a fact of life (2)
鬱蒼と茂った濃緑の葛に、朝露が光っている。
篠田晴は小さな鳥居の前に立っていた。
「それじゃ、お世話になりました」
柄にもなく頭を下げた少年を、クズハがじっと見つめる。
「もう、オイタをしてはいけませんよ」
そう言った彼女の目は、どこか憂いを帯びていた。篠田が頭を上げる。
「大丈夫。しばらくしないよ」
「しばらく、ではありません。あなたは自分が思っているよりもずっと未熟なのですから」
クズハの口調は、どこか子どもを諭す母親のようだった。彼女は少し逡巡してから、付け加えた。
「あの方とはまったくもって比べ物になりません」
篠田は頭を掻く。
「まあ、僕だって自分の力不足は分かってるよ。ミサキさんだって、結局助けたのは僕じゃなかったわけだし。まだまだ修行が足りないなぁ。いや、膝枕が足りないのかも……」
ニヤリと笑った篠田に、クズハは小さく溜息を漏らした。
暫時、闃寂
「じゃあ、そろそろ行くよ。ママンに怒られちゃう」
「待ちなさい」
手を振って踵を返そうとした篠田を、クズハが呼び止めた。
「決して、早まったことをしてはいけませんよ。復讐に心を呑まれてはいけません。平先生を信じて機が熟すのを待ちなさい」
篠田は目を糸にして、クズハの顔を少しの間見つめた。
「大丈夫だよ。心配してくれてありがと。あ、平先生にもよろしくね」
頷いたクズハを背に、少年は光の渦へ足を踏み入れた。
※
アスファルトが朝焼けに染まっていた。
巨大な一双の車輪が、車通りの間を縫っていく。車輪から伸びた右肩の上で、女が髪をなびかせていた。
「なあ、先生よ」
車軸から伸びた坊主頭がやおら口を聞いた。女は何も答えない。坊主頭はしばらく間を空けてから続けた。
「こんなこと聞いちゃいけないのかもしれないがよ、あんた、幽霊になる前はなんて名前だったんだ?」
「どうして?」
坊主頭はまたしばらく黙った。彼なりに、どう聞けば紳士的なのかを懸命に考えている様子だった。が、あまり良い手が思いつかないと見えて、結局変わらない口調で言った。
「だってよ、あんたらは七人揃って七人ミサキだったんだろ。でも残りの六人はどっかに逃げちまった。じゃあもう七人ミサキじゃねえからよ。本名で呼んだ方が良いんじゃねえかなって……」
厳つい顔が朝焼けに染まっていた。
言われてみればそうだな、と、女は思った。でもどうなんだろう。今までその名前で呼ばれていたから、いきなり本名で呼ばれるのは変な感じかもしれないな。まあ、でも、現に私はもう一人だし……
ぼんやりと考えているうち、目的地が見えてきた。普段から人通りの少ないその陸橋には、早朝に人が通ることなど殆どないはずだった。
車輪が陸橋の脇で急停止し、女は肩から降りる。
「まあ、ここは俺が見張っとくからよ。その、気が済むまで、あれだよ……」
女はクスリと笑い、頷くと、階段を上っていった。その手には、一輪の花が携えられていた。
階段を上り切る。橋の上から見ると、朝焼けに輝くアスファルトがどこまでも続いていた。女がここへ来るのはいつも夜だったから、そんな光景を見るのは初めてだった。しばらく「なんだ、こんなキレイなとこで死んじゃったのか、私」などと感傷に浸っていたが、やがて「その場所」へ向かうべく歩を進めた。
と、彼女を追いこしていく影があった。
二人の女だった。
二人は「その場所」にしゃがみ込むと、一輪の花を供え、静かに手を合わせていた。
恐らく、生前の自分と同い年くらいだろう。
見知らぬ人。
だけど、よく知っている人。
女幽霊は踵を返すと、そのまま階段を下りていった。
「なんだよ、もう良いのか? それに花だって持ったままじゃねえか」
「……あったじゃない。あなたの生きた意味」
「え?」
「ううん。もういいのよ。大丈夫。そう、もう、大丈夫」
坊主頭は怪訝な顔で考え込んでいたが、フンと一つ鼻息を鳴らすと車輪を回転させた。
もう日は昇り始め、車の量が増え始めていた。坊主頭が周囲の車にブツブツ文句を言いながら走り抜けていく。
「ねえ」
不意に女が口を開いた。
「ん? 何だ?」
