Hot For Teacher (2)

 教室は奇妙なザワつきを見せていた。


 ギターとアンプスピーカーを抱えて意気揚々と教室に入った平は、フンフンと鼻歌を鳴らしながら、模造紙で作ったアルファベットの一覧表を黒板に貼り出した。ご機嫌な様子で模造紙の皺をならし、ギターとスピーカーを接続してツマミを回す。

 生徒たちは何事かと息を呑んでいた。狐三人娘はヒソヒソと耳打ちをし合っている。やがて真面目男子たちにもそれは伝播し、教室全体が不穏な空気に包まれ始める。次第にクスクスと笑う声も聞こえるようになる。ヨルとワッチに至っては既に居眠りを始めていた。


 不意打ち。E7thコード一発。


 お下劣なオーバードライブが教室全体を揺らす。生徒たちはビクつき、喋喋喃喃の声は一瞬にして掻き消された。居眠りをしていた二人もさすがに目を開く。ゆっくりと音が減衰し、空気の揺れが収まると、平は一つニヤリとほくそ笑んだ。

「それじゃ、授業をりますか」

 チャッカチャッカとアップテンポの跳ねたリズムでカウントを取る。だが、すぐに演奏は始めない。しつこいくらいにリズムを取る。ようやく弾き始めるかと思わせておいて、フェイントをかける。そうやって生徒たちの身体にリズムを叩き込んでいく。

 始めの内はただ唖然としていた生徒たちが、少しずつフェイントに焦らされ始めた。だが、それでも演奏は始まらない。しつこくしつこく、焦れったい空気が熟成されるのを待つ。そして、いよいよ生徒たちが目を皿にして平の挙動に集中し、空気が爆発しそうになったところで、平は演奏を始めた。

 アップテンポのスリーコードブギー。だが、その陽気な音楽とは裏腹に、生徒たちがすぐにノッてくることはなかった。当然だ。昨日は腐ったナメタケのような顔でブツブツと喋っていたニンゲンが、何の説明も無しにワンマンライブをやり始めたのである。しかも、それはそれは楽しそうに。そりゃあ引く。あのニンゲンは気が狂ったのかと思う。平とてそれは百も承知だった。だがやめない。ひたすらに弾き続ける。二拍目と四拍目に大げさなほどアクセントを入れ、時に緩急をつけながら、時にアドリブ・ソロを挿し込みながら。

 自分の弾きたいように、自分が楽しく弾けるように。

 演奏しながら、平は教室を見渡す。生徒たちは依然として戸惑っていた。戸惑ってはいたが、平のことを馬鹿にしたり、醒めた目で見る者はいなかった。それどころか、遠慮がちではあるがリズムに乗ろうとしている者がちらほらと出始めている。


――いいぞ……もう少しだ。


 平は根気強く演奏を続ける。体が火照り、じわりと汗が滲み始める。

 夢中で弾き続けるうち、変化は起こった。

 ギターの演奏に、手拍子と太鼓のような音が混ざり始めたのだ。

 平は音のする方を見る。狸バカップル、キチベーとオフクだった。キチベーが奇数拍に腹太鼓を鳴らし、オフクが偶数拍に柏手を入れる。さすがは狸といったところか、パーカッションはお手のものだ。平のクセまで聞き取り、そこに合わせてくる。あっという間に三人の音がグルーヴを作り出していた。

――タダモノじゃねえな、あいつら……

 平がニヤリと笑みを向けると、二人もニヤリと返してみせた。

 しばらく三人のセッションが続き、次第に狐三人娘が肩で腰でリズムを取り始める。オフクがキチベーに目配せをし、軽く頷いたキチベーが平に合図を送る。三人の息がピッタリと合わさり、演奏がピタリと止まる。一呼吸置いて、平は渾身のアドリブを叩き込んだ。

「ヒュー!」

 ついにその時が訪れた。アドリブの終わりへ重ねるようにして、教室の前方から歓声が上がる。ナナが両手を掲げて立ち上がっていた。ユメとクーちゃんも目を輝かせて立ち上がる。


