Hatebreeder (2)

 いかにもロマンスグレーといった、白髪を後ろに流した初老の男だった。背はすらりと高く、年の割に腹も出ていない。やや若向けの細身スーツが完璧に決まっている。いささか俗っぽい言い方をするのであれば、いわゆる「イケオジ」である。彼は対面から歩いてきたクーちゃんに手を振ると、二人肩を並べて夜の街を歩き出した。人混みの中に蜻蛉玉の音が溶けていく。

 夜の街といっても、なにせ滑ヶ丘は郊外のベッドタウンである。某大型ショッピングモールを取り巻くようにレストランや居酒屋が並んでいるだけで、特に如何わしい店があるわけではない。一般的な繁華街とは異質の、安穏な空気がある場所なのだ。そのせいもあってか、並んで歩く二人の姿は、親子と言われればそう見えなくもない。何なら、彼らの二十メートルほど後方を尾行している平でさえ、実は二人が親子なのではないかという錯覚に……否、これはただの現実逃避だろう。

――まさかパパ活をする不良女学生の対応をすることになろうとは…… こういう場合、教師はどうすればいいのだろうか。というか、僕は僕で本当に尾行なんかして良いのだろうか…… なにせ尾行なんて初めてだからな。いやあ、何というか……得も言われぬ背徳感!

 鼻息荒く後をつけながら、平はふとあることに気が付いた。

――あれ? あのパパ……確か……

 平はその顔に見覚えがあった。造作もなく思い出す。地元で有名な不動産会社の社長だった。ローカルテレビ局にCМを打ち、そこに自らも出演している名物社長だ。ダンディズム溢れるCMを塾の生徒が真似していたのを、平はよく覚えていた。

――いやいや、あんな面の割れた人間が堂々とパパ活なんかやって大丈夫なのか? いや、大丈夫ではないよな…… ん? ああ、そうか、別に問題ないのか。

 平は一人合点すると、尾行を続けた。


   ※


「あんだって? クーちゃん? アンタも懲りないねぇ。アタシだってさ、以前のことでタマモちゃんやクズハちゃんに散々絞られたんだよ。ったく、アンタに何か教えるとロクなことがないんだから。もう何も教えないよ。さ、あっち行ったあっち行った! アタシゃ忙しいんだよ……あんだって? 生利節? 焼津直送? ああ、そうかい……」

 小池さんはいかにも興味がないといった顔をしていたが、やがて鼻をヒクつかせると、平の手から生利節をふんだくった。「ったく、仕方ないねェ」と勿体をつけ、平に皿を洗うよう促し、その隣であれこれ用事をしながら話し始めた。

「クーちゃんはね、管狐ってやつだよ。クダとかクダショウとか、いろんな呼び名があるね。アンタたちニンゲンがいうところの、憑物ってやつさ」

「憑物ですか?」

 相槌を入れた平を、小池さんは如何にも鬱陶しそうな目で見やった。どうやら飽くまでも独り言のつもりで聞けということらしい。平は「へい」と小声で呟くと、熱心に泡を立てる。

「憑物といっても、ただ取り憑いて悪さをするわけじゃない。丁重に扱えば、憑いたニンゲンに見返りを与えてくれるのさ」

「み、見返りって、まさか……」

 怪しからぬ想像した平を、小池さんが睨みつける。

「五月蠅いね。何を想像してるんだい」

「いや、何でも……」

 小池さんは怪訝な顔で平のことをねめつけつつ、続けた。

「まあ、誰にでも憑くってわけじゃないんだよ。管狐ってのは、自分を満足させてくれる見込みのあるニンゲンしか相手にしないからね」

「く、クーちゃんを、まマ、マン……?」

「だから、何考えてんだい、アンタは」

「い、いや、な、何でも……」

 小池さんはさらに眉を顰める。軽蔑の眼差しを平に向けながらも、お喋り好きの性分には抗えないのか、説明を続けた。

「だから、管狐ってのは見込まれた者にしか見えないもんなんだよ。他の者には姿を見ることさえままならない。まあ、これは管狐に限ったことじゃなく、妖怪ってのはみんなそうだけどね。基本的にニンゲンを騙す妖怪は騙される者にしか見えないし、襲う妖怪は襲われる者にしか見えない。まあ、例外的にそうでなくても見えるニンゲンはいるようだがね」

 平はワッチの一件を思い浮かべていた。

「例外というのは、例えば幼い子どもとか?」

「ああ、確かにそれはあるねぇ」

 小池さんは、ニャッと瞳孔を細めて平を見つめた。

「子どもってのは、そこに在るものを在るがままに見ることが出来るからねぇ」


   ※


 つまり、クーちゃんの姿は「パパ」以外には見えていないわけだ。

――ということは、あの男、誰にも見られる心配なく、女子学生とあんなことやこんなことを……う、うらやま……怪しからん! 実に怪しからん!

 平が目を爛々とさせるうち、二人はとある店の前で足を止めた。男は周囲を気にしつつ、店の中に入る。クーちゃんもそれに続いた。平は少しの間だけ逡巡していたが、意を決して後を追った。

 そこはよくある個室居酒屋だった。小さなテーブルを挟んで作り付けの椅子が向かい合った空間が規則的に並び、上半身が隠れる程度の暖簾で通路側に目隠しがしてある。こういったタイプの居酒屋では、どの席に案内されるかなど分からない。そのときの混み具合と店員の裁量次第だ。だから、二人が入った個室の、通路を挟んで斜向かいの個室に案内されたのは、平にとって全くの幸運だった。

 平は若干の違和感を感じていた。この店はいわゆる大衆居酒屋だ。低価格と九十分の飲み放題食べ放題が売りの店。いくら学生が相手とはいえ、一企業の社長が女性をこんな店に連れてくるだろうか。

――やはりあの男にとって、「個室である」ということが最大の魅力なのではなかろうか。畢竟、彼は暖簾の向こうでクーちゃんにあんなことやこんなことを……!

