When I'm president (2)

「あいやぁ、壁に口あり障子に口あり。どこから話が漏れるか分かりまへんなぁ」

 生徒が口にした「争奪戦」のことを滑瓢教頭に問い質した平だったが、当の教頭はいかにもわざとらしい困り顔で飄然と言ってのけた。

「話が漏れるって、わざと隠していたんですか? 生徒たちの口ぶりからすると、彼らは僕がそのために呼ばれたと思っているようですが…… あなた方は僕のことを騙していたということですか?」

 平静を保つよう努めていたが、口調の棘を抑えることは出来なかった。ただならぬ雰囲気に、職員室にいた他の教諭たちが一斉に二人を見る。

 あの後、平は生徒たちを問い詰めた。だが、むしろ生徒たちは平が「争奪戦」のことを知らないことに戸惑っている様子で、当を得た回答は得られなかったのだ。

「いやあ、隠していたとか騙していたとか、そんなんやおまへん。平先生がもう少し本校に慣れてからと思っておったのですが……」

 教頭はしばらく宙を見つめていたが、不意に立ち上がり、

「まあ、知られたのであれば隠しても仕方ありまへんな。ほな、ちょっとついて来てください」

 カラコロと下駄の音を立てて歩き出した。平は解せぬまま後に続いた。

 職員室を出て階段を降りると、教頭は一階の廊下をせかせかと歩いて行く。もしかすると保健室で話をするのだろうか、クズハ先生はまだいるだろうか、などと淡い期待を抱いた平だったが、あっさりと保健室の前は通り過ぎてしまった。教頭が背を向けているのを良いことに苦虫を存分に咀嚼反芻していた平は、ふと気がつく。

――あれ、そういえば、保健室から先には行ったことないよな。なんか薄暗くて不気味なんだよなぁ。いったい何があるんだ?

 思っているうちに、じわじわと寒気が襲ってくる。湿気を纏った厭な寒さ。平は微かに身震いした。やがて廊下は日が落ちたように暗くなり、空気も重くなる。足が勝手に逃げ出しそうになるのを堪えていると、下駄の音が止まった。

 そこには大きな扉があった。少し朽ちかけてはいるが、彫刻で装飾された立派なものだ。扉の上には金縁の室札があり、「校長室」の記載があった。

――こ、校長……! ということは、校長先生から直々に説明があるということか。それだけ重大な話なのだろうか。何せ校長だからな。なんてったって校長……校長……いや、ていうか……


     ……今さら?


 そう、今さらである。この学校に来てからというもの、非常識なことばかりで平の感覚は麻痺していた。教員として赴任するのなら、何よりもまず校長と顔を合わせるのが当然だ。しかしながら、平はそんな慣例はおろか、校長という存在にさえ思い至らなかった。学校側の滅茶苦茶ぶりと、その滅茶苦茶に順応してしまっている自分に対して、平は再び白目を剥いた。

 そんな平を尻目に、教頭は無遠慮なノックをすると、返事も待たずに扉を押し開ける。続いて足を踏み入れた瞬間、平は思わずウっと声を上げた。

 校長室の中は、墨汁を満たしたような暗闇だった。不意を突かれて硬直した一瞬のうちに教頭の姿が闇に消え、平は慌てて下駄の音を追う。数歩歩いて下駄の音が止まる。教頭の姿はもはや見えなかったが、何となく当たりをつけて横並びになった。

「校長、平先生をお連れしました」

 教頭の声が闇に反響する。どうやら相当に広い部屋のようだ。異様な雰囲気に気圧されながら、平は闇の中で頭を下げる。

「た、平太郎と申します。ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。不束ながら、一年生のクラスで英語を担当させて頂いております。何卒、よろしくお願いいたします!」

 目一杯の誠意を込めた挨拶が、ウワンウワンと反響しながら闇に溶けていく。

 いくら待っても、返事は聞こえてこなかった。

 平は最敬礼のまま、冷たい汗を滲ませていた。

――もしかして、今まで挨拶に来なかったことを怒っているのだろうか。そうだよな。冷静に考えれば、誰かに言われなくとも挨拶に来るのが社会人として常識だよな。いやいや、でも普通の会社なら、わざわざ社長に挨拶には行かないしなぁ。いやいやいや、ここは普通の会社じゃない、学校だ。まして妖怪の学校に対して、人間社会の常識が……

