Stormbiinger (1)

 薄い湿気を纏った夏の夜風が体にまとわりついてくる。平は息を呑み、ダラダラとはためく「九十分食べ放題」の幟を見つめていた。

 二人が店に入ってから、既に十分が過ぎている。恐らくあの男は今、化け物じみた勢いで山盛りの料理を貪っているところだろう。前回のペースから考えると、まだ二人が出てくるには時間がある。彼らが店を出てきたらどうすべきか、様々な状況を想定してシミュレーションを組み立てていく。

「オイ、何やってんだテメェ?」

 唐突に襟首を掴まれ、平は思わず小さな悲鳴を上げた。


   ※


 争奪戦――正式名、百鬼夜行主催権争奪戦――の話を聞いて、平は軽音学部の指導を引き受けた。バンドコンテスト的なものが行われるのだろうが、現状からして勝つのは難しいかもしれない。だが、勝ち負けに関わらず、どうせなら少しでも良い演奏でステージに立たせてやりたかった。楽しくやるのは大切だ。だが楽しくやる裏側には努力が必要なのだ。週二回の練習を週四回に増やし、そのうち半分は当面のあいだ個人練習の時間に設定した。

 いきなり練習を倍に増やせば反感が出る懸念はあったが、ほぼ全員がサボらず練習している。それだけ争奪戦というものに対する彼らの熱量が高いのだろう。いや、単に彼らは音楽が好きなのかもしれない。平が用意した課題を、各々が黙々とこなしている。

 ただ……

「じゃあ、ウチ帰るね」

 問題はクーちゃんだった。ギターの演奏ではない。むしろ彼女はメンバーの中でもかなり器用だし、飲み込みも早い。キチベーとオフクほどでは無いにせよ、音楽的なセンスも申し分ない。しかし、とにかく練習を抜ける頻度が高かった。

「えー、クーちゃん、また早引け? 淋しいよーん」

「ちゃんと自主練しとくから。それで問題ないでしょ」

 しなだれかかろうとしたナナがにべもなく躱され、椅子から転げ落ちる。間抜けな声を出したナナを一瞥すると、クーちゃんは呆れた顔で部屋を出ていった。蜻蛉玉が立てるチリチリという音が遠ざかっていく。

 彼女が早退してどこに行くのか、平は知っている。知っているからこそ、平はクーちゃんを止めることが出来なかった。彼女を引き留めるということは即ち、彼女やその眷属たちの栄養摂取を妨げるということなのだから。とはいえ、顧問を引き受けた以上は放っておく訳にもいかなかった。練習を頻繁に抜ける者がいればバンドメンバーの士気が下がる。現にキチベーとオフクが不満を漏らし始めていた。

 歯痒い思いでクーちゃんの背中を見送っていた平に、ナナが背後から声を掛ける。

「まあ、クーちゃんは仕方ないよねー」

 言いながら平の横に並んで、クーちゃんの去った後を見つめた。

「でもねー、そろそろ今のパパとは終わりっぽいよ」

「終わりって?」

「なんかねー、凄い勢いで迫られてるっぽい」

「は? 迫られてるって、まさか体の関係をか?」

 ナナは平とは目を合わせず、無言で頷いた。平は驚くと同時に、ふつふつと何かが込み上げてくるのを感じた。

――怪しからん! まっこと怪しからんじゃあないか!

 目を血走らせた平を横目に、ナナが言う。

「クーちゃんのことだし、うまく躱してるだろうけどさ。なぁんかいつもと違うんだよねぇ。いつもならとっくにクーちゃんの方から切ってるんだけど。まあ、無理もないか。久々に食いっぱぐれのない金持ちパパを引き当てたみたいだし、パパはパパであんな可愛い子を手放したくないだろうしね」

 平の充血はいつの間にか収まっていた。代わりに、妙な胸騒ぎを覚えていた。


   ※


「え、いや、その、何って……その、いや、え……」

 襟首を捉まれ、親猫に咥えられた子猫のような体勢のまま、平はしどろもどろに答えた。背後から殺気だった視線が浴びせられた次の瞬間、彼の体は恐ろしい力でもって強制的に背後へ振り向かされる。ヨルが片眉を吊り上げ、平の顔をまっすぐに睨みつけていた。

「アァ? コラ、ハッキリ言えよ」

 乱暴に胸ぐらを掴まれ、平の体がほとんど宙づりになる。平はヨルの剣幕に圧倒され、さらに「あう」だの「うあ」だの、しどろもどろの返答を重ねた。その反応がヨルの癪に障ったのか、平のつま先が地面から離れる。

