Hatebreeder (1)
七月 中旬
どんよりとした空気の中、現代文の授業が終わった。チャイムが鳴って二、三分の後、ようやく屍のようになっていた生徒たちがモゾモゾと動き始める。
「ど、どうでしたか? 今日の授業は」
教室の後ろで授業を見学していた平の元へ、ミサキがオロオロとした様子でやってくる。平は顔が引き攣るのを何とか堪えながら、出来る限りの優しい笑みをミサキに向け、彼女を廊下へと連れだした。
平の授業は相変わらず好評だった。ギターを使った授業だけではなく、通常の授業でも平は生徒の食いつきを実感していた。始めはどうなることかと思っていたが、みんな案外きちんとやっている。真面目に宿題もやってくるし、既にbe動詞の文は間違いながらも何とか書けるようになっている。今まで出鱈目な授業しか受けてこなかった彼らには、習ったことが身についていくという経験が新鮮なのかもしれない。
そんな中、平が他の教員に対する授業指導をやるハメになったのは必然だった。直接的に依頼をしてきたのは滑瓢教頭だったが、実際のところ、どうやらガタロウとムージーが教頭に直談判したらしい。平にとっては嬉しい反面、気が重いところでもあった。彼らのこっ酷い授業はもはや修正困難と思われたし、癖の強い教諭陣が平の指導を素直に受け入れるとは考えられなかった。
ところがである。蓋を開けてみれば、教員たちの反応は悪くなかった。彼らは平の授業が現に好評なのを知っているから、むしろ進んで平に教えを乞うてきた。話を聞けば、どうやら彼らは外の世界の学校に忍び込み、盗み見た授業をそのまま猿真似していただけのようだ。だからタマモは「ましかまる」しかやらなかったし、コマメは容積の授業をしながら肝心の計算方法は教えられなかったし、カガミは……恐らく年配教員が決死の覚悟で放ったギャグを見てしまったのだろう。彼らは教諭側に抜擢されているだけあって教科内容や授業法の飲み込みも早く、面白いほどメキメキと成長していった。ただ……
「そうですね。板書の際、まだ生徒にお尻を向けてしまっていることがあります。生徒の様子を見ながら板書をする癖をつけましょう。あとは、やっぱり……」
平は口をつぐんだ。
0を1にするより、1を2にする方が難しい。誰が言ったか知らないが、よく言ったものだと平は思う。授業の基礎も何もなかった他の教員に比べ、なまじ形だけは授業が出来ていたミサキが、実は一番の曲者だったのだ。
「やっぱり……ですよね。私、小説とかエッセイとか大好きなんですけど、読んでいるうちにどうしても暗い方に暗い方に解釈してしまうんです」
ミサキはバツの悪そうな顔で俯いた。
まさにこれが致命的な問題だった。彼女にかかればサワヤカジュブナイル文学だろうがオゲレツギャグ小説だろうが、全てが暗黒解釈されてしまう。最近は少しマシになり、生徒が集団飛び降り未遂をするようなことはなくなっていたが、それでも彼らがまともに授業を聞ける精神状態でないことは明らかだった。一度、ミサキに予習案を書かせ、内容に問題がないことを確かめたうえで授業をさせたこともあったが、やはり途中で予習案とは全く違う暗黒の世界へと横滑りしていくのがオチだった。
ミサキは困ったような笑顔を浮かべ、じっと床を見つめていた。整った顔立ちではあるが、やはり不気味なほど薄幸だ。どこかしら笑顔にも卑屈さが滲み出ていた。平は宙を見つめて考え込んでいたが、これといって良い案は浮かばなかった。
「やっぱり、性質的に向いてないんですよね、教師なんて……」
ミサキがぽつりと呟いた。
「性質ですか?」
性格ではなく性質という言葉を使ったことに違和感を覚え、平は思わず聞き返していた。
「ええ。実は私、ここの人たちとは少し、その、何というか、種族が違いまして。私は妖怪ではなくて、幽霊なんです」
妖怪の学校で英語を教えている平に今さら驚く理由などなかった。それどころか、ミサキの普通過ぎる外見に対して抱いていた違和感が晴れて、妙にスッキリしていた。
「へえ、そうなんですね。どうりで他よりも人間っぽいわけだ」
「ええ、まあ。普通の幽霊ともちょっと違うんですけどね」
「というと?」
ミサキの表情がより一層の影をまとった。平は拙いことを聞いたかと思い、取り繕おうとしたが、その前にミサキが口を開いていた。
「ちょっと現世に恨みを残して死んでしまいまして。まあ、人様から見れば下らない痴情のもつれなんですけど。世間一般的には怨霊っていうんですかね」