 と、平の鼓膜を微かに震わせるものがあった。


       ……あ……っとね……


 皺の無い紙を擦り合わせるような、極めて弱弱しい掠れ声。平はハッと思考を止め、声に集中する。

「……あ、平先生、ね。ああ、まあ、よろしく」

 どうやら声は上から聞こえているようだった。平は頭を下げたまま待ったが、どうやら続きはないらしい。長い静寂のあと、教頭が口を開いた。

「ええと、校長。争奪戦の話ですが、そろそろ平先生に伝えてもよろしおますかいな?」

「ん? ああ……うん。まあ、イイ感じに説明しといて……」

 三度めの沈黙は、もはやそれ以上喋る気はないという校長の強固な意志を表しているようだった。

 校長室を出てしばらく歩くと、教頭が珍しく申し訳なさそうな口調で言った。

「すんまへんなぁ。校長はその、なんというか、ちょっとシャイでしてね。明るい所には滅多に出て来まへんのや。その上、口下手で人間が苦手ときておりますので……まあ、人間でいうところの引き籠りっちゅうやつです」

 校長が引き籠りなんてアリか、と半ば呆れながら、「はあ」と平は生返事をした。

「僕はてっきり校長先生から直々に説明があるのかと」

「あの喋りで説明なんか出来ますかいな。一応内部のことですさかい、許可を取っとかなあかんと思いましてな。まあ、まだ挨拶もしてなかったし、ついでに顔合わせも出来て良かったんとちゃいますか」

 ついでかよ、と呆れながら、平は促されるまま用務員室に入っていった。


「平先生は『百鬼夜行』というのをご存じですか?」

 畳敷きの中央にぽつねんと置かれた卓袱台を挟んで平の対面に座った滑瓢教頭は、平の淹れた茶で喉を潤してから切り出した。

「はあ、聞いたことはありますが……」

 妖怪に暗い平とて、流石に百鬼夜行くらいは知っている。絵巻物をテレビか何かで見たこともある。教頭は軽く頷くと、話を続けた。

「百鬼夜行なんちゅう字面だけ見るとなんや物々しい感じがしますが、平たく言えば妖怪のお祭りみたいなもんでしてな。正確には祭りのメインイベントである大行列を百鬼夜行というのです。まあ早い話、争奪戦というのはその主催権をかけた戦いのことですわ」

「戦い……ですか?」

 当然のごとく放たれた不穏な言葉に、平の表情が引き攣る。教頭は平の内心を察したのか、表情をやわらげた。

「ああ、戦いと言いましても、そんな物騒なもんやおまへん。人間の世界でいうところの、文化祭と体育祭が混じったようなもんを、学校対抗でやろうという話です。体育競技はもちろん、音楽や美術、そして、学力を競う一大イベントですわ」

「学校対抗って、他にも学校があるんですか?」

「左様でおます。実のところ、境というのは全国津々浦々に点在し、大きく二つの勢力に分かれております。まあ早い話が、その勢力との対抗戦という形でおますな」

「なるほど。二つの勢力というのは、何で分かれているんですか? 地域とか、それとも種族とか?」

 滑瓢の眉が微かに動いたように見えた。

「いや、地域やら、そういうのは関係ないんでおます。まあ、そうですな。考え方の違いとでも言っておきますわ」

 珍しく歯切れの悪い言い方が気になったが、平は続けて質問した。平の中である疑念が膨らみつつあったのだ。

「なるほど。つまるところ、僕をこの世界に招いたのは、その争奪戦の学力部門で勝つため、ということですか? 僕がここへ来たときに教頭先生が語っていた教育への熱意や人間との共生云々は、ただの口実だったと……」

「それは違います」

 平の疑念はきっぱりと否定された。

「我々が人間と共生を目指したいということも、そのために教育に力を入れなければならないと思っていることも、偽りのない事実でおます。ただ、そのためには争奪戦に勝つことが必要なのです。しかしながら、誠に申し訳ない。今はその理由を平先生にお話することが、どうしてもならんのです」

 不意に、滑瓢の大きな頭が卓袱台にぶつからん勢いで下げられた。思いもかけない行動を見せられ、平は思わず仰け反った。

「いずれにせよ、お話せなあかん時が来ます。今は何も聞かず、この学校で先生をやって頂けまへんやろか」

 平は困惑し切っていた。どうしてこの教頭、一説には妖怪の総大将ともいわれる滑瓢が、ここまでするのか。いったいどうして今、理由を教えてもらえないのか。クズハ先生はもう帰ってしまっただろうか。本当にこの男の言うことを信じていいのだろうか。クズハ先生は心配していないだろうか。心配してくれていると嬉しいなぁ。しかしながら、人間である自分が百鬼夜行などというものに関わっていいのだろうか……そもそも


 どうして、自分なのだろうか。


 教頭の深い皺が刻まれた頭頂をじっと見つめながら、平はふと頭に浮かんだ疑問をぶつけた。

「して、その争奪戦というのはいつなんですか?」

「神無月でおます」


――残り、三か月ですと……


 平は軽音学部連中の壊滅的な演奏を思い出し、再び白目を剥いた。

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