほどに涙と脂汗が吹き出す。
それでも、終わらない。
いつまで続くのか。叫んで、泣いて、許しを懇願し、カプセルに入る前に戻ることを神に祈り、すべてが叶わぬことに絶望し、それでも終わらない。
――とまあ、これくらいにしておこう。一から十まで描写すると、こんな文章があと一万文字くらい続いてしまいそうだ。
ともあれ、おれはこの地獄を経て、この世界から姿を消した。
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