ヘラヘラと卑屈な笑みで恐ろしいことを言う。引き攣った顔の平を尻目に、ミサキは続ける。
「怨霊にもいろいろいるんです。それこそ将門公とか崇徳院みたいに壮大なスケールで呪いを振り撒くバリバリのエリート怨霊もいれば、幽霊になってもダメダメで、人ひとり呪い殺すことさえできない半端者もいます。お恥ずかしながら、私は後者でして……」
確かに、彼女が平将門なみの大怨霊には間違っても見えない。平は少しほっとして、話の続きを促した。
「そういう半端者はどうするかというと、他の怨霊と徒党を組むんです。もちろん一人でうろうろしている人もいますけどね。徒党を組んだら、みんなで協力して憎い人間を呪い殺すんですよ。何故か必ず七人一組なので、高知のほうでは七人ミサキなんて呼ばれているそうです。でも、私ったら情けないんですよ。本当は順番に仇討ちをして、恨みを晴らした者は七人ミサキを抜けるんです。そしてまた新しい怨霊が入る。なのに私がずっと復讐を躊躇っているせいで、他の六人は順番が回ってこないんですよ。そうしてウダウダしているうちに教頭先生にスカウトされちゃって。他の六人さん、相当イライラしているみたいで、ふとした瞬間に出てきちゃうんですよね」
ミサキは何が面白いのか、フフっと笑いをこぼした。
平はおや、と首を傾げた。初めてミサキの授業を見学したとき、彼女の背後からは七体の影が出てきたように記憶していたのだ。つまり、徒党を組んでいるのはミサキを含めて八人となる。しかし、平はかぶりを振ると、その違和感を彼岸に追いやった。彼の見間違いか記憶違いかもしれないし、今それは重要なことではない。
――なるほど、これは根が深そうだな。その恨みを晴らさない限り彼女の悪い癖は治らないってことじゃないか。だけど、僕はカウンセラーでもないし、まして「じゃあ呪い殺しちゃいましょう!」とは口が裂けても言えないし…… でもこのままじゃ本当にミサキ先生の授業で死人が出かねないしなぁ……
「おいチビ! テメエ、またニンゲンに媚売ってるらしいじゃねえか!」
考え込んでいた平の耳に怒声が飛び込んできた。どうやら階段の踊り場から響いている。ヨルの声だった。
「うっさいなぁ…… アンタに関係ないでしょ。マジでダルいんだけど……」
返す刀はクーちゃんらしい。
「関係なくねえよ!」
「何が関係なくないの?」
「いや、そりゃあ……その……」
「きっしょ。ハッキリ言いなよ、このボサボサキショ眼帯」
「あ? 何だとこのチビ!」
意外な組み合わせの遣り取りだった。ポカンとした平に、ミサキがボソリと耳打ちする。
「クーちゃん、どうも人間相手にパパ活してるらしいんですよ」
「パァッ……パパかっ……」
思わず叫びそうになった平の口を、ミサキが慌てて塞いだ。
「まあ、私たちが想像するようなパパ活とは少し違うみたいですけどね。まあ、そもそもそれが彼女の妖怪としての性質で……」
ミサキが言い終わらぬうちに、平は踵を返していた。
「え? 平先生、どうしたんですか?」
平はミサキに振り返った。気持ち悪いほどにキリリとした顔をしている。もとい、ただの気持ち悪い顔だ。
「生徒がパパ活をしているだなんて、そんなことを聞いて放っておける平太郎二十六歳ではありません。そんなフシダラ乙女にはビシッと言ってやりますよ、ビシッとね!」
そして平は去り際、思い出したように言った。
「あ、あとさっきの話ですが……」
「はい?」
「教師に向いていないなんてことありませんよ。そうやってどうすれば良い授業が出来るか真剣に悩んでいる時点で、ミサキ先生は凄くいい先生だと思います」
平は気持ち悪い笑顔のまま親指を立てると、踊り場の方へと駆け出していった。ミサキはぼんやりと、その後ろ姿を見つめていた。
無論、クーちゃんが売春をしているということは由々しき問題だ。そんなことは生徒の安全と道徳教育上、絶対にやめさせなければならない。だがそれ以上に、平を駆り立てている事実があった。
――なんだよ、ヨルのやつ。どう攻略しようかと手をこまねいていたが、そんなカワイラシイ一面があっただなんてな……否、僕は教師だ。生徒の恋心を懐柔の手段にするなどという下劣な真似を……
なんの躊躇もなく、やる!
平は気持ち悪い笑顔のまま階段を駆け下り、「君たち、話は聞いたぞ!」と威勢よく声を張り上げた。
踊り場には、もはや誰もいなかった。
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