第8話 地球(観測者:結杏)
父がいて、母がいて、友達がいた。目立たないし、平凡だが、不自由のない暮らしをしていた。
その暮らしが壊れるきっかけは何だっただろうか。
父が仕事を辞めた。勤めていた会社に再建計画が立ち上がり、それに乗って早期退職を行ったためだ。
その時から一家の暮らしは少し変わった。ほんのちょっとだったが、贅沢になる。まとまった金額が退職金として入り、その金があると思うと、父は羽振りが良くなっていた。
仕事なんかいくらでも見つかる。そう、高を括っていたのだろう。
父の仕事はなかなか決まらなかった。そして、どうにかして決めた仕事にも不満を抱き、すぐにやめてしまう。そんなことを何度か繰り返した。
収入は母のものだけになり、暮らしは段々と苦しいものになる。
やがて、母は帰りが遅くなるようになった。仕事が忙しくなったと話していたが、父以外の別の相手ができたのだと、結杏はなんとなく察していた。
父もそれに気づいていたのだろうか。ある日、就職試験に行くと言って出掛け、そのまま帰ってこなかった。蒸発していた。
母は浮気相手を結杏に引き合わせるようになったが、その男と結杏は折り合いは悪かった。また、不倫という障害がなくなったことで母への興味が薄くなったのか、しばらくして二人は別れた。
その原因は結杏にある。母はそう思い込んでいた。母との関係はギクシャクし、親子間での喧嘩が増え、やがて暴力を振るわれるようになる。
しばらくして、結杏は施設に預けられることになった。
◇
父と母、それに母の恋人、三人の大人に裏切られた経験から、結杏は施設の職員たちを怖れる。職員たちは心を開かない結杏に苦労することになった。
同じ年頃の子供たちとも馬が合わない。幼いころから施設に預けられている子供が多く、一般家庭で育った結杏とは感性が合わないものがあった。互いに、忌避するものがあったのか、自然と壁ができる。
結杏は孤立していた。
施設に預けられるとともに、学校も変わる。
新しい学校に来るときには人間関係を構築することをすでに諦めていた。友達も作れず、結杏は話し相手すらいないままに、漫然と日々を繰り返すようになる。
それから何年が経っただろうか。
思いもかけない出会いがあり、そして別れを経験することになる。
◇
いつものように、朝ご飯を食べる。
施設の子供たちがぞろぞろと列に並び、
子供たちが席につき、最後に結杏が座った。
みんながペチャクチャとお喋りしていたが、結杏に話しかけるものはいない。結杏もただ黙って、朝ご飯を見つめていた。
「みんな、それではいただきましょう」
職員の先生が子供たちに声をかける。すると、一斉に「いただきます」という声が響いた。
結杏も誰にも聞こえない声で「いただきます」と呟く。「みんな」の中に、自分は入っていない。そう思っていた。
トーストにはマーガリンとイチゴのジャムを塗る。
甘い。こんがりと焼いているはずだが、少し冷めているので、ぱさぱさとした食感だった。
サラダに入っているのは、レタスとキュウリ、それにトマトだ。それに酸味の効いたドレッシングをかける。
そのどれもが特別に嫌いではないが、特別に好きでもなかった。
ハムエッグ。白身の滑らかな食感と黄身の旨味。目玉焼きは好きだ。でも、もっと好きなのがハムだった。
ほんの一欠けらのハム。それが今日の朝ごはんで食べることのできる唯一の肉だ。
結杏は一口一口、噛みしめるように味わう。何とも言えない旨味が口に広がる。結杏は誰にも見えないよう、ほんの少しだけ笑みを浮かべた。
「ごちそうさまでした」
やはり誰にも聞こえない声でそう呟くと、結杏は部屋に戻る。身支度を整えて学校に行かなくちゃならない。
◇
春先であったが、まだ風は冷たい。ウィンドブレーカーでその寒さから身を守りながら、通学路を歩く。
――ギャンギャンギャン!