「なあ、てめぇ、さっきからコソコソとチビのこと尾行してたよな。いったい何を企んでやがる?」

「いや、僕はただ…… というか、チビってクーちゃんのことか?」

「質問を質問で返すんじゃあねぇ! てめぇ、やっぱり何か企んでやがるな。いったいどこの回し者だ?」

――は? 何すか、回し者って……

 平は唖然とした。彼はてっきり、「下心丸出しで尾行しているドスケベ変態教師タイラタロウからクーちゃんを守らねば」という勘違いからヨルが昂っているのだと思っていたのだ。あんぐり口を開けた平を見て、ヨルは更に苛立ちを見せる。

「トボケんじゃねぇぞ。最近、パイセンどもが立て続けにやられてる。そしてこの前のワッカだ。全部、てめぇが来てからなんだよ」

「い、いったい、何の話だ?」

「まだトボケるつもりかよ。じゃあ言ってやる。あの時てめぇは、わざとアイツのことを挑発して暴走させ、外へ行くように仕向けた。違うか? それに聞いたぜ。ワッカを攻撃した野郎、お前の知り合いなんだってな」

 平はようやく理解した。つまりヨルは、平と篠田がグルだと考えているのだ。

「ちょっと待て。君はとんでもない誤解をしている。そもそも先輩たちが襲われてたことなんて知らなかったし……」

「そうか。なら、力づくで喋ってもらうしかねぇなあぁ!」

 ヨルが拳を振り上げる。情けない悲鳴を上げて目を逸らした平の視界に、幸か不幸かロマンスグレーが映った。

「おい! 出てきたぞ、クーちゃん」

「何だと?」

 ヨルが平を邪険に打ち捨てて振り向く。

「しかしまあ、この前と比べてもやけに早いな……」

 何となく呟いた平の言葉に、ヨルが再び目を剥いた。

「この前? てめぇ、何度も尾行してやがったのか?」

「ぼ、僕はただ、生徒がパパ活をやっているという由々しき事態に対処するためにだな」

「んなこと信じられるかボケが! だいたいてめぇが……」

 二人が言い争っている間に、クーちゃんとパパは肩を並べて歩き始めてしまった。

「チッ! 話は後だ。てめぇも一緒に来やがれ。妙な動きをしてみろ。その場で蹴り殺してやるからな」

 再び襟首を掴まれ、平はヨルに引きずられていった。

 前回とは違い、クーちゃんとパパの二人はなかなか解散しなかった。それどころか、繁華街から離れた暗い通りに入っていく。

――あれ? もしかしてこの通りは……

 平はその通りに何があるか知っていた。そう、HOTELである。それもただのHOTELではない。特殊な用途に使う特殊なベッドや特殊な椅子が完備された特殊なHOTELである。

 二人の影が、薄汚れた電光パネルの前で立ち止まる。

 平とヨルは物陰に隠れ、様子を伺っていた。ヨルは明らかに焦っていた。目を見開き、唇をわなわなと震わせている。

――ムフフ……なんだよ、やっぱり可愛いところがあるじゃないか、ヨル君。君はそんなにクーちゃんのことが……

 平はニヤニヤしていたが、ふと我に帰る。

――いや、そんな場合じゃない。教師として、なんとかして阻止しなければ。チェックなインは……チェックなインだけは阻止しなければ! だが、どうやって……

 ヨルは今にも飛び出さん勢いで身構えている。目は血走り、ギリギリと歯軋りが聞こえていた。

――いや、躊躇っている場合じゃない。ヨルが行ったら、本当にあの男を殺しかねない。その前に僕が先陣を……

 意を決して平が飛び出そうとしたとき、声が響いた。

「オーケー。そういうことならもう良い。君とは終わりだ」

 よく通るダンディな声。やや感情的になっていたのか、テレビCMで聞くよりも高圧的な印象があった。その残響が消えると、男は一つ肩をすくめて闇に溶けていった。

――良かった。断ったんだな、クーちゃん。偉いぞ。

 平はホッと胸を撫で下ろした。そして気の抜けたようになっているであろうヨルの顔を拝んで茶化してやろうと思った、その時……


 俄かに閃光が炸裂した。


 強烈なハレーションの中、ショートボブのシルエットが弾け飛ぶ。


 チリ……と、蜻蛉玉がアスファルトに落ちる音がした。

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