When I'm president (1)

 一日の業務を終えると、平は颯爽と帰路に着く。といっても、家に帰るわけではない。

 境の内側に来てからというもの、彼の寝床はもっぱら校舎一階にある用務員室だった。衣食に関しては、学校側が最低限のものを用立ててくれている。外の世界では安アパートに一人暮しをしていたが、諸々の事情により帰ることはままならない。ほとんど寝に帰るだけの家だったから未練はなかった。ただ、もしこの学校で教員を続けるのであれば引き払う必要があったし、ギターとノートパソコンだけは気がかりだった。

 二階の職員室から用務員室まで、徒歩一分弱。実に味気ない帰り道だが、平には楽しみがある。他でもない、保健室だ。目的はもちろんクズハに会うこと。会うといってもヘタレ男の悲しき性、挨拶をして、あわよくば二言三言交わすだけだ。それでも平にとっては、この上ない癒しのひと時だった。

 この日も、平は保健室に向かうべく、意気揚々と職員室前の廊下を歩いていた。

――今日こそは……今日こそは挨拶だけじゃあ終わらない。昨日寝る前に何通りもスィミュレイトしたんだからな。そう、あんなスィトゥエイションやこんなスィトゥエイション、そんな、そんなすいちゆえいしよんまで……ぐふ、ぐふふふふふふふ


 ぐぶぅッッッッ!


 突然背中に走った衝撃のため、平の怪しからぬ妄想はブツッと音を立てて強制終了した。哀れな英語教師は緩んだ笑顔のまま、顔面を廊下に擦り付ける。

「ヘイタローッ! 今ヒマ? ヒマだよね! いや、絶対ヒマーッ!」

 背後から聞き慣れた声が飛んでくる。恐ろしいまでの声量。見なくても分かる。狐三人娘の一人、ナナだ。彼女は平のことをヘイタローと呼ぶ。どうやら「平太郎」をそのまま音読みしているらしい。訂正しても「ヘイタローの方がかっこいいじゃん。Hey! 太郎! って感じでいいじゃん」と直そうとしないため、もはや平は諦めていた。

「オヤオヤ、ナナ氏。先生を呼び捨てにしてはなりませぬぞ。あと、背後から不意打ちで鉄山靠てつざんこうを喰らわせてはなりませぬぞ。ひ、非常に危……きけ……ドゥフッ! ドゥフフ……」

 どうやらユメも一緒のようだ。相変わらず何が面白くて笑っているのか分からない。

 ダメージが引くのを待って立ち上がると、ナナがニコニコと腕を組んでいた。黄金色の盛り髪が誇らしげに揺れている。どうやら鉄山靠は故意のようだ。その後ろから、ユメが黒縁眼鏡をクイクイやりながらノソノソやってきていた。

 平は非常に厭な予感を覚えた。二人の笑顔は、何かしら良からぬ企みが背後にあることを如実に物語っていた。

「いやあ、すまないね。残念ながら君たちが思うほど僕はヒマではないのだ。帰ってからも、諸々の事務作業にテストの採点、そして明日の授業準備……」

 何より愛しのクズハ先生に会いに行くという最重要任務が、と心の中で呟いたとき、既に平の右腕は拘束されていた。

「よし、ヒマだね! ちょっと一緒に来てー。お願いがあるんだ!」

「デュフフ……拙者、微力ながら手伝わせて頂く」

 すかさずユメが左腕を捉える。

「お、おい! ちょっと待て。僕には本当に大切な用事が……」

「ないない! ヘイタローに用事なんてあるわけないじゃん」

「フフ、この時間は面白いアニメもありませぬぞ」

 小池さん情報によると、ナナは七度狐、ユメは夢山の白蔵主という狐だそうだ。様々な説話に語られる有名な妖狐。そんな二人にオメオメとついて行ったら、どんな酷い目に遭わされるか分からない。平は何やら喚きながらジタバタしていたが、ふと気付いた。ガッチリとめられた両腕に当たる感触……