けたたましい音が聞こえる。それは犬の鳴き声だった。
結杏が音のした方向を見ると、ある犬が吠えている。この道でよく見かける柴犬だ。しかし、その吠え方は尋常ではない。しかも、つながれていた縄を無理やり解いて外に出てきているらしい。
「どういうこと?」
困惑しながらも、恐る恐る犬の鳴く方へと近づいていく。すると、何か真っ黒な小動物のようなものがいて、それに対して吠えているらしい。よく見えないけれど、ウサギか何かだろうか。
脅え、縮こまっているその動物に、結杏は自分自身を重ねる。母にぶたれていた頃の自分、施設の職員の視線に怯える自分、施設の子供たちの圧力に縮こまる自分。
思わず、その小動物を庇って前に出た。
「だめっ!」
しかし、結杏の行動が引き金になってしまったのだろうか。犬は黒い動物に噛みつこうとする。
がぶりっ
小動物を庇って、結杏の腕にその牙が突き立てられた。強い衝撃と痛みが走る。腕からは血が流れ、黒い動物に滴り落ちていった。
「ねえ、怖がらないでよ。大丈夫だから」
結杏が柴犬を抱きしめた。すると、狂的なまでに剥き出しになっていた敵意が和らいでいくようで、少し落ち着いた様子を見せる。
「グルルルル……」
それでも、まだ唸り声を上げていた。
結杏は柴犬を抱きかかえると、記憶を頼りに、その犬の家に向かう。
「たしか、ここの家よね」
結杏はその家のインターホンのボタンを押した。
その瞬間だ。それは、結杏がボタンを押したことで起きたのだろうか。
地面が大きく揺れる。巨大な地震が起きていた。
「始まったか」
足元で声が聞こえる。それは黒い小動物――いや、今ならはっきり見える、黒いウサギだった。黒いウサギが喋っていた。
「聞こえるよな。安心してくれていい。今度は俺があんたを守る」
あまりに奇妙なことが重なり、結杏は困惑することさえできない。いや、そもそも地面の揺れが激しくて、立っていることさえままならなかった。結杏は四つん這いになり、ただ揺れが収まるのを待つことしかできない。
だが、揺れが収まる気配は一向になかった。
「これを飲め」
黒いウサギが結杏の顔めがけて飛び掛かると、口移しに何かを飲ませる。
ドロドロとした奇妙な食感。まずい。けれど、不思議と不快感はなかった。そのまま飲み込んでしまう。
揺れはさらに激しくなる。結杏は気を失った。
◇
気がつくと、
そこには、先ほどの黒ウサギと知らないロボットがいた。
結杏の身体は重力を感じず、ふわふわと浮かんでいる。
あの地震で地球はなくなってしまったのだろうか。そして、それを引き起こしたのは……。
「ねぇ、ウサギちゃん、名前はなんていうの?」
不安を紛らわすように、黒ウサギに声をかける。黒ウサギはぶっきらぼうな口調で言葉を返してきた。
「個体名はない。種族名はミ=ゴだ」
結杏はよく聞き取れない。しかし、語感を頼りに彼の呼び名を決めた。
「じゃあ、ミーちゃんだねっ」
ミーちゃんと呼ばれた黒ウサギは首を傾げ、そして結杏を見る。そして、少しだけ嬉し気な顔をした。
「そうか。俺はミーちゃんか」
続いて、気になるのはロボットだ。顔は真っ暗なモニターになっており、その奥に目のようなものが光っている。両腕はあるが、両脚はなく、宙にプカプカと浮いていた。
「こいつは……、ふん、そうだな。
ミーちゃんのその言葉に反応して、顔のモニターに数列が流れる。そして、その奥の目が青白く輝き始めた。
「おう、ワイはMINEなんやな。結杏とミーちゃんと言うたか、よろしゅう頼むわ」
急に流暢に話し始める。しかし、結杏は面食らった。なんで関西弁なのだろう。
「ワイには記憶がないんや。だから、地球のインターネットで学習したんやで。
最新鋭のロボットだっちゅうことはわかってるからな、頼りにしてくれてええで」
にぎやかになった宇宙ロケットの中で、結杏は嬉しくなった。ここではミーちゃんもMINEも自分に話しかけれくれる。自分を気にかけてくれる。
「これから宇宙を旅するぜ。最初の目的地は、まあ、火星だな」
ミーちゃんが窓を眺めながら、そう宣言した。
結杏はというと、窓を見る勇気はなかったが、なんだかワクワクしてくる。こんな面白いことが自分に起きるものだろうか。まるで夢の中のような気分だ。
「うん、みんなぁ、どこまでも行こうよっ」
結杏は上機嫌になって、そう答えた。「みんな」という言葉がしっくりする。
「みんな」。今まではその言葉には自分が含まれていないと感じた。自分とは無関係なものだと。
でも、今は違う。「みんな」には自分が含まれている。自分以外の「みんな」の視線も自分に向いているんだ。
しかし、結杏はすぐに絶望的な表情になった。
窓の外を気にしながら、言葉をどうにか紡いだ。
「地球はなくなっちゃったんだね。それって、私のせい……なのかな……」
あの揺れは結杏がボタンを押した瞬間に起きた。自分が地球を破壊したんだ。結杏はそれを実感していた。
「違う。あれはお前のせいなんかじゃねぇよ」
ミーちゃんの声はぶっきらぼうだが優しかった。
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