「別にいいよ、これからもミサキで。いえ、ミサキが良い」
坊主頭はまたしばらく考え込んでいたが「そうかよ」と一つ呟くと速度を上げた。
女の手を離れた花が、ひらりと風に運ばれていった。
※
ピタリとしまった扉の中から、いつもの喧騒が聞こえていた。
平太郎は、扉の前で立ちすくんでいた。
どうして、僕はここにいるのだろう。
どうして、ここにいることを選んだのだろう。
彼はいくらか塗装の禿げた白い扉をじっと見つめ、扉に手を掛けることをいつまでも躊躇っていた。
※
「つまり、白池先生と生徒たちがグルだったと……」
鏡の中から引き戻され、平は呆然としていた。しばらくの間、湯飲みから立ち上る湯気を見つめていたが、不意にボソリと口を開いた。教頭は熱い茶を啜ると、ゆっくりと一往復だけ首を横に振る。
「グル、というのはちょっと違います。生徒さんがたは、あの白池という男に操られておるのですわ」
「操られている?」
教頭は一つ頷くと、また一口啜った。
「犬神でおます。ミサキ先生の傷口や平先生を刺した女の話からして、間違いないでしょう。いわゆる憑物の一種なのですが、狐や狸とは違って、犬神は人間が意図的に作る憑物でしてな。犬神を作って自分に憑けた人間は、妬んだ相手を陥れたり、欲しいものを手に入れるために犬神を使役しよるのです。場合によっては自分の目的のために人を操ることもできる。恐ろしい外法ですわ」
平はミサキが負傷したときのことを思い出していた。確かに、彼らを襲った野次馬たちは何かに操られたようだった。いや、それだけではない。生徒たちが操られていたとするならば、三月から生徒の態度が急変した説明もつく。
「それなら、あの子たちを助けないと」
言いながら卓袱台に手をついて立ち上がろうとした平は、ふらりとよろめいた。どうやら記憶の追体験は、彼自身が思っている以上に激しい消耗を生んでいたらしい。カガミが慌てて平の体を支える。
「やめときなはれ。平先生一人が行ったところで何が出来ますのや」
教頭の達観した口ぶりに、平は眉を吊り上げる。
「それはそうかもしれません。でも、かといって教え子が危険な目に遭っているのを指を咥えて見ていろと?」
「何かしたいという平先生の気持ちはよう分かります。しかし、熱い思いだけでどうにかなるほど甘い相手やおまへんのです。どういう訳か分かりまへんが、あの白池という男が操っておる犬神、相当な力を持っておりましてな。それに、もし下手に手を出してしまうと、余計拙いことになるんですわ」
カガミに背中をさすられて少しばかり落ち着きを取り戻した平は、元の位置に座りなおした。
「拙いこと、というのは?」
教頭はまた喉を潤すと、少しだけ湯飲みを見つめてから口を開いた。
「我々が内偵を使って調査した結果、白池はんはある連中と関わり合いになっておりまして。まあ包み隠さず言うと、連中というのは我々妖怪どものもう一つの勢力……争奪戦の相手でおます。つまるところ、彼は平先生と同じく、彼奴らに対して授業をしているようなのです」
平は愕然としていた。
「まさか、どうして白池先生が……」
「これは推測の域を出まへんが……」と、教頭が少し間を空ける。
「向こうの連中は我々が平先生に目を付けていることを何らかの方法で知ったのでしょう。そこで、奴らは平先生に近い存在である白池はんに白羽の矢を立てた。恐らく、犬神の呪法を白池はんに教えたのも奴らでしょうな。塾の生徒たちを操り、完膚なきまでに平先生の自信を打ち砕けば、平先生を教員に迎えるというこちらの計画は頓挫する。まあそれだけでは弱いですから、平先生が大きなミスをして生徒や保護者から恨みを買うように誘導し、実際に平先生を保護者に襲わせ、殺害しようとした。いささか短絡的な筋書きのような気もしますが、大方そんなところでしょうな」
そこまで言うと、教頭は一つ咳ぶいて茶を啜る。
「ですから、もし今、白池はんをやっつけたり懐柔したりしてしまうと、彼奴らが白池はんに対して危害を加える可能性があるのです。そして、生徒はんたちがそれに巻き込まれる可能性も……」
「ちょ、ちょっと待ってください」
平は慌てて教頭の話を遮った。