 平は目を血走らせ、斜向かいの席を凝視していた。決して下心からではない。男がクーちゃんに手を出した瞬間、平は突入するつもりだった。教師として、生徒にそんな不埒な行為をさせるわけにはいかないのだ。そう、決して下心などではない。決して、断じて……

 鼻息荒く暖簾の隙間から監視するうち、平はもう一つの違和感に気が付いた。否、気が付かざるを得ないほど、それは明らかなものだった。

――それにしても、めちゃくちゃ食ってるなァ……クーちゃん、見た目に依らず大食いなのか?

 二人のいる席へ矢継ぎ早に料理が運ばれてくる。食べ放題のコースを注文したのだろうが、どう見てもペースが異常だった。それも尋常な量ではない。唐揚げも出汁巻きもフライドポテトも、全てが大皿に山盛りで運ばれてくる。

――五人前? いや、十人前はあるよな、あれ……

 加えて、食べるスピードも異様だった。かなりのハイペースで料理が運ばれてくるにも関わらず、次の料理が到着したときには、一つ前に運ばれてきた皿がもう空になって店員に回収されていく。

――いや、いくら大食いとはいっても、あのペースはおかしいだろう……

 平の背中に、粘り気のある汗が滲み始めていた。

 ふと、何かの加減で二人の席にかかる暖簾が大きく捲れ、そのまま何かに引っかかって個室の中が露わになった。瞬間、平は思わず声を上げそうになった。

 山盛りの料理に食らいついていたのは、男だけだった。正確にいうと、平からは男の姿しか見えなかったのだが、男が一人で料理を食っていたのは明らかだった。何故なら、彼は大事そうに大皿を抱え込み、熱々のとん平焼きを手づかみで頬張っていたのだから。机に突っ伏すほどの前屈みで、「これは俺のものだ。誰にも渡さない」とでも主張するように。血走った眼を見開き、口の周りをグチャグチャにしながら料理を貪り食う姿は、テレビCMで見せるダンディズムとはかけ離れていた。

 暖簾が再び個室内の光景を遮断した後も、平はじっと固まっていた。奥歯の付け根が笑うような感覚に苛まれる。恐怖というよりも、見てはいけないものを見てしまったという後悔が、平に異様な息苦しさを感じさせていた。

 やがて怒涛の食事が終わり、二人が店を出ようとしている気配が伝わってきた。平は息をひそめつつ、僅かな暖簾の隙間から様子を垣間見る。出てきた男の姿を見て、平は目を瞬かせた。あれだけの量を食えば異様に腹が出るはずだ。あのイケオジがいったいどんなデブになっているのかと平はある種の期待をしていたのだが、男の腹は全く出ていなかった。それどころか、店に入った時より心なしかやつれているようにさえ思えた。

 その後も平はおっかなびっくり二人を尾行したが、二人は店を出て暫く歩くと、呆気なく解散してしまったのだった。


 翌日、誰に聞いたのか(確実に小池さんだが)尾行の首尾を聞いてきたミサキに顛末を話すと、平は首を傾げた。

「何なんですかね、あれは。『イヤラシイことは何もせずにご飯を奢るだけのパパ』というだけでも都市伝説じみているのに、奢るどころか男がただただ飯を食べているだけだなんて……」

「ああ、それはクーちゃんの性質ですよ。管狐は憑いた人間の体に自分の眷属を住まわせるんです。確か七十五匹だったかな。それで、その人が食べた物の養分を吸収して自分や眷属たちの養分にするんです。だから憑かれた人間は、食べても食べても満腹感を感じなくなっちゃうんですよ」

 ミサキは特に驚く様子もなく答えた。平はスリムなままだった男の腹を思い出し「ああ、なるほど」と呟く。

「もちろん、ただ養分をもらうわけではありませんよ。管狐はその見返りに、憑いた者の人生が上手くいくよう、いろいろ手助けをするんです。残念ながら、平先生が想像しているようなイヤラシイ見返りはないですけど」

「ぼ、ぼぼっぼ、僕はそのような下衆い妄想など……!」

 イルカショーのごとく泳ぐ平の黒目に、ミサキがあからさまな蔑視を向ける。平は必死に焦点を定めながら、苦し紛れに話題を逸らす。

「ああ、そ、そう言われてみると……確かに彼の会社、この前まで社員の横領か何かで落ち目だったんですけど、急にV字回復したんですよね。なるほど、そこにはクーちゃんの力があったって訳ですか。ええと、確か、滑ヶ丘不動産だったかな」

 途端、ミサキが「えっ?」と小さく声を上げ、驚いた顔を見せた。

「どうかしたんですか?」

「あ、いえ、聞いたことのある会社の名前でしたから……」

「ああ、確かにこの辺だと結構有名ですからね。テレビCMもよく見ますし、この辺で一人暮らしをする学生とかは、たいていあそこで……」

 何とか逸らした話題で乗り切ろうとした平だったが、心ここに在らずというミサキの顔を見て、思わず言葉を飲み込んだ。

「あの、大丈夫ですか? ミサキ先生」

「え? ええ、大丈夫ですよ。あ、私そろそろ授業の準備を……」

 取り繕うような笑顔でいそいそと去るミサキを、平は呆けたような顔で見ていた。


 廊下を歩くミサキの後ろ姿が、うっすらと黒く靄がかっているように見えた。

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