 饗宴が始まった。


 席を立って踊り出した狐三人娘に呼応して、オフクとキチベーも拍子を打ちながら踊り始める。やがてガサブロウとムージーも堪え切れないというふうに立ち上がり、各々にステップを踏み始める。サトルは相変わらず頬杖をついて窓の外を見ていたが、足でリズムを取っているのが確認できた。

――よし、頃合いだな

 機は熟した。平はキチベーとオフクにアイコンタクトを送る。少しだけヴォリュームを下げると、教室に呼びかけた。

「君たち、楽しんでるかーい!」

 キチベーが腹ドラムロールを入れて煽ると、生徒たちは歓声を上げた。平は頷くと、そのままの勢いでを歌い始める。Ray Charlesの "What'd I say" だ。生徒たちは初めて聞く異国の言葉に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐにまた踊り始めた。コール&レスポンスの部分に差し掛かる。もはや恥ずかしがる者はいなかった。「ヘイ」と言えば「ヘイ」が返ってくる。「ホー」と投げれば「ホー」が投げ返される。

 幾度となくコール&レスポンスを繰り返してから、平は手で合図を送り、一旦生徒たちを落ち着かせた。キチベーとオフクにリズムをキープするよう目配せしながら、彼はいよいよ本題に入る。

「よーし、じゃあこの辺でマジメな話だ」

 ナナとユメが「えー!」と悲鳴を上げたが、顔は笑っていた。

「仕方ないだろう。僕にも授業をさせてくれ。残念ながら僕は先生なんだ」

 クスクスと笑いが起こる。平もつられて少し笑うと、黒板に貼った模造紙に生徒の視線を誘導した。

「いいかい。ここに書いてあるヘンテコな文字は、英語の『あいうえお』だ。さっきの歌も、このヘンテコ文字で書かれている。まず今日はこれを読んでみよう。細かい説明は抜きだ。出来るだけ僕の真似をしてほしい」

 平は再びギターのヴォリュームを上げると、コール&レスポンスの要領でアルファベットの復唱を始める。AからZまで、細かい説明はせず、とにかく真似をさせていく。生徒たちの目と耳と舌へ焼き付けるように、くどいほど繰り返す。

 楽しくはやる。だが、「基礎を徹底する」という講師としてのスタンスは捨てない。

 Zまでの復唱が終わると、平は二人の狸に合図を送り、演奏を締めくくった。教室が再び大きな歓声に包まれる。

 平は教室を見渡した。生徒たちの顔は上気し、目を爛々と輝かせて平を見ていた。間違いなく、今までやってきたどのライブよりも、どの授業よりも、充実した内容だった。


が……


「…………チッ」

 舌打ちが狂乱の余韻に水を差した。これみよがしの悪意であることは明白だった。未だ残っていたざわめきが一掃され、沈黙が教室を包む。

 平は舌打ちのした方を見る。ヨルが背もたれにしなだれ掛かり、天井を見上げていた。彼は平が見るのを待っていたように、口を開いた。

「あーあ、馬鹿みてぇだな。しょおおぉぉぉーもねえ奴ら!」

 横隔膜の底から搔き集めたような溜息まじりの捨て台詞を吐くと、彼はやおら立ち上がった。ワッチがそれに続いて立ち上がる。平は一瞬身構えたが、彼らは平の顔を一瞥することもなく、教室から出て行ってしまった。

 無論、平は気付いていた。皆が踊り狂う中、あの二人だけは頑なに動かなかったのだ(ワッチは何度か肩でリズムを取りかけては堪えていたが)。しかし、平は敢えて構わなかった。全員参加に越したことはないが、そこにこだわって全体の雰囲気を壊すのは本末転倒だ。それに、無理やり参加を促したところで、彼らがすんなり受け入れるとは到底思えなかった。もし無理矢理に宥めすかすことができたとしても、それは何の解決にもならない。

 あの二人にはじっくり向き合う必要がある。焦って上辺だけの関係を築いても仕方がない。それに……


――ああいう手合は、味方につけると心強いからな


 平は残った生徒たちに向き直ると、改めて自己紹介をした。

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