「さっきからずいぶんと話が物騒じゃありませんか? 僕のことを柳田の母親を使って殺そうとしただの、白池先生や生徒たちに危害が及ぶだの……争奪戦というのはそんなに危険なものなんですか? 体育祭や文化祭みたいなものだと言っていたのは嘘だったんですか?」
「いえ、嘘ではありまへん。確かに昔は血の気の多いものでしたが、今は平和的に勝負をするための祭典でおます。我々がそう変えてきたのです。野蛮な慣習を変え、文明的にも人間に追いつくためにね。そしてその争奪戦の先にある百鬼夜行も、もともとは人間たちを恐怖に陥れるための血腥い行事だったのを、我々が内輪のお祭りに変えてきたのでおます。しかし、向こうの連中はそれを疎ましく思っておるのです。彼奴らは人間に強い恨みを抱く連中の集まりでしてな、百鬼夜行を昔の様相に戻したいと考えておるのですわ。我々はそれを阻止すべく、何とか百鬼夜行の主導権を守ってきました。しかし近年になって、彼奴らも急速に実力をつけてきております」
そこまで言うと、教頭はいつぞやのように深々と頭を下げた。
「我々は何としてでも彼奴らに百鬼夜行の主導権を渡すわけには行きまへん。そのために、平先生の力が必要なのです」
教頭に倣って、カガミも一緒に平に頭を下げる。平は眩暈を覚えていた。彼は思っているよりもずっと、大それた事態に巻き込まれているらしかった。しかも、それに自分の周囲の人間が関わっているのだ。そして何より平を当惑させていたのは、一つの疑問だった。
――どうして、僕が目を付けられたんだ?
確かに平は授業が好きだった。人一倍努力もしてきた。しかしながら、彼より授業が上手い人間などごまんといる。それに経験の豊富さでいってしまえば、平など下の下なのだ。否、これは今に始まった疑問ではない。この学校に来てからずっと抱えていた葛藤だった。それでも、頼りにされている嬉しさから、授業を引き受けてきた。だが、ことの重大さを知った今、自分で役者が足りているのか、いささか疑問に思わざるを得なかった。
が……
「我々が争奪戦に勝てば、彼奴らに白池はんを解放させることも可能。そうすれば、塾の生徒はんたちも安全に救うことができるのです」
平に選択肢は残されていなかった。
※
都合よく土曜日曜と間が空いて、平には考える時間がたっぷりとあった。それでも、気持ちの整理は全くついていなかった。ぐるぐると頭を駆け巡る自問自答は、何一つ答えに辿り着くことはなかった。そして、無情にも月曜はやってくる。平は半ばサラリーマン的惰性に任せて教室にやってきたのだった。
チャイムが鳴っても、平は踏み出すことが出来なかった。
――僕がみんなを勝利に導くなんてことが出来るのだろうか
――僕が白池先生を救えるのだろうか
――僕が塾生たちを救えるのだろうか
――僕で、良いのだろ……
「グヘェッ!」
鈍い衝撃が平の後頭部に走り、間抜けな声とともに平のメランコリーは断絶した。平が振り向くと、狐三人娘が立っていた。ナナがニヤニヤしながら、黒いエレキギターを斧のように構えている。
「ヘイタロー、何ボケっとしてんの? 授業始まってるよ?」
「デュフフ……ナナ氏、ギターで人を殴ってはいけませぬぞ。ギター殺人事件になってしまいますからな……ギターさつじ……デュホホッツ」
「……面白くないって」
ナナがギターを平に押し付けると、三人は後ろの扉から教室に入っていく。平はしばらくボンヤリとギターを眺めていたが、一つかぶりを振って教室の扉を開けた。
平は再び立ち尽くした。
今までずっと空席だった中央の二席が埋まっていた。
「ヨルゥ……ワッチィ……」
思わず目を潤ませた平に、ヨルが舌打ちしてそっぽを向く。
「んだよ、気持ち悪いな。とっとと始めろっての」
平は教卓まで歩いていく。ギターをアンプに繋ぎ、深く深呼吸をすると、ローコードのEを押さえた。
「……演りますか!」
爆音とともに、生徒たちの歓声が響き渡った。
タイラタロウの学校改革 第一部 英語講師地獄変 澤ノブワレ @nobuware
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