   右:程よい膨らみ。弾力性に優れ、そこはかとなく熱っぽい

   左:ずっしりとした存在感。どこまでも沈み込んでいけそうな柔らかさ


――ふむ。まあ、化かされるのも悪くないかもしれないな。いったいどんな桃源郷を見せてくれるのか、お手並み拝見といこうじゃあないか

 平は脱力すると、されるがままに引き摺られていった。


 それはそれは怪しからぬ桃源郷を思い浮かべていた平だったが、辿り着いた先は音楽室のある四階だった。音楽準備室の隣にある教室(『第二音楽室』という教室札が掛かっている)から、何やら楽器の音が聞こえている。中を覗くと、クラス連中の何人かが思い思いに楽器を弾いていた。

「ヘイタロー! 顧問やってよ!」

「は?」

 思いもかけないナナの言葉に、平は口を半開きにしたまま固まる。

「ヌフフ、ナナ氏、突然そんなことを言っても平先生が困惑してしまうだけでありますぞ。現に困惑しておりますぞ。きちんと説明をですなぁ……きちんと……デュフフッ」

「だからぁ、ヘイタローってギター弾くじゃん。すっごい上手いじゃん。だから、顧問やるべきじゃん!」

「であるからしてですな、そいういうことではなくてですな。デュフッ、仕方なしに拙者から説明しますと、我々コッ恥ずかしながら、ケイオンなんてやっておりましてですな」

「ああ、もう、じれったいな。取り敢えずさ、私たちの演奏、一回聞いてよ!」

 ナナは第二音楽室に飛び込んでいった。ユメもノロノロと後を追う。

 音楽室と比べ、第二音楽室の中は綺麗にされていた。生徒たちも平が授業で使っているオンボロギターと比べて、随分とマシな楽器を手にしている。いつぞや廃品寸前のギターを必死で修理したことを思い出し、平は白目を剥いた。

 バンドのメンバーは


   ギターボーカル ナナ

   ギター     クーちゃん

   ベース     ユメ

   ドラム     キチベー

   パーカッション オフク

   キーボード   ムージー

 

という編成。ナナがアイコンタクトをメンバーに送ると、演奏が始まった。

 それはもう酷い演奏だった。ナナの歌から辛うじて Avril Lavine の "Sk8ter boi" を演っているのだということは分かったが、歌詞は出鱈目だった。キチベーとオフクは流石の安定感だが、それ以外の演奏は壊滅的。息も全く合っていない。ムージーに至っては、始終おろおろとしているだけだった。当然である。この曲にキーボードは入っていないのだから。

 演奏が終わると、ナナが得意満面で平を見た。

「どうだった? ウチらの演奏、最高っしょ!」

 平は笑顔が引き攣るのを必死で堪えた。

「うん、そ、そうだね。凄く楽しそうで良かったよ」

 言った後で、「そう、楽しんでやるのが一番」と口の中だけで呟く。

 ナナは平の感想に満足したのか、しばらく得意げにフンフンと鼻歌を歌っていたが、不意に真面目な顔をした。

「でも、争奪戦に出るからには、もっと練習しなくちゃね。今のままじゃ勝てないよ」

 平の「ふぁ?」という顔を尻目に、ユメが「で、ありますなぁ」と相槌を打つ。

「何せ今回の音楽部門はあの Ho & Bok がライバルやさかい、気合入れなあかんで」

 キチベーが口を挟む。ナナとユメが難しい顔をした。釣られて他のメンバーも深刻な表情になる。ムージーだけがニコニコとしていた。

「えっと……」

 平一人だけが、完全に取り残されていた。

「あのさ、質問なんだけど……争奪戦って何すか?」

 ナナが平の顔をキョトンと見つめた。

「えっと、何すかって、何すか?」

 いつの間にか、そこにいた全員が平の顔を見つめていた。全員魂が抜けたようにポカンと口を開けていたが、とりわけ平の口腔は盛大に開かれていた。

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